大桐さんの犬を預かった。
 脅迫文みたいだが、違う。ウキウキとお預かりした。ずっと犬不足だったのだ。犬が部屋にいるだけで、どうしてこんなにQOLが爆上がりするんだろう。
 犬の名前はヤマト。ほとんど真っ黒に見える、黒虎毛の甲斐犬だ。本当は大桐さんの実家で飼っている犬なのだが、ご両親が蓼科に遊びに来た帰り、ヤマトだけは置いていってくれと頼みこんだらしい。大桐さん、梅雨空の下、山に閉ざされる生活が、さすがに寂しくなったんだそうだ。
 ヤマトもご両親と離れて心細かっただろうが、涼しく自然の豊かなこの地は、犬にはパラダイスだ。まわりの人たちにも許されて、好き勝手に周辺を歩き回り、今では山犬みたいになっているという。さすがは改良の手が入っていない、原種系の日本犬。しかし日本犬といえば、戦時中には「二君に仕えぬ日本犬」なんて標語が作られるほどのワンオーナードッグなのだ。私に馴れてくれるか心配だったが、最近は愛玩犬としての交配も進んでいるようで、ヤマトは誰にでも抱っこを許してくれる、穏やかな犬だった。今は大桐さんを見送った直後なのでソワソワしているけれど、しばらくしたらイヌ語で話もできるだろう。
「大桐さんは、学校にお勉強に行ったんだよ。久々に彼氏にも会えるんだろうね。今日はいつものスウェットじゃなくて、おしゃれしてて可愛かったね」
 私は落ち着かないヤマトを目で追いながら、大桐さんって彼氏の前ではどんな子なんだろうとぼんやり思った。

 私が半年だけ別荘で暮らしちゃおうなんて考えたのは、前年に愛犬を亡くしたからだ。あの子がいたら、私はどこにも行かなかった。
 柴犬の小次郎は昔かたぎの日本犬で、私は毎日「好きなのはお前だけだ。ほかのヤツなんかどうでもいい」と言われ続け、メロメロになっていた。それでいて私の言うことは何でも聞くということもなく、小次郎には強い自我があり、いつだってしっかりと自分の思いを伝えてきた。つまり私とはまるで違う性格だったのだ。芯のある、カッコいい小次郎。一生に一度の恋を終えてしまった私は、もう二度と犬を飼えない。
 そうだ、私がきちんと愛しあえたのは、小次郎だけだ。人間との恋愛は難しすぎる。パートナーに「いつも真理子に怒られている気がする」と言われたことは、今でも引っかかっている。だって私は怒らないために黙ったのだ。怒りを我慢したのだ。それでもそれが怒りと受け取られたのなら、私の方法が間違っているのだろう。小次郎のように、そのままの感情を表現すればよかったのかもしれない。これまでの人間関係を振り返っても、我慢と諦め、限界がきたら撤退、そんなことばかりを繰り返している。ダメになる要因は私にあるのだ。
 ヤマトはふてくされて、布団の上に丸くなった。まだ私と話をしてくれる気はないらしい。空元気なんて出さない犬。私はもっと犬から学ぶべきだろう。

 しかしヤマトは、ただふてくされていたわけではなかった。散歩では力強く引っ張るし、夜中は家鳴りに反応して走り回るが、ご飯をほとんど食べないのだ。もともと食が細いとは聞いていたので、慣れない環境がストレスなのだろうと思っていたが、3日目についに水も飲まなくなった。慌てて大桐さんに連絡をしたが、つながらない。
 あわあわしていると、図ったように牧さんがやってきた。
「菊池さんの後にここ借りたいっていうお客さんがいるから、ちょっと写真撮らせて」
「いや、それよりヤマトが」
 状況を説明すると、牧さんは救命ドラマのようにヤマトを抱き上げた。
「病院だ!」
 牧さんのうちにも昔、柴犬がいたと言っていた。「飼ってたんだよ」以降の言葉が続かないのは、きっと私が小次郎に対するのと同じ思いを抱えているのだろう。
 私たちは山を下り、茅野市の動物病院へと急いだ。

 診断は「何か変なものでも食べたんでしょう病」だった。ヤマトは注射を一本打たれ、牧さんが1万6千円を支払った。高え。
 帰宅後、注射が効いてすっかり元気になったヤマトは、私が名前を呼んだだけで尻尾を振るようになった。撫でるとお尻を高く上げ、顔は床にスリスリするという、独特のヤマトダンスを見せてくれる。ご飯も完食。タオルを結んで作ったオモチャを投げると、わーっと取りに行くが、3回で飽きる。こういうところ、やっぱり日本犬だなあ。そこそこ私と触れ合った後、ヤマトはヤマトの世界に戻っていく。
 ヤマトの視線の先を、私も追いながら思う。私はもう犬を飼えないから、こんなふうに預けてもらえて本当に幸せだ、と。そして同時に、自分が大桐さんの立場だったらどうしただろうか、とも。
 おそらく、いや間違いなく、私は「迷惑かもしれない」と考えて、犬を預けることはしないだろう。相手に尋ねることもなく。
 それから牧さん。牧さんはいつも何の連絡もなしにやってくる。私だったら「お邪魔したいのだけど、いつが都合がいいですか?」と事前に聞く。
 だけどそんなふうに気を使われないことに、今の私は心地よさを感じているのだ。ヤマトを任せてくれることが嬉しく、スッピンの小汚い格好で出迎えることが楽なのだ。もしかしたらふたりも、都会にいる時は私みたいに振舞っているのかもしれない。蓼科にいる時だけ緑の魔法にかけられて、ほんの少し「社会人」や「現代人」をやめているのかもしれない。
 私には、人からも学ぶことがある。

 夜半過ぎ、軽トラでトコトコ帰ってきた大桐さんを迎える、ヤマトのはしゃぎようったらなかった。やっぱり犬の寵愛を受けられるのは、飼い主だけだ。
 ヤマトの診断結果を伝えると、大桐さんはハッとしてスマホを取り出した。
「前日にヤマトが吐いたの、変だったから撮ってたんです。原因、コレですかね?」
 どう見てもネズミ。これ知ってたら、私もっと早く病院に連れて行ったよ……。
 やっぱり大桐さんは、どこにいても大桐さんかもしれない。

 

(第9回へつづく)