蓼科に来る直前、埼玉で婦人科にかかった。どうにも暑くて汗をかき、これが噂に聞くホットフラッシュかと、検査を受けに行ったのだ。病院は嫌いだが、更年期らしき症状が出てきたら早めに手を打つべしと、諸先輩方に言われてきた。たまには言いつけを守ってもバチは当たるまい。
カルテで私の年齢をチェックした医師は開口一番「お年頃ですね」と、涼しい顔で言った。
「血液検査でホルモン値を見てもいいんだけど、その必要もないかな。注射しますから、これが効いたら更年期確定ってことです」
例の診察台で足を開くかわりに、ベッドでズボンを下ろして半ケツになった。左ケツ上部に、ブスッと注射が打ち込まれる。あ、痛。
大量の薬も持たされて帰宅すると、なんだかすでに汗をかく量が減っている気がした。うん、絶対減っている。やはり更年期に突入していたのだ。ホットフラッシュが軽減したのはありがたいが、この先はさらなる不調も訪れるのだろう。それを考えると少し、いやかなり憂鬱だなあ。
……と思っていた。ここに来るまでは。
羽根布団の中で目を覚まし、フリースを羽織って階下に降りて、顔を洗う。今は8月。盛夏も盛夏。しかし蓼科の山の中では、朝晩はもちろん、日陰や室内はいつもひやっとするくらいの気温で、更年期の薬を飲まずとも1滴だって汗をかくことはなかった。
「汗は……埼玉が暑かったからか……」
更年期に怯えすぎて、なんでも結び付けてしまっていたようだ。更年期症状の軽重は人それぞれだが、バカさ加減も人それぞれという話である。
まあそれはともかく、事程左様にこの地の8月は快適なのだ。私が毎日をどんなふうに過ごしていたのか、自慢を兼ねて列挙してみよう。
まず晴れた日の散歩。短い夏に咲き誇る高山植物が目に楽しい。行き会った大桐さんがピンクの花束を抱えていたので尋ねてみたら、知り合いの庭に咲いていたヨツバヒヨドリを、少し分けてもらったのだと教えてくれた。外の花瓶に活けて、アサギマダラを呼ぶんだそうだ。アサギマダラは1000キロ以上も海を越えて移動する渡り蝶で、蓼科ではヨツバヒヨドリを好んで集まる。しかし近年は鹿による食害でヨツバヒヨドリが減少。アサギマダラも減っているんだそうだ。ふうむ、勉強になる。「アサギマダラってアレですよ」と教えてもらった青い蝶が、うちの庭にもくる子で、無性に感動。
たまには遠出もする。山にも登ったし、若杉さんに誘われて、本栖湖でカヤックにも初挑戦した。二人乗りのカヤックは若杉さんの私物で、ダンを先頭に、私、若杉さんと乗り込んで沖に漕ぎ出す。初めて手にするパドルの扱いがわからなくて、私は頭からシャワーのように水をかぶった。我が体、思うように動かず。それにしたって、目の前の富士山よりも見惚れてしまうのは、光が綾なす水底の揺らめき。お札にも描かれた本栖湖の水が、こんなに透明だなんて、みなさんご存知でしたか。
それから、豊富な食材も紹介したい。5月に来たばかりの頃は、ほとんど地場産がなかった「たてしな自由農園」には、今やあふれんばかりの採れたて野菜と果物が並んでいる。生食可能な糖度のトウモロコシ、一抱えもある大株のセロリ、甘酸っぱいジャムができる真っ赤なルバーブ、朝霧を封じ込めたように瑞々しいレタス。早朝に車を走らせた時に、山麓のレタス畑がすっぽり霧に覆われているのを見た。おいしい野菜ができないわけがない。
果物はちょっと高いけれど、8月だけは奮発しちゃおう。桃は言わずもがな、葡萄は長野でしか見ない品種もあって、お気に入りを探すのも楽しい。けれど、次はこれを食べようなんて思って1週間後に来るとなくなっていたりするので、チャンスの神様は前髪しかないことは、肝に銘じておかなくてはいけない。
もちろんおいしいのは農作物だけではない。料理人の久世さんがどこからか釣ってきた鮎は、若杉さんの家で炭火焼となった。ちゃんと強火の遠火で焼いた、カタのいい鮎。好きな食べ物を問われれば、川魚と答える私だ。どうしたらほかの人の鮎を奪えるか考えながら、頬の中を幸せで満たした。
そういえば、久世さんの妻の美枝子さんが「大桐さんと彼氏を見たよ」と言い出したのはこの時。別荘地内のテニスコートで、キャッキャしていたんだそうだ。
「大桐さんとテニスって、なんか似合わないね」と、私。
「彼氏、シティーボーイなんですよ」と、大桐さん。
「シティーボーイって、若い子でも言うんだ!」と、みんな。
彼氏を出迎える時に竹馬に乗って行ったら、真顔で「そういうことはやめてほしい」と言われた話に大爆笑。だけど大桐さん、最近は裸足で歩いてるからね? 大桐さんの彼氏なら、竹馬くらい受け止めてほしい。
そうそう、大桐さんのお母さんにお会いしたのも8月だ。「いつもヤマトを預かってもらってありがとうございます」と、お稲荷さん用の味付け油揚げと、ちらし寿司の素をくれた。わー、お稲荷さん大好き! でもこういうお土産は初めて! お母さんは大桐さんにそっくりな大きな目をしたキュートな人で、いろんな言葉を言い間違えて、ケラケラ笑って帰って行った。そりゃ大桐さん、いい子に育つわ。
ああ、ここで終わりにしたくない。まだまだ自慢したいことはある。温泉、星空、池のほとり。だけどまあ、おおむねこれが私の日常だ。8月はこんなふうに過ぎている。外で遊び、おいしいものを食べ、好きな人たちと過ごし、夜は寒いから早く寝る。
そこではたと気づいたのだ。蓼科に来てから、すさまじく体調がいい。もしかしたら更年期を、この暮らしが癒してくれているんじゃないか、と。
山に来ると症状が出ないと言っていた先達もいた。それはきっと、気が紛れるなんてもの以上の効能。自然は思った以上に、私たちを治癒する力を持っているのかもしれない。
なんて言ったら、医者は笑うか、怒るかね。だけどこれが、私の体感。
エッセイ・コラム|第15回
アラフィフひとり おためし山暮らし 第十五回
毒親や宗教二世問題を描いてきた漫画家が、賃貸別荘であこがれの大自然の中で山暮らしをスタート。生活、人間関係、気持ちの変化を綴る「気づき」のエッセイ。
(第16回へつづく)
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第15回
アラフィフひとり おためし山暮らし 第十五回(2024年12月1日)