「瞬くん、ついでにこの布団いくつか、持って帰ってもらえない? 私の車、一回じゃ荷物運びきれなくて」
「あ、いいですよ」
部屋の照明から垂れ下がったヒモを引くと、明かりがついたり消えたりするのが、20代の瞬くんにはおもしろいらしい。話しながらカチカチするので、私の目はチカチカだ。客室にしている二階の和室だけは、こんな昭和タイプの照明なのだ。若人よ、いにしえの電化製品には、リモコンなんてなかったのじゃよ。
瞬くんは埼玉の家の近くのガソリンスタンドで働いていて、ひょんなことから仲良くなった。お母さんが私より年下と聞いた時はうへえと思ったが、なぜか気が合うので、時々ご飯を食べに行ったりしている。今回も私がいるうちに来たいと言って、二泊して一緒に遊びまわった。ちなみに瞬くん、ガソリンスタンドの前はアマゾンにいた。Amazonではない。南米の大アマゾン。自作のイカダでアマゾン川を下っていたというから、まあ変わり種だ。他人の年齢なんかたいして気にもならないんだろう。
和室からお客さん用の布団を運び出し、手分けして瞬くんの車に積んでいく。ミニバンの後部座席はすぐにいっぱいになった。
「布団、妹に渡しておいてね。ほんと助かるわ」
「了解。あー、蓼科、めっちゃいいところだったなー!」
紅葉に染まる森の中、小さくなる車に手を振りながら、瞬くんも山に住んだらいいのにと思う。彼も四角四面の都会が合わない人だ。
それはさておき、荷物の減った部屋はがらんとして、気温まで下がったように感じる。10月も後半。ここにきて、時の流れがぐんと早まったみたいだ。
25日には、なんと初雪が降った。熊笹が薄化粧しているのを見て外に出たら、冷たい空気にびしっと体を叩かれた。
この日は大桐さんと、若杉さんの家に。カラマツを3本切るので、手伝ってほしいと頼まれたのだ。とはいえ、実働部隊は若杉さんと牧さん。私たちは、木々の間にロープを渡したり、楔を打ち込む方向を決めたりする男性陣の横で、わかったような顔して頷く役目、つまり賑やかしだ。だってそれ以上はできない。こんな森の中で、どうやってほかの木に干渉せずに切り倒せるのか、想像もつかないんだから。
しばらくして下準備が整うと、若杉さんは凶器みたいな爪のついた靴を履いてきた。これで垂直にそびえるカラマツを登り、切り倒す時に邪魔になる上の方の枝を、先に払うらしい。
「……カラマツって、高さ何メートルですか?」
「てっぺんは30メートルくらいですね」
30メートルって、ビルの10階でっせ!? そんなところに、命綱もなしに登る若杉さんは、実はかつてヒマラヤもやったロッククライマー。なるほど……と納得しかけて、いやいやそれでもさあ!
あっという間に遥かなる高みに登り、キツツキのような姿勢でノコギリを振るう若杉さんに声援を送りながら、人類の何割かは、ヒマラヤとかアマゾンとか目指すよなあと思う。
「こういう仕事する人、空師っていうそうです」
大桐さんが調べてくれた。空師、なんてカッコイイ名前。たしかに今の若杉さんは、まさに空にいる。
事もなげに枝払いを終えると、空師は大地に戻ってきた。特にすごいことをしたとも思っていなさそうだ。カラマツの根元、印をつけたところに楔を打ち込んでから、若杉さんが手にしたのはチェーンソー。いよいよ切り倒すのだ。
「離れて、もっと」
牧さんにそう言われ、ひゃーっと逃げる、我ら賑やかし。放し飼いのダンをしっかり押さえて、遠くから巨木の行く末を見守ることにする。チェーンソーが唸りを上げると、その刃はいとも簡単に木肌に食い込んだ。数トンもあるカラマツが地面に倒れ伏すまで、ものの数秒。この世の終わりみたいな地響きが、鼓膜に、お腹に、ビリビリきた。
カラマツは狙い通り、ほかの木を傷つけない場所に横たわった。すぐに若杉さんと牧さんが、倒れた木を玉切りにして、転がしながら運んでいく。私たちは切り払われた枝を一か所に集めたり、周辺を軽く掃除したりする。
幹が裂ける音は悲鳴にも似て、やっぱりちょっと哀れだった。けれど若杉さんはこの木を3年間乾燥させて、薪にする。燃やして灰になったら森に撒き、養分としてまた新たな芽吹きを促す。何も無駄にはしないのだ。
循環する命の輪っかの中に入れてもらえるような、森の暮らし。やっぱりいいなあ。
全ての作業を終えると、若杉さんがお茶を振舞ってくれた。アウトドアリビングで火を囲み、みんなで息をつく。まだ紅葉の残るカラマツは陽を遮るから、3本切っただけで、けっこう光が差しこむようになった。しかしもっと劇的に景色が変わるのは11月で、すべてのカラマツが一斉に葉を落とす日があるという。それはまるで、黄金のシャワー。幻想的なその数分が終わったら、その瞬間から冬が始まるらしい。
「来月か……私は見られないんだなあ。若杉さんとは今日が最後ですね、きっと」
「またいつでも遊びに来てください」
「はい、来ます。私この半年でだいぶ図々しくなったので、遠慮なくほんとに来ます」
「私もきっと、今日で菊池さんと最後です」
突然大桐さんが言った。
「蓼科には年末までいるつもりだけど、今夜、東京に行かなきゃいけなくて。戻るのは来月になるから」
「そっか、大桐さんもか……」
急に立ち上がり、近寄ってくるダン。犬は一番淋しがっている人がわかるのだ。撫でた手のひらに、ダンの温もりがじんわり伝わる。
「来年もまた借りればいいのに」
そう言うのは、牧さん。
「そりゃ住みたいけど、予算が……」
「なんで? 今回はあったのに」
「ありゃー、なけなしっス。払い続けるんは、キツイっス」
ふうんと素っ気ない牧さんは、さっさとお茶を飲み干すと、ごちそうさまと立ち上がった。
「牧さんにはまだ会えますよね?」
「最終日には鍵返してもらわなきゃいけないからね」
私だって、まだまだ帰りたくないけどさ……。
まもなくして私たちも解散した。若杉さんと大桐さんにお礼を言って、再会の約束をし、車に乗り込む。アクセルを踏むと景色はぐんぐん後ろに流れて、スピードの出ない大桐さんの軽トラも、遠くに遠くに見えなくなった。
その日の夜、さすがに家でしんみりしていたら、聞き覚えのあるエンジンの音に続いて、呼び鈴が鳴った。急いで外に飛び出すと、やっぱり別れたはずの大桐さんだ。
「これから駅向かうとこなんですけど、よかったら、コレ!」
手渡されたコレは、ウクレレ。
「な、なんで……?」
「ちょうどもらったんです。楽器弾けると楽しいから、次会う時にはピアノと合奏しましょう!」
いつもと変わらぬ笑顔の大桐さんに、こちらもつられて笑い出した。まったく最後まで、大桐さんらしい。私、これからウクレレ弾きになるの?
ポロンと音を鳴らしてみたら、大桐さんが抱きついてきた。
「ハグー!」
ポンポンと背中を叩かれる。胸から背中から、体温が伝わる。私も大桐さんの背中を叩いて、体温を伝える。温かい血が巡る体。私たちの体は、どの瞬間にも命を宿してる。
大桐さんが軽トラのエンジンをかけ、方向転換して走り去るまで、でたらめにウクレレをかき鳴らした。ウクレレの音はバカみたいにハッピーで、こんな夜にはまったく似合わなくて、私は本当に救われたのだった。