エピローグ(承前)
久長は以前より、リハビリに奮闘する中途障害者を主人公にしたフィクション作品を制作するため、当時者の声を聞きたいと考えていた。そこで荒瀬施設長に相談したところ、前向きな返事を貰った。だが、取材が実現する前に彼が殺されてしまった。副施設長の太崎和子は、入所者への取材を断固拒絶した。
竜ヶ崎弁護士は、久長が太崎和子に追い返される場面に遭遇したらしい。
――ドキュメンタリーなら了承したんですけど、フィクションの取材なんです。荒瀬は施設を利用して金儲けを考えていて、安易にそのような話を引き受けていたようです。私には入所者を守る義務がありますから、ああいう人たちに食い物にされないよう、気を配っているんです。
太崎和子は竜ヶ崎弁護士にそう語った。
結局のところ、入所者を食い物にしていたのは太崎和子だった。荒瀬施設長は誠実な人間だった。
「今にして思えば――」久長の声が言った。「太崎氏が入所者の方々への取材を拒絶したのも、後ろめたい不正がバレては困る、という危機感があったからなんでしょうね。困難を抱えている人たちを本当に救いたいという信念で活動していたら、自分たちよりも、当事者である入所者たちにフォーカスしてほしいと思うのではないでしょうか。誠実に活動しているならば、入所者たちから感謝の言葉が出てくるはずです」
入所者のインタビューで、施設への不満や不信感が出てきては困る――ということか。
久長が言った。
「現実問題として、表向きは立派な活動をしているNPO団体などの不正受給問題は珍しくありません」
『天使の箱庭』に疑惑を持ったとき、インターネットで調べた事例の数々――音読アプリが読んでくれた――が脳裏に蘇る。様々な全国紙が事件を報じていた。
『嘘の書類で不正受給 施設運営のNPO法人行政処分』
『N市のNPO法人が三〇四万円を不正受給 県が行政処分』
『Y県のNPO法人、死亡者名で補助金受給』
『介護給付費など不正受給 O町の二事業所処分 事実と異なる申請』
『H市のNPO、復興補助金五四三万円不正受給 県が返還命令』
『補助金三二〇万円不正受給 S市のNPO、実態ない人件費』
『消えた六億七〇〇〇万円 NPOの看板、不正の隠れ蓑に』
不正のニュースはいくつも出てきた。
久長が続けた。
「問題は不正受給だけではありません。施設関係者による入所者への虐待や性的暴行が発覚し、逮捕されているケースも多々あります。今回は、太崎和子氏が荒瀬施設長を生贄に仕立て上げようとして、ずいぶん策を弄したようですが……。少なくとも、入所者に被害者がいなかったことが分かって、不幸中の幸いでした」
真相が明らかになった後、竜ヶ崎弁護士と共に妹を弁護してくれた七瀬真帆弁護士が同じことを言っていた。
荒瀬施設長の悪評が事実であれば、傷つけられた入所者が何人もいたことになる。そんな事実がなかったことは唯一の救いだ。
「私は今回、ドキュメンタリー制作も行っている一人のプロデューサーとして、真実を伝えたいと思っています。荒瀬施設長の疑惑は各新聞や週刊誌、テレビ番組が報じましたが、裁判の結果まで報じた媒体はほとんどありません。無罪判決が出たとしても、犯罪者が狡猾に罪を逃れた、司法が間違っている、という文脈でなければ、わざわざ取り上げないものです。特に今回は、起訴の取り下げによって裁判が中途半端に終わっているため、余計に報じられていません。容疑者としてニュースになった以上、無実だったとしても、世の中の大多数が知ることなく、お二人は不名誉を背負っていかなければいけません」
姉である自分の身代わりで逮捕され、起訴され、殺人容疑者となった葉月の人生はどうなるのだろう。報道を鵜呑みにした世の中の人々のうち、何パーセントが無実だったことを――冤罪だったことを知っているのだろう。
「今回、私は『天使の箱庭』の事件をノンフィクションとして取り上げようと企画しています。しかし、その話がどこから漏れたのか、圧力がかかっています」
七瀬真帆弁護士が「圧力?」と訊き返す声がした。
「議員やジャーナリストはもちろん、中心は『天使の箱庭』の顧問を務めていた金田淳美弁護士です。SNSを駆使して、この企画のネガティブキャンペーンを巧妙に扇動しています。企画を潰そうと声を上げているアカウントが結構ありますけど、どういう人間なのか知ろうと思えば、フォロー欄を確認するのが一番です。大抵は『天使の箱庭』の関係者や支援者、それに金田弁護士のフォロワーですね。いわゆる犬笛で、彼女の投稿が一斉攻撃の合図になっている感じはします。しかし、被害者である荒瀬さんと葉月さんの名誉回復の必要性を考えれば、潰されるわけにはいきません。私はこの特集を実現させたいんです」
真摯な声色だった。
「優月さんは『袴田事件』をご存じですか」
「……知っています」優月はうなずいた。「視力を失う前にニュースで観ました」
詳しく知っているわけではない。
たしか――有名な冤罪事件で、一家四人殺人事件で死刑判決を受けた男性が、六十年近く経った今、ようやく冤罪が認められた。捜査機関が捏造した証拠によって有罪判決が下されていたという。
「『袴田事件』は戦後最大の冤罪事件です」久長が言った。「事件発生から五十八年が経って、再審で無罪判決が下されました。再審でも検察は死刑を求刑していましたが、控訴はしなかったので無罪が確定しました。メディアが大々的に報じ、世間も警察や検察の横暴を批判しました。死刑事件の冤罪はきわめて稀ですが、もっと身近な犯罪では数多く発生しています。万引き犯と誤認されて逮捕された中年女性、虚偽告訴で性犯罪者にされた男性町議、SNSで誹謗中傷したとされた女性、痴漢冤罪事件、美人局――。冤罪やでっち上げの被害者は枚挙にいとまがありません。しかし不思議なもので、警察や検察という権力によるでっち上げ事件では苛烈に怒りの声を上げている人々が、なぜか個人によるでっち上げ事件では、テレビ局や創作者が題材として扱うことすら逆に批判するんです」
疲労が溜まっていそうな久長の嘆息が聞こえた。
「弁護士の方には釈迦に説法になってしまいますが、法曹界には“十人の真犯人を逃すとも、一人の無辜を罰するなかれ”という法格言があります」
隣から竜ヶ崎弁護士の声が聞こえた。
「刑事事件の大原則ですね。たとえ十人の真犯人を逃すことになったとしても、一人の無実の人間を罰してはいけない、という意味です。だからこそ、“推定無罪の原則”があります。有名なので説明は不要でしょうが、刑事裁判で有罪が確定するまでは、容疑者や被告人であったとしても“罪を犯していない人”として扱わなければならない、という原則ですね」
「ご説明ありがとうございます」久長が言った。「犯罪被害者や遺族の立場からすれば釈然としないでしょうが、何人もの犯罪者を処罰し損ねたとしても、一人の無実の人間を間違って有罪にしてしまう方が罪深い、という司法の基本です。つまり、それだけ冤罪事件は起きてはならない過ちだ、ということです」
優月は「分かります」と相槌を打った。
何の罪も犯していない人間がある日いきなり拘束され、厳しい尋問で責められ、社会にも犯罪者として晒されて仕事を奪われたあげく、裁判で無実が証明できずに何年も刑務所に入れられて人生を奪われる――。想像しただけで恐ろしいし、あってはならない人権侵害だと思う。
葉月も一歩間違えればそうなっていた。
久長が言った。
「冤罪の重みを知っていたら、冤罪事件を社会問題として取り上げることに意義があると分かるはずです。だからこそ、批判や妨害の声に負けず、作品を作りたいと思っています」
「はい」
「今回の冤罪事件もそうですが、中途失明者の優月さんを取り上げたいと思っているのも、いい加減な気持ちではありません。私はフィクションもドキュメンタリーも作りますが、物語の世界で様々な社会問題を知ってもらおう、と思っています。先日、電車の優先席に座っている中年女性を怒鳴りつけた男がいました。『お前みたいな健康な女が座る場所じゃない!』と。しかし、その女性は足が不自由で、立ったままでは電車の揺れがつらく、優先席に腰掛けていたそうです。また、あるときは、座席に座っている若い女性を怒鳴りつけた高齢者がいました。進んで席を譲らなかったことに不満があったそうです。しかし、その女性はおなかこそ膨れていませんでしたが、妊婦で、体調が悪かったんです。またあるときは、妻を立たせて自分一人座っている夫を盗撮したアカウントがありました。亭主関白で気遣いができないクズ男として、夫への批判があふれていましたが、後に夫婦がネット番組に出演し、語った話によると、夫は痛風発作の激痛で歩行すら困難で、妻に付き添われて病院へ向かう途中だったそうです」
優月は黙ってうなずいた。
「病気や障害が必ず目に見えるとはかぎりません。若くて健康そうに見えても、内臓に重い疾患を抱えていることもあるでしょう。人の想いや苦労や病気は、外からはなかなか分からないものです。私は目が見えますし、今現在、障害などはありません。しかし、二度、失明の危機がありました。原因不明の感染症によって、二十代前半のころと、三十代後半のころ、いきなり片目が曇って、まるで擦りガラスを瞳に嵌めたように、世界が見えなくなりました。検査でも病名が特定できず、ずいぶん怖い思いをしました。もう片方の目にも同じ症状が現れたら……。症状がさらに悪化したら……。失明も覚悟して、視力を失ったらどう生活するか、専門書を買い込んで勉強したほどです。幸いに二度とも処方された点眼薬が効果を発揮してくれて、視界は戻りましたが、そのときの経験があってから視覚障害に関心を持ち、作品でしばしば取り上げるようになりました。一介のプロデューサーが出しゃばるのは好ましくないと思っているので、視聴者から『障害者をネタにするな』と難癖のような批判を貰っても黙っていましたが、いい加減な気持ちで扱っているわけではありません。今回、美波さんご姉妹は悲劇に巻き込まれました。名誉の回復もかねて――というほど重苦しいわけではありませんが、お二人の生活など、ありのままを撮影することで、障害に対する理解が深まったり、共感してもらえたり、誰かに勇気を与えられる番組になれば、と思っています。いかがでしょう?」
誠実な口ぶりから人柄が伝わってきた。声しか分からないので、外見などに左右されず、感情が直接伝わってくる。それは自分の弱みにも強みにもなると思っていた。
だからこそ、番組への出演を引き受けた。
カメラマンたちによるインサート撮影――出演者が触れた小物など、メインの映像の中でクローズアップするカットを撮影することらしい――が行われているあいだ、優月は葉月と他愛もない会話をしながら過ごした。
視覚障害を患っても、努力次第で買い物にも行けるし、料理も作れるし、スポーツもできるし、ドラマも楽しめる。
様々な文明の利器にも助けられた。最も便利だったのは、福祉施設からの給付品である電磁調理器だ。炎が出ないので火事の心配がなく、鍋を載せてボタンを押せば加熱がはじまる。
多少は手間取るものの、包丁の扱いにも慣れた。簡単な料理なら、健常者と大差ない時間で作れる。昔から料理が得意だったのも、習得時間を早めた要因だろう。
技術の習得と共に生きていく自信が深まった。視覚障害者は何もできないわけではない。訓練次第で様々な技術を身につけられる。
訓練による成長に伴い、葉月の態度にも変化が現れた。失明直後は視覚的な話題を避けていた妹も、全盲が些細な問題だとでもいうように遠慮のない会話を振ってくれる。彼女の自然な態度に勇気づけられ、人生を前向きに歩いていく決意をした。白杖を使っての歩行訓練もした。
近い将来には、単独で町中も歩けそうに思えた。
今は未来に希望が感じられた。
(了)