6月に入った。
 先月末から急に雨の日が増え、梅雨がすぐそこまで来ていることを実感する。雨が降らなくても、森の空気はしっとりと水分をたたえ、別荘が霧に閉ざされる時間も長い。これぞ幻想という美しさを堪能しようと、ベランダでバーベキューの炭をおこしたら、火がつくそばから湿気てしまい、焼けない肉を2時間見つめるハメになった。洗濯物も生乾き臭くなるし、なかなかに過ごしにくいシーズンが来るのかもしれない。
 けれどこの雨や霧が、苔むした北八ヶ岳の景観を作るのだ。観光客に人気の「白駒の池」周辺には、たくさんの種類の苔が自生し「日本の貴重なコケの森」に選定されている。この別荘地内もあちこちに苔が生え、遠くから見れば緑の絨毯、近くで見れば造形の妙。しっかりと茎も葉もある小さな植物が、ぎゅっと雨の水玉を抱えている。自然というのは本当におもしろい。
 だから、だ。だから反省しているのだ、あのことを。
 蛾が侵入してパニックになった翌日、一番強い殺虫剤を調べて、車で30分かけて買いに行った。窓の外側にスプレーしておくと、虫が寄り付かなくなるとのうたい文句。毒性が高いので、散布後すぐは、人間も避難しろと書いてある。
 しかし夜になって観察したら、なんのことはない。虫は普通に寄ってきた。ただ、窓に止まってしばらくすると、悶えてハラリと落ちていく。
 翌朝、ベランダに出て、箒で死骸を片づけながら、猛烈な後悔に襲われた。実はこの掃除は朝の日課。虫は毎日死んでいて、殺虫剤を撒こうが撒かなかろうが、その数は変わらなかったのだ。もともと儚い彼らの命。無駄に苦しませて殺してしまった。それにあの可愛い小鳥たちは、昆虫を餌にして生きているのだ。どうしてその循環に思いを馳せなかったのだろう。自然が好きだなんて言いながら、メディアが切り取る「映える自然」と同じものを求めていた。自分は闖入者だと自覚して、先に暮らすものたちに相対しよう、謙虚になろうと、猛省している今なのだ。

 それにしたって雨が続く。晴れた日には、仕事の合間に散歩もするが、こう雨では出る気にならない。そろそろ買い出しに行かなきゃいけないのだけど。このチンゲン菜を使ったら、野菜室はすっからかんだ。
 シンクに落ちた青菜を拾うと、小さな虫がピョンと跳ねたので、排水口に流した。カマドウマってなぜか、水場にいる。
 ……あ、ええと。今後は一寸の虫も殺さないとまでは言えなくて……。無暗な殺生はしないけど、そのへんはまあ、臨機応変。
 できた夕食をリビングに運ぶ。いつもこうしてソファーに座って、森を見ながら食べるのだ。雨には出かける気分を削がれるが、木々に落ちる雨音は素敵だ。そういえば埼玉から持ってきたスピーカーは、一度も使っていない。鳥の歌声や雨音が楽しくて、今のところ音楽が必要ないのだ。夜に満ちる無音ですら、私には心安い。
 ふいに「ひとりでいて、怖くないの?」と、幾度となくされてきた質問が頭に浮かぶ。何をするかわからない誰かとずっと一緒にいる方が、私はよっぽど不安に感じるのだけど、うまく説明できたことはない。きっとこういうところも、可愛げがないんだろうな。それでもこの静けさに、ひとりで浸っている方が落ち着くのだ。雨音、時々家鳴り、そしてカサカサ。
 ん? カサカサ?
 聞いたことのない音にキッチンを振り返る。またこの間と同じパターンかと身構えたが、米袋の後ろから飛び出してきたのは、なんとヒメネズミ。キーッと超音波のような高い声で鳴いて、目にもとまらぬ速さで食器棚の後ろへ。
「何あれ、きゃわいい!」
「振り向いただけなのに、捕食される動物の察知能力ってすごいな」
「米が危ない!」
「あの子が家の中のカマドウマを食べてくれるね」
「ネズミって、衛生的にどうよ!」
 あまりの事態に、私はこの5文を多重音声で発した。いやあ、どうしよう!
 懐中電灯で食器棚の後ろを照らすが、見当たらない。壁にも穴は開いていないのに、一体どこに消えたんだろう。量子力学的には壁抜けは可能……なんて考えている場合じゃない。今まで見たことなかったのに、雨宿りに来たんだろうか。都会のネズミと違って、森のネズミは木の実みたいに茶色くて小さくて、ずいぶんラブリーだった。ただいま猛省中だし、あの子とは共生したいけど。
 米袋を戸棚にしまおうと持ち上げたら、バラバラっと米がこぼれた。すでに破かれていたようだ。やっぱり甘いこと言ってちゃ、ダメだろうか。

「昔住んでた家では、トイレにヤマネが浮いてたこともあったしね」
「可哀相だけど、グロいわ!」
 家を見に来てくれた、牧さんとの会話。蓼科ってほんとに、大自然だ。
 あの後は姿を現さなかったネズミだが、夜中に屋根裏や壁の間で大運動会を始めた。共生はしたいけど、さすがにここを住処と決めるのはやめてほしい。チャカチャカいう足音は決して大きくはないのだが、稲作を始めた弥生時代以降の人類は反応してしまう音なんだと思う。目が覚めたら、もう眠れない。降参して翌朝、牧さんに泣きついたのだった。
「ああ、あそこかな。キツツキの穴、見える?」
 指さされた方を見上げると、ベランダの上、庇の下部分にまん丸い穴が開いていた。さらにご丁寧なことに、穴に向かって枝が張り出して、木登りが得意なヒメネズミをウェルカムしている。
「まぁ、あそこじゃなくても、1円玉くらいの隙間があれば、ネズミは入ってこれちゃうんだけどね」
「どうすりゃいいんですか」
「どうもできないね」
 実際、キツツキやネズミに手を焼く別荘オーナーは多いらしい。あれこれと対策方法もあるようだが、動物は来るものだと割り切るのが一番なんだろうと予想する。
「もしくは新築を建てること。新築だったら虫もネズミも入らないし、冬でも半袖で過ごせるよ」
「そんな金はありません」
 害獣駆除業者に連絡してみると言う牧さんを見送った後、応急処置で設置してくれた、粘着シートタイプのネズミ捕りを片づける。これ、捕れたとしても処分がイヤだもの。それにやっぱり、あの子を殺すのは、違うと思う。
 
 そんなワケで、それからずっと、私は歯を食いしばって眠れない夜を過ごし……とは実は、ならなかった。ユーチューブを検索したら、ネズミが嫌がる音源がアップされていて、試してみたら効果てきめん。人間にはほとんど聞こえない音なのに、ネズミはキャーっと家から出て行ってくれる。パソコンやスマホを開いたままにはできないので、来るたびに流すのが手間だけど、牧さんが同じ原理の忌避マシーンを見つけてくれるまでは、これで過ごすことができたのだ。
 自然は素晴らしい。文明の利器も素晴らしい。ありがたき哉、ユーチューブ!

 

(第6回へつづく)