前回の山菜パーティーの後は、うちで「大桐さんに肉を食わせる会」が開かれた。管理事務所のバイト代だけでは、ろくなものが食べられない大桐さんのために、中高年が立ち上がったというテイの宴会だ。そして次は牧さんちで、私の2回目となる歓迎会をしてくれるらしい。あれあれあれと思わないワケではないけれど、久世さんの料理はおいしいし、さすがに数日間、人間と話さないでいると、集まることも楽しくなる。それにもともと別荘地を好むのは、都会の騒々しさや人間関係から離れたい人種。仲良くなっても、必要以上にベッタリしないのは、私の性に合った。つまり牧さんの飲み方以外は、問題なしということだ。
 いや、問題なしは言い過ぎか。山暮らし、問題はいくつか発生していた。
 一番近い産直まで車で20分、コンビニまでは30分というのは、私には問題ではない。便利さよりも、町の音が聞こえない環境を選んだのだから。
 寒いのも我慢できる。5月末でもダウンを着てるし、冬用の羽根布団もそのままだけど、大丈夫。水道管が凍らないよう、ゴールデンウィークの終わりまでつけてた電熱線の電気代も怖いけど、猛暑の埼玉に比べれば。
 別荘地では美観のために、洗濯物の外干しNGってのは、ちょっとイヤだった。けれどこれも、私の別荘が人目のつかない最奥地にあったため、コッソリ干してクリア。
 だから今、問題なのは、まずひとつ目は家鳴りだ。夜になるとあちこちから、パキッ、ピキッと大きな音がなる。木造建築では、湿度の変化によって木材が伸縮し、わずかなひび割れが生じて、こんな音がするらしい。ラップ音みたいだが、私は昔読んだマンガのおかげで家鳴りのことを知っていたので、恐れずに済んだ。もっとも牧さんは「家鳴りは新築の話。築30年以上過ぎてるのに鳴るワケがない」というのだが。でも鳴るものは鳴るのだ。時々は、寝ていても起きてしまうくらい大きな音がするので、困っている。
 そしてふたつ目は、移住前からの懸念点。そう、虫だ。
 私も、どんな虫でも苦手というほどではなくて、とりあえず一定の大きさを超えなければ我慢ができる。「大桐さんに肉を食わせる会」の時も、部屋に5ミリくらいのカマドウマが出たが、さっとティッシュで退治した。
「何ですか、その虫?」
「カマドウマだよ。大桐さんのところには出ないの?」
「出てないと思います。カマドウマ。へー……」
 スマホでさっそくカマドウマの生態を検索する大桐さん。さすが。頭のいい人は、こうやって、すぐに知識を定着させるのか。しかし覗き込むと「カマドウマ」「食べ方」「揚げる」などの検索ワードが並んでいた。
「カマドウマ、食べるつもり!?」
「あはははは」
 なんて無邪気な顔だろう。やっぱり天才、イコール変わり者なんだ。それともそんなにひもじいのか。またすぐに、何かを食べさせないといけなさそうだ。
 まあそれはともかく、虫問題。具体的に言えば、私は蛾だけがワケもなく、どうしてもどうしてもダメなのだ。ひいい。

 森の中で暮らしていて、蛾を避けて生活することなんてできない。夜、窓の外にはたくさんの蛾が止まる。ひいい。でもそれはカーテンを閉めてしまえば大丈夫。見えなければ、いないも同じだ。カマドウマはどこからともなく部屋に侵入してくるが、蛾は、ひいい、扉や窓の開け閉めにさえ注意していれば、入ってくることはない。
 自然を楽しみつつも、毎日真面目に仕事をしていた私は、その夜もパソコンのブルーライトを光らせながら、眉根を寄せていた。すると突如、
 ゴンッ! ゴンゴン!
 家鳴りにしては、重量を感じる音だ。イヤな予感と共に頭をあげると、やっぱり。部屋のライトにゴンゴン、バチバチとぶつかりながら、黒い塊が飛び交っている。あの高速飛翔は蜂。しかもかなり大きい。でも蜂って、あんなふうに光の周りを飛んだっけ?
 パソコンのディスプレイに向かって下降し、一瞬止まったソレに目を剥いた。蛾じゃん。
 知らなかった。山の中のイキのいい蛾は、ヒラヒラなんてオノマトペとは対極の、スズメ蜂みたいな力強さで飛ぶのだ。最も苦手なものが、最強のコンディションでやってきた不幸。部屋を蛾に明け渡して扉を閉め、廊下で砂山みたいにくずおれた。
 なんで、なんで。私の人生、なんでこうなの。どうしていつも、難題が降りかかるの。純度100パーセントの幸福には、一生手が届かないの。別荘暮らしなんかしなけりゃ良かった。吹き抜けの天井じゃ、殺虫剤も届かない。こんな時パートナーがいればな。そうだ、大桐さんを呼ぼうか。でもまたあんなこと検索されたら、私、おかしくなるかもしれない。ああもう、どうして生まれてきちゃったんだろう。
 ひとしきり人生を呪った後、それでものっそりと立ち上がった。自分のことは自分でわかる。私は絶望してからが強いのだ。絶望しきると、人権剥奪作戦と呼んでいる戦法が取れる。私が嫌がろうが、怖がろうが、泣こうが喚こうが、私は無視する。私が私を、人権のないロボットとして動かすのだ。ちょっと何を言っているかわからなかったら、申し訳ない。
 さあ、作戦開始。私の手足はすくんでいるが、ロボットなので動いてもらう。パソコンと部屋の電気を消して、玄関だけに明かりをつける。廊下で虫取り網を構えて、光におびき寄せられた奴らを迎え撃つのだ。万一に備えて、百均で柄の長い虫取り網を買っておいた過去の私、召し抱えてつかわす。
 1分、2分。来ない。そこまで光に敏感じゃないのだろうか。3分。
 ロボットの身ながら、さすがに何やってるんだろうと思い始める。左半身を玄関のライトに照らし、右半身は暗闇に沈ませ、身じろぎもせず、立ち往生した弁慶みたいに虫取り網を掲げる時間。半世紀近くも生きてきたけど、こんなふうに時を過ごすのは初めてだ。今、誰かが入ってきて私を見たら、間違いなくチビるだろうな。4分。
 ここで、来た。
 来るときは一斉だった。再び無心メーターをマックスにして、1匹ずつ狙いを定め、網に収めてはポイっと外に放り出す。ロボットにとっては、どうってことない作業だ。だんだんと動きに無駄もなくなって、誰かに見せたいほどのキレ。ホイ、ホイ、またホイ。
 ようやく人心地ついたのは、部屋が静けさを取り戻したことを、何度も確認してからだった。
 ああ、怖かった。気持ち悪かった。もうイヤだ。でもそれでも、ちゃんと解決できたね。よっ、ひとり上手。
 やれやれとつぶやきながら、パソコンの電源を入れる。仕事の遅れを取り戻さなくては。しかし奴ら、いつの間に入ってきたんだろう。
 ゴン、ゴン!
「ひいやあああああ!」
 
 窓が開いていることに私が気づくまで、この夜の惨劇は、何度も繰り返されたのだった。

 

(第5回へつづく)