その別荘の値段は0円。広くて、キレイで、ベランダからは南アルプスが一望できる。こんなところに住めたなら……。秋風が素敵な未来の幻影を運んできた。
「いいじゃない」と美枝子さん。
「いいですねえ」うっとりと私。
「基礎がダメだ」水平器を片手に、牧さん。「腐ってる」
幻影は吹き飛んだ。
今日はおためし山暮らし、最後の日だ。引っ越しの荷物も、もうまとめてある。けれどすんなり帰る気にはなれなくて、牧さんに頼んで、無料の別荘を見せてもらったりとグズグズしている。「いい物件があったら、今から移り住みますよ」と叩いた軽口は半分本気だったけど、やっぱりそこは0円。そのまま住める別荘などなさそうだ。
「うちもタダで手に入れたけど、修繕で相当かかってるしね」
久世さんもそう言う。だよね。わかってた。
いつまでも往生際悪く、蓼科にしがみついてはいられないか。
手伝ってもらって、玄関から段ボール箱を運び出し、車に積む。重いパソコン類は男性に任せて、美枝子さんと私はそのほかを。といってもかさばる布団は先に持って帰ってもらっているし、荷物はそれほど多くないから、あっという間に作業は終わった。
車のドアを閉め、最後の挨拶のために向き合った私たちのまわりを、落ち葉が舞う。
「久世さんたちは、これから愛知に帰るんですか?」
「うん、そう。またうちの別荘にも来てね」
おふたりは昨日も、冷蔵庫が空っぽの私を案じ、晩ご飯に呼んでくれた。何から何まで、感謝しきりだ。
もう少しだけ別れの時を引き延ばしたくて、山桜の前で三人に並んでもらった。
「撮りまーす」
「やめてくれよ、こういうの苦手だよ」
とか照れながら、久世さんもちゃんと画面に収まってくれる。いい顔した友人たち。一生消せない写真が、また増えた。
固く再会を誓って夫妻を見送った後には、牧さんと私だけが残された。いよいよ鍵を返す時だ。
「ありがとうございました。すっごく楽しかったです」
私物のキーホルダーを外して、鍵だけを牧さんの手のひらに載せる。たったこれだけの動作で、別荘は私の住み家ではなくなった。
「このまま帰るの?」
「はい。ちょっとこのへん歩いて、それから帰ります。牧さんにはほんとにお世話に……」
「ん。帰り、気をつけて」
牧さんはドリンクホルダーに鍵を投げ入れると、自分も車に乗り込んだ。「またいつでも来てください」と営業じみたスマイルを浮かべて、ためらいもなくグンとアクセルを踏む。
「あ、あの、ありがとうございました!」
私の声なんか、届いてないだろう。車はすぐに見えなくなった。
あっさりした最後、なんだか牧さんらしいな。こっちはこってりとお礼を言うつもりでいたんだけど。なにしろ蓼科での出会いのすべては、牧さんが引き合わせてくれたもの。ひとりになりたくて山に来たのに、たった半年でこんなに何もかもが変わるなんて、想像もしていなかったんだから。
これまでのことを思い出しながら、別荘のまわりを歩く。一歩ごと、足の下で崩れて音を立てる枯葉。季節は確実に、晩秋から冬に向かっている。
半年前、50歳を目前にして漠とした不安を抱えていた。人生の後半戦も、代わり映えのない毎日がただ積み重ねられていくんだろうか。それは決して悪いことではないのに、なぜか気ばかりが焦っていた。
私の内面もこのまま変わらないんだろうか。昔に比べれば、確かにずっと元気になった。でもパートナーとの仲はいびつだし、人間関係でトラブルが起これば、一瞬で極端なこと、つまり死ぬことが、魅力的に見えてしまうのはそのままだった。誰かといても死にたくならないために、予防的に、他人に深入りするのを避ける。うわべだけ同調したり、卑屈に振舞ったり、見栄を張ったりという方法で。だけどそんなことをしていれば疲れて、心はどんどん汚れていく。
それでひとりで、山に来たのだ。いったん日常の何もかもを、放り出してみたかった。誰もいなければ疲れない。汚い自分も出てこない。しばらくひとりで山に籠って、来し方と行く末を見つめ直すのも悪くないと思ったのだ。
ところが結果はご覧の通り。私には大切な人がわんさかできた。
まずは自然が、強制的に私を楽にしてくれた。そのパワーは初日から、そりゃもうすごいものだった。森に身を預けると、自我だの自意識だのは溶けていく。我、なんにも思わなくても、我あり。自然の中で私は、小鳥や木々と同じ、ただの地球産の生き物になった。個が溶けて、ほかの生き物と融合して、大きなものに抱かれたような安心感。それは遠い昔、物心もつく前に感じたものに、よく似ていた。
そして牧さんが、愉快な面々を連れてきた。この地に居を構え、「自然体」という言葉の通り、自然の中に体を置いている人たち。そんな彼らと付き合うのには、町で必要な見栄や体裁は邪魔だった。取り繕っていたら、かみ合わないのだ。みんなが自分のしたいことをして、それが偶然、誰かを幸せにしたりする。頭では学んでいた「人づきあい」を、今度は体で覚えた。やがて私の口からは思ったままのことが飛び出して、手足はやりたいことをやりだした。ひとりの時の私と、みんなといる時の私が、同じ私になっていく。50年近くも持て余してきた面倒な自分を、新しい友人と自然が、たった半年で変えてしまった。
この自分を持って帰ろう。この私なら、きっとどこにいても何とかなる。
もちろんこの先だって、何度も落ち込むことはあるだろう。けれど一度身に着いたんだ。簡単にはなくなるまい。自分で命の終わりを決めるのもやめた。生きていれば自然に訪れるものを待とう。残りの人生、私は好きな人たちと一緒にいよう。
別荘を一周した。山。森。空。全部目に焼き付けた。
荷物で重くなった車をゆっくりと走らせて、少しずつ山を下る。梢が高い空をヒビ割っている。かすれた筆文字みたいな雲が浮いている。
管理事務所の前に、車が何台か止まっている。窓越しにチラっと、事務員さんが見える。このカーブを曲がったらビーナスライン。別荘地はそこまでだ。
「牧さん?」
境界線の縁石に牧さんが座っていた。そんなとこ、歩く人もいないとこ。あっけなく去ったくせに、きっと最後の顔を見に待ってくれていた。
ずるい。ここまで泣いてなかったのに。
さよならと微笑む牧さんに、バカみたいに手を振った。だけど車は止めなかった。
人生の休暇のような半年間。私に居場所をくれて、ありがとう。