どんなに遠くても、雷が鳴ったらパソコンを切る。それだけは常に守っていた。山の雷は突然近くに落ちたりするから、油断ならないのだ。サンダーカットのプラグも信じちゃいけない。埼玉のテレビは、あっさり壊れた。
 8月はしょっちゅう雷が鳴って、頻繁に仕事の手を止められた。なかなか困る事態だが、言い訳せずに休める時間でもある。それに私は、雷鳴轟く空を眺めるのがけっこう好きだ。
 パソコンと一緒に部屋の明かりも消して、ベランダの窓を開ける。ここからは雨は吹き込まない。山の嵐が不思議なのは、風があちこちにぶつかるせいか、一方向に吹かないところだ。高い木は右に、下草は左に靡いている。渦巻く風に髪を翻弄されながらスペクタクルの始まりを待つと、突然紫の空を稲妻が裂いて、ドーンという音と共に地面が揺れた。うおお、やっぱりすごいな、雷様は。ヤマトは雷が怖いというから、今頃は大桐さんにくっついて怯えていることだろう。小次郎は聞こえていないのかと思うほど、雷には無反応だったけど。外を見ながら、一緒に雨の匂いを嗅いだのが懐かしい。
 しばし空を見ながらぼーっとしたが、やはり根が真面目な私。気づくとスマホを手にとり、仕事の連絡が来ていないか、メールボックスを開いていた。DMばかりの件名をスクロールして、ふいに手が止まる。数年ぶりの友人の名前を見つけたのだ。『お久しぶりです』で始まったメールは、こう続いていた。
『Sさんが亡くなりました』
 雷に打たれたようにショックを受けて、ベタな映画みたいにスマホを落とした。
 
 すぐにパートナーからもラインがきた。別れ話もしていないので、一応まだパートナーだ。
 Sさんは元々彼の友人で、タイを拠点に世界で仕事をするキャリアウーマンだった。面倒見のいい姉御肌で、私がひとりでバンコクを訪れた時も、なにかと世話をしてくれた。数年前に帰国して東京で会った後、彼女は関西へ。病を得たとは聞いたけど、寛解したとも聞いていた。それが突然、なぜ。
『原因不明で、呼吸ができなくなったみたい』 
 そんなことって、あるだろうか。
『56歳だって』
 いくらなんでも若すぎる。南国で日焼けした、化粧っ気のないSさんの顔が浮かぶ。健康そのものだったじゃないか。
 決して親しい友人というほどではなかったけれど、いつまでも元気でいる人だと思っていたから、こんな知らせは受け止めきれない。驚きで涙も出なかった。空が代わりにざあざあと泣いてくれているようだった。

 そのほんの数日後だ。
 パソコンに向かっていると、今度はK氏から電話が来た。K氏は私が20代の頃に、アシスタントとして使ってくれた漫画家だ。彼から連絡がくるのも、数年ぶりのこと。電話だなんて、よっぽどのことか。
『もしもし、真理ちゃん?元気?』
「元気だよ。どうしたの?」
『俺ね、今入院してるの』
「え、なんで?」
『わかんないんだけど、ダメみたい。俺、もうオムツなんだよ』
「えっ、何があったの?」
 少しせん妄があったのか、K氏の話は不明瞭な部分も少なくなかった。電解質が壊れる病気って何だろう。無菌室みたいなところに入っているが、先は長くないからと、看護師さんがこっそりスマホを使わせてくれたという。
『最後に声が聞きたくて』
 自分で言うのもなんだが、K氏は昔、私のことを好いてくれていて、それをいいことにプレステ2を買ってもらったり、あー、その節はすみません。その後彼は優しい伴侶と巡り合い、今も仲良く暮らしているらしかった。それでもこんな状態になると、若い頃が強烈に懐かしくなるのだろうか。もしくは彼の頭の中には、20代の私がいるのだろうか。
 この頃はまだ、多くの病院がコロナ感染を恐れて面会を禁止していた。ただでさえ長野にいる私に、できることなんて何もない。私はスマホを耳にただウロウロと歩きまわった。人間ってこういう時、本当にじっとしていられない。
「退院したら会いに行くから、頑張って!」
 我ながら、適当な言葉だと思う。
『真理ちゃん、会いたい、会いたい、会いたい! 健康でいて、健康でいて、健康でいて!』
 弱々しい喉が絞り出した声が聞こえてから、あ、看護師さんが来た、と言って突然電話が切られた時、私はほとんど叫び出しそうだった。むきだしの言葉は暴力的ですらあって、身内に抱えたら内側から食い破られそうだったから。
 ラインを送ったけれど、既読にはならなかった。ベッドの上で管につながれている姿を想像するのが嫌で、ジャンクフードばかり食べて太っていた頃の彼を思い出す。結婚してからスリムになって、妻のおかげだとずいぶんのろけられたことも。なんだかあの頃から、一瞬で今に連れてこられてしまったような気がする。私たちは本当に、あれから何十年もの時間を生きたんだろうか。

 また雷の音が聞こえた気がして、パソコンを切った。稲光はまだ見えない。木々はざわざわ揺れ出した。
 SさんもK氏も50代だ。亡くなるには早いけど、若くはない歳なのだ。
 雷の爆発的なエネルギーだってどこかに消えてしまうように、命も一瞬ピカっと光ったら、あとはなんにもなくなるんだろうか。私がこの先、雷が鳴るごとに彼らを思い出すことに、どんな意味があるのだろう。私だって消えていくのに。

(第17回へつづく)