ひゅっと煙が上がったのかと思ったら、正体はリスだった。カラマツを垂直に駆け上がって、垂直に駆け降りる。木の上で生活する動物がそんなふうに動くのは当たり前なのに、こうして目の当たりにしたら、ビックリして「わあっ」と声が出た。だって空から引っ張られたみたいに真っ直ぐな針葉樹を、あんなに素早く高く、どうして落っこちないんだろう。それになによりあのリスは、動物園にいるんじゃない。森にはほんとに野生の動物が棲んでいるのだ。新参者は、無言でなんか驚けない。
 別荘に住んで初めての朝ごはんを、ベランダで食べている。早くも酷暑の様相を見せる埼玉と違って、蓼科の5月の外気はまだピンと冷たく、ダウンを着こんだ。蓼科山の頭もまだ白い。それでもリスや小鳥には春なのだろう、すさまじく元気だ。チチチと高い声だけ聞こえて、姿の見えない鳥。スズメより小さな黒っぽい子。互いに鳴きながら、木々の間を連れだって飛ぶ2羽。あれ、私って鳥の名前をひとつも知らないんだな。ここはこんなに歌で満ちているのに。下手くそな口笛みたいな声で鳴く鳥がいたから、私も口笛を返したら、ドン引きされたのか、森がシンとしてしまった。ご、ごめん。
 それにしても、自分のことながら、どちらの気持ちが勝つのかなと思っていたのだ。夢の生活ができた嬉しさと、別れ話の混乱と。パートナーとは6年もつきあって、大きなケンカもしなかったし、年齢的にもこのままいくと思っていた。それが昨日、突然。でもどうだろう、私は今、誰にも見られないのをいいことに、堂々とニヤニヤし続けている。

 引っ越しを手伝ってくれるよう、パートナーには頼んであった。別荘にはたいていのものがそろっていたので、服と布団とパソコンくらいを自分の車で持ち込めばよかったのだが、そのパソコンが重い。漫画用の、ちょっといいスペックなこともあって、女手でグラグラさせながら持つのは怖かったのだ。
 ところが引っ越しの前日、季節外れの冷たい雨がビチョビチョと降る中、パートナーは趣味の自転車を乗り回した。風邪ひくからやめてとお願いしたが、取り合わない。自明の理として、当日の朝。
「風邪ひいたから、行けない」
「…」
「熱が出た」
「…もういいです」
 くだらなさすぎて読んでもらうのも申し訳ないやら、恥ずかしいやらだが、ともかくこれが、仲違いのキッカケとなった。
 結局、荷積みは偶然居合わせた友達が、荷下ろしは牧さんや管理事務所の方々が協力してくれて事なきを得た。頼みの綱が千切れた後だと「困ったことがあれば、連絡ください」という牧さんの、形式的な挨拶すら身に沁みる。しかもこの日、受けた情けはこれだけではなかった。
「同性のほうが、相談しやすいこともあるでしょうから」
 そう言って牧さんが紹介してくれたのは、うら若き女性。幅の広いふたえの下に、こぼれ落ちそうなほど大きな目が可愛らしい。頭をピョコンと、子どものような勢いで下げた。
「大桐です」
「大桐さんは東大の建築学科の大学院生で、1カ月前からひとりでここに住んで研究してます。事務所でバイトもしてもらってるので、何でも、いつでも」
 あどけないくらいに見える彼女と、突然出てきた「東京大学大学院建築学科」という言葉のギャップに、思わず「東大院生ミルノ、ハジメテダア」とため息が漏れた。
「大桐サンハ、建築家ニナルンデスカ?」
「いえ、絵本作家になりたいんです」
「エホンサッカ…」
 難しい数式を解いたら、建築科から絵本作家という回答が導き出されるのだと思う 。凡人にはわからないことがあるのがこの世。
 なんにせよ、森の中にひとり暮らす女は自分だけではないということを知り、妙な連帯を感じた。私は虫が嫌いなので、虫が出たら呼びますと言うと「む、し?」と初めてその単語を聞いた人のような速度で聞き返されたが、気にしないことにしよう。その後に「はい、駆けつけます」と答えてくれた大桐さんは、間違いなくいい人だから。

 小鳥の合唱の中で朝食を終え、皿を重ねながらぼんやり思う。昨日がこれで終わればよかったのに。牧さんや大桐さんに親切にされて、私の機嫌も直って。その後パートナーと仲直りできれば、輝かしい別荘生活第一日目となったのに。夜、彼に連絡すると「いつも真理子に怒られてる気がする」「自分はこれからも、怒らせないようにはできないと思う」と、別れのメッセージが送られてきたのだった。
 ううむ。一拍置いて冷静になるために、朝のやりとり以降、ラインを未読スルーしてたのが逆効果だった。怒らないための方策だったのに、人間関係ってなんでこんなに難しいんだろう。49歳になってもまだ、こういう失敗をしでかしてしまう。
 食器をシンクに置くと急に、朝食によって生み出された制作物が、お腹の中で存在感を示しだした。作品を提出しに、トイレに急ぐ。外を通る人もいないから、窓を大きく開けて新鮮な空気を吸いながら創作に励むと、
 ホーーーホケキョッ!!
 ウグイス! 森にはこんな大きな声のウグイスも!
 ホーホケキョがめでたく聞こえるのは日本人のサガ。まるで私の労作が「お見事」と言祝がれたようで、爆笑しながら個室を出た。
 いやね、そりゃ私だって人並みに落ち込んでいるよ。パートナーに申し訳ない気持ちと、裏切られたような気持ちに苦しんでいるよ。だけどそれでも、ニヤニヤしてる。笑ってる。だって真剣さというものが、頭から追い出されてしまうのだ。体にだーっと入ってくる、木々の緑に、山の白に、リスに、鳥に、この自然に。

 

(第3回へつづく)