大桐さんから突然『遊びに行っていいですか?』とラインが来て、返事をした数分後には玄関のベルがリンと鳴った。お土産に持ってきてくれたのは、山で拾った栗とクルミ。カブトムシの写真が貼られた、小学生が使うような昆虫飼育ケースの中に詰まっている。うん。私はもう、これくらいじゃ驚かない。
「珍しいね。あがって」
先に入ってきたのはヤマト。大桐さんは部屋の前で立ち止まっている。
「彼氏にフラれました」
「えっ」
大きな目から、大粒の涙がポロポロ零れた。
蓼科と東京と、遠距離恋愛になっていた大桐さんたち。彼氏は一度、美枝子さんに目撃されているけれど、基本は大桐さんが東京に帰ったタイミングで会っていたようだ。しかし最近、忙しいと断られたり、連絡が取れなかったりすることが増えたという。
「返事来なかった時間に、女の子たちと遊んでた写真がインスタにあがってて……。どうして? って聞いただけなのに、うるさいみたいに言われて……」
「ひ……っ」
「ネット見たら、こういうことされてる女の人、いっぱいいました……」
「な……っ」
「男の人って、みんなこんなにひどいんですか?」
私はキッチンに走り、昨日買っていたマロンペースト入りのパンをとって、大桐さんの口につっこんだ。
「……おいひー」
よかった。悲しい時には甘いもの、間違ってなかった。にしても私だってフラれたばかりなのに、どうして気の利いた言葉のひとつもかけられないのかな。昔から恋愛話が得意じゃなくて、相談されてもトンチンカンな答えしか返せない。心の機微とやらは、私には難しすぎる。それでも、これだけは言おうと切り出した。
「竹馬に乗ったら怒るような男とは、別れていいよ」
これ、ずっと引っかかっていたのだ。
「大桐さんには、一緒に竹馬に乗ったり、山を駆け回って虫を捕まえたりする人がいいと思う。私、大桐さんほど真っ直ぐないい子を見たことがないんだよ。おまけに頭が良くて、可愛くて、今や別荘地のアイドルだよ。彼氏は世界一もったいないことをしたと思う」
「そんなこと言ってくれるんですか」
ううっ、とまた涙を溢れさせた大桐さんは、しゃくりあげながら「このパン、どこのですか?」と続けた。
恋愛話はできないなんて言いながら、この日は私もたくさんの話をした。パートナーとのことも、初めて告白。これまでおくびにも出さなかったので、だいぶびっくりさせてしまった。
あとは「浮気する人はまたやるよ」とか「逆ギレする人はダメだ」とか、世界中で毎日、何億回も交わされているような話を延々。大桐さんにとっては、私の口は地獄の釜の蓋だろう。開くたびに醜い現実が飛び出してくる。「そんなにひどい人がいるんですか」と目を見開かれるたびに、太陽のようなこの人を、無駄に曇らせているような気持ちにもなった。それにつけても、こんなに非の打ち所がない人を手放そうだなんて、一体どんな男だい。
そう怒りつつも、大桐さんが立ち直るのは早いだろうなとも思っている。なんてったって家族に愛されてきた人は、ちゃんと自尊心が育まれてる。間違っても私のように、自分をむげに扱う人にすがるような真似はしないのだ。……あー、早くケリをつけなきゃなー。
結局、大桐さんは泊まっていった。大桐さんの側を離れないヤマトを見て、やはり固い絆を結べるのは犬との間のみ、なんて思う私は、いくつになってもひねくれたままだ。
翌々日、ふたりで若杉さんの家に遊びに行った。いや、正確には大桐さんは寝坊して、約束の時間には来なかった。「あの人は大物になりますね」と笑う若杉さん。ああ、温厚。
先に林で栗を拾い、ヤマボウシの実を摘んだ。今日はジャムを作るのだ。ヤマボウシはハナミズキの近縁種で、都会でも街路樹として植えられているところがあるそうだが、まったくもって知らなかった。サクランボに似た赤い実がたくさんついているのに、目に入っていないものだなあ。野生動物が好きそうな甘い実に、ダンは興味がない様子。長い棒で枝を揺らし、5キロほども収穫した。
若杉邸に戻った頃に、ヤマトと一緒に大桐さんも到着。平謝りしている姿は、いつもと変わらないように見える。焚き火の前でヤマボウシのヘタを取りながら、こっそり「どう?」と聞くと「大丈夫です。別れてよかったです」と頷いた。まだ傷は癒えていないだろうけど、やっぱり気持ちのしっかりした人だ。
ヤマボウシのジャム作りは、想像していたよりも大変な作業だった。ヘタを取って、水洗いして、潰しながら砂糖と煮て、皮と種を取り除くために裏漉し。網目をサーっとなんて流れないから、ヘラでギュッとザルに押し付けて、果肉を漉す。かなりの手間だが、没頭していると雑念が払われていく。
3人がかりで5時間後、干し柿のような上品な甘味のある、極上のジャムが完成した。
「こんなにおいしいのに、市場に出回らない意味がわかるわ。大変すぎる」
「だけど自然の恵みをいただけるのは、うれしいでしょう?」
ジャム作りの合間に、若杉さんが捏ねていたパン生地とピザを窯へ。ピザは釜から出したらそのまま口に運ばなきゃいけないから、急いで牧さんを呼びにいく。到着した牧さんは、大桐さんの顔を見るなり、
「あー! 事務所の軽トラのホイールで焚き火しただろー!」
「あー! すいません! すいません!」
過去一の大ネタだ。いいんだよ。大桐さんはそれでいいんだよ。
若い大桐さんの人生は、これからいろんなことがある。いろんな人にも会う。きっとすぐに新しい恋もする。私たち中高年は、会わなくなっても大桐さんを大事に思い続けるけれど、大桐さんの中では私たちの影はどんどん薄くなっていく。そうやって道を分かれていく年の離れた友達を見るのは、だけど決して、悲しいことではないのだ。
拾った栗のご飯も炊けた。ポトフも煮えた。焼きリンゴもスタンバイしている。焚き火を囲んで、夕餉は続く。そろそろ外でご飯を食べられる季節も、終わりだろうな。
エッセイ・コラム|第20回
アラフィフひとり おためし山暮らし 第二十回

毒親や宗教二世問題を描いてきた漫画家が、賃貸別荘であこがれの大自然の中で山暮らしをスタート。生活、人間関係、気持ちの変化を綴る「気づき」のエッセイ。
(第21回へつづく)
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第20回
アラフィフひとり おためし山暮らし 第二十回(2025年2月9日)