浴槽を洗うブラシがなくなってしまった。風呂場に置いていた、緑色した大きめのブラシ。前日まで使っていたのに、忽然と消えた。まったく覚えていないけど、どこかに持っていったっけ? 何のために? 家の中も外も捜したけれど、どこにもない。
 今日は来客もゼロだった。別荘は傾斜地にあるから、風呂のある地階にはリビング横の階段を下りていかなくてはならないけれど、私は一日家にいた。誰かが通れば、絶対に気づく。そもそも小汚いブラシだけ盗む人なんか、いるわけない。浴室の窓の鍵だって閉めてるし。一体どこに行ったんだ、バスブラシ。
 翌日、ベランダの苔をケルヒャーでジョバーっと洗浄しに来てくれた牧さんに、この顛末を報告した。
「ほんとにあったの、そのブラシ?」
「ありましたよ。それで掃除してたんだから。牧さん、おととい、次の借り手のために、うちの写真撮りましたよね? お風呂場も撮ってます?」
「あ、撮ったわ」
 カメラロールをさかのぼると、窓際に置かれたブラシがバッチリ映っていた。おとといまではあったものが、昨日消えた。私たち、なぜか爆笑。こんな不可解にあうと、人って笑ってしまうみたいだ。
「またアレだよ、前のオーナー!」
 そう、実はこの別荘、たびたび変なことが起きていて、仲間内ではそれを「前のオーナーの仕業」と呼んでいるのだ。

 ひどい家鳴りのことは、何度も書いている。ネズミ騒動の後に、家鳴りはこのせいだったのかと一時は納得したのだが、やはりそれだけではなかったようだ。「ネズミがゴミ箱の蓋をパタンパタン開け閉めしたり、ソファーを動かしたりするのでうるさい」と牧さんに愚痴ったら「ネズミはそんなことしない!」と驚かれて、異変と知った。そりゃそうか。さらに不思議なのは、誰かがいるとその音はしないこと。例外はヤマトだけで、可哀相に夜も眠らず音を追いかけていた。
 それから長時間家をあけて戻った時に、アロマオイルのラベルがはがされていたこともある。シトロネラという虫よけに効果のあるオイルが倒され、爪で引っかかれたように、紙のラベルが中途半端にはがされていたのだ。ツルツルしたリビングボードの上にあるからネズミは登れないだろうし、おそらく動物は嫌うニオイ。翌朝は5本の瓶のうち、真ん中の1本だけが倒されていた。

 

  

何かの力によって倒され、ラベルがはがされたオイルの瓶。

 

 こんなことが起こるたびにSNSに投稿しちゃろかなと思うのだが、当時の私は宗教2世の漫画を描いていて、発言には気を使っていた。宗教の中にはオカルトめいた教義で信者を脅すものもあり、こういった類の話を聞きたくない人も多いだろうと思ったのだ。ちなみに私自身も、これを心霊現象だと捉えていたワケでもない。便宜上「前のオーナー」と呼んでいるけど、以前の持ち主がお亡くなりになっているかどうかも知らない。牧さんたちには「怖くないの?」と聞かれるけれど、特に怖くもなく、ただただわかんないな、不思議だなと思っていた。

 さて、ブラシがなくなったことを牧さんに知らせた日の夜は、一段と物音がひどかった。家具を引きずる音、壁に何かを打ちつける音。あまりの騒音に布団をはねのけ「うるさい! そこにいるのはわかってるんだぞ!」などと怒鳴るほどにうるさかった。はたで聞けば、一番うるさくて怖いのは私だろうが。
 それでもなんとか眠りについた数時間後の午前2時半、今度は別の音に起こされた。窓の外、森の中から高い音が響いたのだ。決して大きくはないが、初めて聞く音。ゆっくりとリー、リー。鈴のような、ブランコが軋むような音が一定の間隔で鳴っている。最初は虫の音色かと思っていたが、だんだんこちらに近づいてきて、思わず身をすくめた。虫の速度ではない。鳥は寝ているだろうし、獣の鳴き声にも聞こえない。リー、リー、しばし無音の後、さっきより近くでリー、リー。
 久々に肌が粟立った。怖い。前のオーナーが立てる音には感じない、不可解ながら、もっと具体的な恐怖。前のオーナーが幽霊なら、こっちはUFO、みたいな。急に窓から強烈な光が差し、アブダクションされちゃいそうな、そんな種類の恐ろしさ。
 さっと枕元のスマホを引き寄せた。SOSを出すのではない。そんな相手はいない。音を録音してやろうと思ったのだ。きっとこの話は信じてもらえないだろうから、証拠がいる。疑う人には録音を聞かせよう。私がこの後も地球にいられれば。
 30秒ほど録音した。今や音は、家のすぐ近くだ。私は耳に全神経を集中させ、身じろぎもできずにいた。起きて電気を点けることもできない。動いて、今より悪い状況になる可能性があることが怖い。これからどうなるのか。どうか、私の理性が崩壊しない終焉を!
 なんて祈ったのに、今度は家の中からリー、リーと、外の声に呼応する音が鳴り始めたじゃないかよ!
 恐怖が頂点に達した直後、突然外の音が遠ざかった。まるでテレポートしたように、一瞬で遠くに。家の中の音も消え、再びあたりは無音に支配された。なんだったんだ、なんだったんだ…。私はベッドの中、指先すら動かせなかった。

 翌日、お向かいさんが来ていることに気づいた私は、スマホを持って家を飛び出した。お孫さんなのか、小学生の女の子と木を切っていらしたが、ムリヤリ彼らの間に体をねじ込む。
「ちょっと聞いてください! 昨日、怪奇現象が!」
 再生をクリック。確かにリー、リーはとれている。
 しばらく耳を傾けていたお向かいさんは、少し首をひねりながらもこう言った。
「鹿の警戒音じゃないですか」
「え、鹿?」
「たぶんそうでしょう」
 この時のお孫さんの「大人になってもバカっているんだな」という顔が忘れられない。あんなに蔑まれたことはない。
 にしても、鹿? 鹿あ?

 その後真実が判明したが、あれはやはり鹿ではなかったのである。どうにも腑に落ちず、大桐さんにも聞いてもらったところ、トラツグミの声だと教えてくれた。万葉集の時代から妖怪の声と信じられ「鵺」と呼ばれてきた鳥の正体だ。前のオーナーは怖くない私が、小さな鳥の鳴き声にビビり散らかしていたのだ。
 いやー、わかるよ、昔の人! ありゃー不気味よ! 夜に鳴く鳥は、フクロウだけじゃないんだねえ!
 家の中から聞こえた音も、実際は屋根の上からだったんだろう。伴侶を見つけて、最後は2羽で飛び立っていったと考えるのが妥当。まったくお粗末な結果。お恥ずかしいったらありゃしない。
 だけどね、録音はいい方法だと思ったから、前のオーナーの立てる音も残してみたんだ。空中で何かが弾ける音と、低い唸り声。聞きたい人には聞かせるから、音響研究所とかで調べてくれないかな。

 

(第10回へつづく)