翌朝、包丁がまな板をトントン叩く音で目が覚めた。床で寝るほど酔っていた牧さんが、誰よりも早起きをして、大桐さんと私のぶんまで朝食を作ってくれている。
ご飯、具だくさんの味噌汁、粕漬の焼き魚、小松菜となめこの和え物、きゅうりのお新香、明太子、納豆。牧さんの納豆には、めかぶと玉ねぎのみじん切りとお酢が入っていて、これがすっごくおいしい。「健康的な和朝食で、前夜の酒を帳消しにする」という作戦に、どれほどの効果があるかは知らないけれど、とにかく素晴らしい朝ごはん。起きたらもう食べるだけなんて、私はどこのお大尽様だろう。
「今日、いい天気ですね」
窓からは、南アルプスの稜線がくっきり見える。
「予定の前に、川にでも行こうか」
「川?」
「大学生の頃から通ってる川でさ、いつかこの近くに住むぞって思わせてくれた場所なんだよ」
「わー、川だって、ヤマト」
大桐さんがヤマトの首を抱いた。川遊び、決定だ。
出かけるにもたいした準備はいらない。日焼け止めだけざっと塗って、私たちは家を飛び出した。
初めての場所なのに、先頭切って歩いていたヤマトが立ち止まった。音だけは聞こえていた川が、突然目の前に現れたのだ。ほとんど人の来ない、草木の生い茂った小道の先に、幅2~3メートルほどの清流が岩場を縫っている。白いしぶきを上げる流れは、結構速い。水に入れないヤマトはビックリしたのだろう。それにしてもなんという透明度。
「杣添川。穴場でしょ。ここで読書したり、昼寝したりしてたんだよ」
上流に向かって歩くと、大きな岩の下に、流れが緩んでプールのようになっている箇所があった。ここで泳いだら気持ちよさそうだ。
「大桐さん、飛び込め!」
「はい!」
「えっ!?」
牧さんの号令と同時に、大桐さんがためらいもなく、岩の上からダイブした。
「冷たーーっ!」
「ええええーっ!?」
「でも気持ちいーーっ!」
「ちょっ……着替え持ってるの!?」
「持ってないです!」
ザボっと潜って、違う場所から出て来た顔に、太陽が光る。アイヤ―、眩しい!
これが若さか、23歳か。私は50間近なので、こんなことはもちろんできない。風邪をひく。いや、23歳の時だってしなかった。大桐さんの天真爛漫さは、まるでアニメの萌えキャラだ。あれって全部が誇張じゃないんだな。そういう人が、私の前に実在してる。
と思ったら牧さんも、風呂のように首まで川に浸かっていたので「まじか」とつぶやいた。
そりゃあ私も、足くらいはつけるけど。
どっこいしょと腰を下ろし、えっちらおっちら靴紐を解く。水中に落とさないようにスマホを草むらにぶん投げて、指先からそろりと水に浸すと、うひゃっ、一瞬で体温が下がった。まるで足指をかき氷で洗われているみたいな爽快感。体にたまった汚いものまで清め流されていくようで、川で禊をする理由って、これか。そのまま仰向けに寝転んだら、熱い岩は墨汁のような匂いがして、空には湧き立つ入道雲が見えた。
──私たち、遊んでるなあ。
そりゃ今までだって遊んでた。友達とご飯を食べたり、お茶をしたり、映画を見たり、ライブに行ったり。だけどこんなふうに、突発的に飛び出して、五感を使ってただ遊ぶなんてこと、大人になってからあっただろうか。今日ってまるで、小学生の夏休みだ。あの長く、強烈な刺激に満ちた日々。夏の暑さは毎年更新されるけど、きっと誰にとっても、小学生の時の夏休みに勝る夏はない。私は49歳にして、再びそれを味わっている。
昼寝でもしてみようかと思ったが、まぶた越しでも太陽が目を射た。水中の大桐さんに近づけないヤマトは、不安そうにグルグル走っている。ふたりはまだあがってこない。川は岩に砕け、水花火を散らし続ける。
夕方頃、牧さんの車のシートをびしょびしょにしてやってきたのは、蓼科の森の中にある、とある広場。アウトドアチェアが並べられ、すでに数十人が集まっていた。夕方から和楽器の演奏会が行われるのだ。
吠えなければ犬もOKと言われたので、良い子のヤマトも一緒に着席。牧さんと大桐さんは寒い寒いと震えているが、ずぶ濡れのふたりを怪しむ人は、特にいない。
「牧さん、こんなに遊んでばっかりで大丈夫なんですか? 仕事は?」
「今日、日曜だし」
「え、そっか」
漫画家に曜日の感覚はないのだ。
「あ、ここの料金……」
大桐さんが財布を手にすると、牧さんは「大丈夫」とうなずいた。いつの間にか、私たちの分まで払ってくれちゃったみたいだ。今日は朝から、いや昨日の夜の若杉邸での食事会から、至れり尽くせりすぎないか。
「すみません……。今度ちゃんとお礼します」
「別にいいよ。僕にはお客さんが友達だからさ。都会にずっといられなくて、自然が好きでこっちに来る人たちなんだから、だいたい気が合うんだよ」
「牧さん、淋しがりですよねー。へへへ。またお酒つきあいます」
大桐さんがそう言うと同時に、演奏が始まった。三味線に篠笛に和太鼓。蝉の声も小鳥の囀りも、ほんの少し聞こえる遠雷も、音色をまったく邪魔しない。むしろそれがあってこそ音楽が完成したようにすら思う。
だんだん落ちていく太陽が、牧さんと大桐さんの横顔を赤く照らす。未来のいつか、今日という日を思い出したら、私は切なくて泣くだろう。
なぜかそんなことを考えながら、のびやかな音が空を渡るのに耳を傾けた。
エッセイ・コラム|第14回
アラフィフひとり おためし山暮らし 第十四回
毒親や宗教二世問題を描いてきた漫画家が、賃貸別荘であこがれの大自然の中で山暮らしをスタート。生活、人間関係、気持ちの変化を綴る「気づき」のエッセイ。
(第15回へつづく)
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第14回
アラフィフひとり おためし山暮らし 第十四回
(2024年11月17日)