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裁判員裁判二日目――。
竜ヶ崎は真帆と隣り合って弁護人席に座った。
弁護側証人の証人尋問がはじまった。最初に証言台席に座ったのは、南雲梓だった。真面目そうに見えるスーツ姿で、黒いストレートヘアをひと纏めにしている。
「では、弁護人、証人尋問を」
鮫島裁判長が言った。
主尋問の主役はあくまで証人であり、尋問者――弁護士や検察官――ではない。裁判員は証人の話を聞きたいのであって、尋問者の説明や意見ではない。
だからこそ、尋問者は目立たないようにする。
竜ヶ崎は「はい」と応じ、法壇の脇に立った。
証人は法壇に居並ぶ裁判員たちを見て証言することが望ましいが、弁護人席から尋問すると、答えるたびに横を向くことになる。前を向いて答えるようにあらかじめ助言していたとしても、横から質問されればついそちらに顔を向けてしまうものだ。
だが、尋問者が法壇の脇に立てば、証人は自然と正面を向くことになる。しかも、尋問者に聞こえるように答えることで、必然的に裁判員たちにもしっかり届く声の大きさになる。
「では、弁護側からお聞きします。まずはあなたのお名前と立場を教えてください」
「南雲梓、『天使の箱庭』の職員です」
「渦中の施設で働いているわけですね。普段はどのような仕事をされているんですか」
「入所している中途障害者の方々の生活訓練のサポートなどをしています」
「特定の入所者を担当していたんでしょうか?」
「いえ、『天使の箱庭』では職員一人一人が特定の入所者を担当する形ではありません」
「そうなんですね。職員それぞれ専門知識が違うのでしたら、全員をサポートするのも大変ではないかと思うのですが」
「正直、大変です。入所者の障害は様々ですし、私たち職員の知識が不足していて、サポートがスムーズにいかないことも珍しくありません。ただ、大きな施設ではないので、担当制だと手が回らなくなってしまいます」
「なるほど。個別に担当することは難しい事情があるんですね。では、入所者によって、サポートやお世話の時間の長短はあるんでしょうか」
「それはもちろんあります」
「南雲さんの担当時間が長かった入所者はどなたでしょう?」
南雲梓は被告人席に目をやった。
「美波優月さんです」
「美波さんのサポートをする時間が長かったということでしょうか」
「そうです。職員の中では私が一番長かったと思います」
「具体的にはどれくらいですか」
「一日に四時間ほどです」
「期間としては?」
「三週間ほどです」
「美波さんが入所してから――ということですか?」
「はい」
「では、あなたは美波さんの苦難をよく知っている立場であると言っても、差し支えはないのでしょうか」
「ないと思います」
「日ごろどのようなサポートをしていたんでしょう」
南雲梓は、以前に教えてくれた内容を法廷内で語った。食事の訓練でクロックポジションを練習したことなど――。
「点字や白杖の訓練はどうでしょう」
「……私に専門知識がないので」
「では、美波さんは白杖などは使えなかったんですか?」
「はい。訓練をしていないので」
竜ヶ崎はそこで法壇に顔を向けた。
「裁判長、ここで白杖について説明を提示させてください。内容は検察側に事前に確認してもらっています」
真渕検察官が「異議ありません」と答えた。
鮫島裁判長が「認めます」と言った。
竜ヶ崎はディスプレイに資料映像を映した。専門家に監修してもらって作成した資料で、白杖の役割や使い方が説明してある。
取り上げられているのは直杖――折り畳みができない夕イプ――だ。携帯用の白杖と違って耐久性が高く、接続部で振動が吸収されないので、認識がしやすい。そのうえ、消耗の激しい先端の石突きも取り替えられる。
白杖の役割は三つ。
一つ目は情報収集だ。地面を白杖で突くタッピングにより、一歩先の踏み出す地点を常に確認する。タッピングの際の音で路面の質を判断したり、地面の高さの変化を察したりする。手で障害物に触れなくても、正体を知ることが可能だ。
二つ目は安全確保だ。白杖をついていたら、歩行進路内の障害物に白杖が真っ先に当たる。これにより、障害物に体が直接ぶつかるのを避けてくれる。
三つ目は標識だ。白杖を持っていれば、一目で視覚障害者だと伝わる。特に車の運転者に対しては、徐行を促す標識の役割を果たす。
道路交通法では、『視覚障害者が外出する時は、盲導犬を連れるか白杖を持つかしなければならない』と定めてある。白杖使用者に対して道を譲る義務も定められている。
「白杖が使えないと、単独で外出することは難しいでしょうか?」
「難しいと思います」
「美波さんの日常生活レベルはどのようなものだったか、教えていただけますか」
南雲梓は「はい」とうなずき、間を置いた。
「美波さんは全盲でしたので、他の入所者の方々に比べると、できないことが多く、基本的な生活訓練が必要でした」
「たとえば?」
「先ほども話したように、食事の訓練もそうですし、室内の歩き方も訓練中でした」
「美波さんは苦労していましたか」
「私自身、アイマスク体験といって、アイマスクをして視覚障害者の方の世界を疑似体験したこともありますが、真っ暗闇だと、一歩歩くだけでも怖くて、なかなか踏み出せなかったり――大変でした。美波さんも同じだったと思います」
「施設長の荒瀬さんが殺されたことは、いつ知りましたか?」
「翌日に出勤して、同僚から聞かされました」
「どのように聞かされましたか」
「視聴覚室で深夜に荒瀬さんが殺されて、美波さんが警察に連れていかれた――と」
「それを聞いたとき、あなたはどう思いましたか」
「最初は美波さんも事件に巻き込まれて、被害に遭ったんだと思いました」
「なぜそう思ったんですか」
「美波さんは全盲ですし、日常生活も困難です。被害者になる姿しか想像できませんでした」
「実際は容疑者にされていたわけですが、それはいつ知りましたか」
「美波さんの安否を心配したとき、同僚から教えられました」
「それを聞いたとき、どう思いましたか」
「あり得ないと思いました。アイマスク体験をしたときは、本当に無防備で、障害物の場所も分かりません。落ちている小物一つが危険で、目が見えれば難なく避けられる物でも、踏んでしまったら足首を捻挫しかねません。そんな状況で男の人に襲われて、返り討ちにするなんて絶対に不可能です」
「ナイフを持っていたとしても?」
「私なら無理です」
「ありがとうございます。主尋問を終わります」
竜ヶ崎は着席し、検察官席を見た。途中で異議が入るかと思いきや、意外にも真渕検察官は黙ったままだった。
「では検察官、反対尋問を」
鮫島裁判長が命じた。
真渕検察官が立ち上がった。証人の南雲梓をじっと睨み据える。その眼差しに気圧されたのか、彼女は目を逸らした。
「弁護人は、証人の感想を聞くためだけにずいぶん長い時間を費やしたものです」
彼は重々しい嘆息を漏らしてから証人に言った。
「では検察側からお聞きします」
真渕検察官の凛とした声が響くと、南雲梓はおずおずと顔を向けた。
「はい……」
「あなたはアイマスクで全盲の世界を体験したと言いました。アイマスク体験は何ヵ月しましたか」
「そんなには……」
「そんなには? では何週間?」
「いえ……」
「数日?」
南雲梓は視線を落とした。
「……二時間ほどです」
「二時間?」
真渕検察官は声に驚きを含ませた。
「はい……」
「二時間アイマスクをつければ、全盲の視覚障害者と同等の困難を実体験できるものですか?」
「……無理だと思います」
「二時間アイマスクをつけたあなたと、全盲の被告人――どちらが日常的な行動に慣れているでしょう?」
「もちろん美波さんだと思います」
「つまり、あなたが不慣れでできないことでも、被告人はできるかもしれない、ということですね」
南雲梓は弱々しく「はい……」とうなずいた。
「あなたの二時間のアイマスク体験を通じて行った“推測”は、全盲の視覚障害者全員に当てはまりませんね?」
言葉遣いこそ丁寧であるものの、語調は厳しく、糾弾の色味を帯びていた。
「はい……」
「以上で反対尋問を終わります」
(つづく)