ビーナスラインを走っていて、車窓からの景色にあれっと思った。今までと何かが違う。でもそれが何なのかわからない。しばらくしてようやく、色が違うのだと気がついた。白樺もカラマツの葉もまだ緑だけれど、彩度が落ちている。そうか、9月も後半。もうすぐ紅葉が始まるんだ。
そういえば鳥たちもあまり鳴かなくなった。春にあんなに耳を楽しませてくれたのは、繁殖期だったからなのか。小鳥も意味なく囀っているわけじゃない。埼玉育ちは、そんなことも知らなかった。
買い物から帰ったタイミングで、牧さんから連絡が来た。この別荘を内見したいというお客さんを、今から連れていってもいいかという内容だ。大慌てで食材を冷蔵庫にブチ込み、洗濯物をクローゼットに隠してから、どうぞと返信した。
すぐにやってきたのは、4、50代の夫婦だった。恰幅のいい男性に、スレンダーな女性。ふたりとも高価そうな服を着ているけれど、ファッションに興味のない私には、どのブランドかは判別不可能。男性は笑顔がデフォルトのように、常に口角を上げていた。
「広いね。眺めもいいじゃない」
ひとわたり部屋を見て男性が言う。そうでしょ、そうでしょ。
「漫画家さんなんですよね? この机で仕事してるんですか?」
「はい。窓の外を見ながらの仕事、いいですよ」
「僕だったら窓を背にして、オンライン会議の背景にするな。この風景、自慢できますよね。うちのマンションからの眺めなんて、みんな見慣れちゃったから、こっちの方が羨ましがられるよね」
なんとなく、港区あたりのタワマンかな、と思う。男性は窓を開け、ベランダに身を乗り出した。
「向こうに山があるんだね。木が邪魔だなあ」
「蓼科山です」牧さんが答える。「木を何本か切れば、もっとよく見えるようになりますよ」
和室やキッチンを見学した後、一行は地階へと降りていった。私もそれを追いながら、最後尾の牧さんに小声で話しかける。
「木、切らないでくださいよ」
「景色いい方が価値上がるんだよ」
腹話術師のように、口を動かさずに答える牧さん。私がぶーたれているのに気づくと「木は切るもんなの。そうやって管理しないと、かえって森はダメになるの」と諭すように言った。
夫婦は定住ではなく、たまの利用を考えているようだった。口数の少ない女性の思いはわかりかねたが、男性はこの環境が気に入ったらしい。具体的な質問に、私もできるだけ丁寧に答えた。牧さんの仕事には協力したいし、別荘を褒められると私までうれしくて、バスルームからも蓼科山が見えますよ、なんて営業もかけた。
それでいて「検討します」と言い残した夫婦の高級車が森に消えるのを見送ったら、私は栓でも抜かれたみたいに脱力してしまったのだ。ひとめ惚れして住みはじめ、思い出を重ねているこの別荘、もうすっかり自分の家のように思っているのに。来年はほかの人が住むのか。
数日後、私はまたヤマトを預かっていた。10月のゼミ発表に向けて、大桐さんの研究も大詰め。東京に出ることも多く、だいぶ忙しそうだ。ヤマトは私といることにすっかり慣れ、部屋の真ん中で安心しきって寝ている。今のうちに大桐さんに頼まれた、別荘オーナーへのアンケートを記入してしまおう。絵本作家志望の大桐さんの絵が随所に描かれている用紙は、東大院生の調査に使うという雰囲気ではなくて、思わず笑いがこみ上げた。
ちなみに大桐さんは研究内容を、ブログにこう書いている。
──(1)自然破壊の元凶とも捉えられてきた大規模な開発地である別荘地は、開発自体はそこまで悪くなかったのではないか。むしろ、生物多様性を高める環境のポテンシャルがあるのではないか。
(2)しかし別荘での生活の実態は、豊かな環境にマッチしない資源依存・都市型の生活ではないか。
と仮説をたてて研究しています。──
ゼミ発表では学生たちがそれぞれ、この別荘地に建てるべき建築を、模型や映像をつかって提案するらしい。大桐さんはどんな建築を見せてくれるのだろう。
さて、アンケート。
──あなたの家にはどんな動物が来ますか?
うーんと、リス、野ネズミ、ホトトギス、ウグイス、カラ類などの小鳥たち。このあいだは玄関前の桜の木をアカゲラがつついてたから、動画を撮った。フクロウもいるらしいけど、まだ見たことはない。おっと、忘れちゃいけない、怪鳥、鵺。それから鹿、タヌキの小百合、アナグマ、キツネ……。
──野鳥を観察するために餌台や巣箱を設置していますか?
いいえ。
──数か所だけ罠を仕掛け、鹿がかかったら、解体ワークショップに参加したいですか?
……苦しむ鹿は見たくない……けど増えすぎているのは知ってるから、殺すのなら食べてあげたいとも思う。だけど……うーん。肉は食べても、殺すのはイヤなんて、私はいつもキレイ事ばかりだ。大桐さんは罠猟の免許を持っていて、猟師と山を歩いたりもしているから、深い考えと覚悟があるんだろう。やっぱりただの変わった人ではないな。
えっと次は、基本情報も書き込まなくては。
──どれくらいの頻度で別荘に訪れますか?
──別荘を購入されたのはいつですか?
──将来、別荘をどうする予定ですか?
ペンを置いた。このあたりは、空欄で提出するしかない。私の別荘は「おためし」だから。
顔を上げたら、ヤマトも体を起こした。そろそろ散歩の時間だ。
相変わらず力の強いヤマトに引っ張られるようにして、紅葉が進み始めた木々の間を行く。弾むようなヤマトの足取りを見ていると、犬はやっぱり、土の上を歩くのが幸せだよなあと思う。そしてそれは、人間も。
ふと見れば北横岳が夕日を反射して、真っ赤に発光していた。あまりにも美しくて、リードを引く。
「ヤマト」
迷惑そうに止まるヤマト。
「私、今日で50歳なんだよ」
9月29日。ここにいられるのは、あと1カ月だ。
エッセイ・コラム|第19回
アラフィフひとり おためし山暮らし 第十九回
毒親や宗教二世問題を描いてきた漫画家が、賃貸別荘であこがれの大自然の中で山暮らしをスタート。生活、人間関係、気持ちの変化を綴る「気づき」のエッセイ。
(第20回へつづく)
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第19回
アラフィフひとり おためし山暮らし 第十九回
(2025年1月26日)