2日ぶりにあたたかいお湯が出て、思わず手を叩いた。別荘を引き払うまであと2週間というところでボイラーが壊れ、顔も食器も冷水で洗っていたのだ。この頃はコロナの影響で、様々な設備や部品の入手が困難になっていた。こりゃ最終日まで温泉通いかなと思っていたら、牧さんがあっさりと新しいボイラーを入手、設置してくれた。
「さすがですね。どんなツテ持ってんですか」
「まあ……ね」
牧さんが上の空なのは、私が壊してしまったブラインドも修理しようと、手を動かしているからだ。乱暴にしてもいないのに、おかしな場所でコードが切れてしまってね……。自分でも直そうとしたけれど、単純に見えてうまくいかない。やがて牧さんも諦めた。
「こっちはダメだ」
「牧さんができないこと見るの、初めてかも」
煙草のためにベランダに出る牧さんの後を、なんとなくついていく。外は赤、黄、オレンジ。山はすっかり秋色にお召し替えして、別荘を取り囲んだ。
「今日、鴨鍋だよ」
「わ、やったね!」
5月に何度も歓迎会を開いてくれたのと同じように、今月は何度も送別会をしてもらっている。いやはやほんとに、恐縮です。
夕方、いつものメンバーが三々五々、牧さんの家に集まった。テーブルのど真ん中の鍋にはすでに鴨ガラでとった出汁が沸いていて、部屋はいい香りに包まれている。鴨串も焼かれるのを待ってるし、ローストビーフに、久世さんの作った鯛の昆布締めまである。今日も豪勢だ。久世さんと牧さんは鍋奉行をし、美枝子さんはご機嫌でビールを飲み、若杉さんは……なんだかモダンな家にいるのが似合わないな。白い室内に、ダンもちょっと眩しそうだ。
美枝子さんが若杉さんにビールを注ごうとして、おっと、と手を引っ込めた。
「若杉さん、飲まないんでしたっけね。そしたら飲むの、私と牧さんだけってこと?」
「私も飲みます!」
玄関から大桐さんの声がした。ようやく登場だ。ヨタヨタと長靴を脱ぐ気配がして、階段を上ってくる。だけど、あれ? いつも一緒にいる黒い影が見えない。
「ヤマトはどうしたの? 今日はお留守番?」
「ヤマト、実家に帰っちゃったんですよう。お母さんが連れて帰りました」
「えっ……」
自分ももうすぐ帰る身ながら、ヤマトが遠くに行ってしまったことにショックを受ける。そっか、もう預かることはないのか……。まったくこの数か月、どれだけヤマトに甘えたことか。ひとりきりの家の中で笑い声をあげたのは、あの子といた時だけだった。撫でたり、抱っこしたり、皮膚を通じてしか伝わらないものを思い出させてくれたヤマト。あのつぶらな瞳が瞼に浮かんで、感傷的になってしまう。
だけど今日は私の送別会だ。数日後にまた送別されるだろうけど、しんみりとしてばかりもいられない。さびしくたって、鴨の脂は口の中で甘く溶けていく。
9時を過ぎると、若杉さんとダンは帰って行った。若杉さんの若さの秘訣は、絶対に規則正しい生活だ。
さらに10時頃、久世さん夫婦も帰った。呂律のまわらない牧さんが泊まっていけと引き留めたが、運転のために酒を我慢したんだ、牧さん飲むと長いんだもん、と久世さん。美枝子さんもまたねと手を振り、去っていった。
「なんでみんな帰るんだー」
牧さんは水割りをグビグビと飲み干して、またグラスに半分もウイスキーを注いだ。
「もうじゅうぶん酔ってるのに、これ以上飲む意味あります?」
「飲んでないと、間が持たないじゃないか」
「間なんて持たせなくていいんですよ。牧さん、次からお酒なしね」
「ちょっとちょっと、俺のこと、依存症だと思ってない?」
「思ってます」
「違うから。飲まないでもいられるから」
「えー依存症は否認の病と言いましてー、自分がそうだと認めないところに特徴がー……」
アルコール依存症の講演もしている私が講釈を垂れ始めたら、牧さんは耳を塞いで逃げてしまった。
「大桐さん、ピアノ弾こう!」
「えー、また―!? 飲んだら弾けないんですってば!」
「いいから弾こう!」
こうなると私のやることはない。キッチンを漁ったら高そうな茶葉が出て来たので、無駄に丁寧にお茶を淹れてみたりする。
酔って指が動かないと言いながらも、ふたりのピアノはやっぱり上手だ。大桐さんは絶対にただ者じゃないし、牧さんは子どもの頃、神童と言われていたそうだ。プロの道もあったんだろうと思う。
だけど牧さんは、発表会にも出たことがない。人前だと緊張で指が震えて、まったく弾けなくなるらしい。
その話を聞いた時、いつものなんでもできちゃう姿と正反対で、すぐには信じられなかった。けれど牧さんは、数年前までお客さんにお茶を出すこともできなかったんだよ、とも言った。震えてお茶を零しちゃうんだよ。
私の手の中のカップは、さざ波も立っていない。長身で見目もよくて、どこにいても勝手に目立ってしまう牧さんが抱えていたアンバランス。恵まれた人と思っていたのに、やっぱり一面的な人間なんていないんだ。牧さんが泥酔するまで飲むのは、きっとこのせいもあるんだろう。そうだ、父もアンバランスで、間が苦手な人だった。
父がなぜ飲んだのか、ずっと考えてきた。そんなに親の役目がイヤだったなら、なぜ私を作ったのか。だけど今はわかる。「なぜ」に対応する明確な答えなんて、ないということが。様々な人生の局面でなんとかその場をやり過ごすために、父は飲んだ。不器用だから、生きていくのに酔いが必要だったのだ。
牧さんの複雑さを知ったら、父が親ではなく、ひとりの人間に見えてきた。必死に生きたんだろうねと、肩を叩きたくもなった。酔っぱらいは怖かったのに、牧さんの姿は不思議と私の傷を少し癒した。
だからって牧さんに、このまま飲み続けてほしくはないけどね。
深夜になっても、牧さんの酒とピアノはまだ続く。大桐さんはもうムリと、床に寝そべった。
「牧さん、どうして私の前ではピアノ弾けるんですか?」
「菊池さんは人間じゃない。石みたいなもん」
「そしたら私が埼玉に帰ってから、久しぶりに会う時も、石のままにしといてくださいね。ピアノ聴きたいから」
牧さんは何も言わずに、リストの「ため息」を弾く。この曲が一番好きと言ったら、いつも弾いてくれるようになった曲。
不器用な人のピアノは、雄弁で美しい。