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16(承前)


 血まみれの凶器を目にした裁判員たちは、事件の生々しさを意識し、裁かれている被告人を犯人視しかねない。間違いなく先入観を抱く。そして、それは容易には拭い去れない。
「ご覧いただいたのは凶器のナイフです。刃に付着しているのは荒瀬氏の血痕です。それは科学捜査で証明されている、揺るぎない事実です。また、凶器のナイフの柄――握る部分ですが、そこからは被告人の指紋が検出されています。これも科学捜査で証明されている、揺るぎない事実です。被告人は気絶した荒瀬氏に近づき、ナイフで腹部を複数回刺して殺したのです。それは復讐でした。しかし、皆さんがどれほど被告人に同情したとしても、殺人は許されません。同情で殺人を見逃してしまえば、法治国家は成立しません」
 真渕検察官がそこで声に感情を込めた。真摯でありながらも、断固たる信念を感じさせる口調だ。
「人は復讐感情をいとも簡単に正当化します。加害の免罪符として、自分には相手を攻撃する“正当な権利”があると信じ込みます。皆さんの周囲にもそんな人間がいませんか? あるいはSNSで目にしたことは?」
 裁判員たちの頭の中に、特定の誰かが思い浮かぶのを待つように、真渕検察官は何秒か黙り込んだ。
 数人の裁判員が無言でうなずいた。
「もし法を無視し、個人の私情による復讐を許せば――」真渕検察官は裁判員を順に一人一人しっかり見つめながら語った。「次に被害に遭うのはあなたかもしれません。あるいは、あなたの娘さんかもしれません。あるいはあなたの息子さんかもしれません。あなたの母親かもしれません」
『裁判員選任手続』の際、真渕検察官は身内に犯罪被害者がいるかどうか確認した流れで、自然に候補者たちの子供や両親について触れていた。誰に息子がいるか、娘がいるか、しっかり把握しているのだろう。
「荒瀬氏を殺害した被告人は、その後、副施設長と二人の職員によって発見されています。襲われた際に発した悲鳴を聞きつけ、駆けつけた三人です」
 詳細を省くことにより、意図的に事実を歪めている。より正確に表現するなら、最初に副施設長の太崎和子が駆けつけて事態を把握し、他の職員二人を呼んでいる。三人が同時に駆けつけたわけではない。些細な部分だが、裁判員たちは、三人が一緒に駆けつけたならば第三者が逃げ出すことは難しい、と感じるだろう。『公判前整理手続』で、弁護側が第三者による殺人を証明する、と聞かされているから、その主張を潰す方向で冒頭陳述を組み立てている。
 真渕検察官は冒頭陳述を続けた。
「三人は、視聴覚室で荒瀬氏の刺殺体を発見します。そばには呆然と座り込む被告人の姿がありました。衣服には返り血が付着していました。それが荒瀬氏の血であることは、科学捜査で証明されている、揺るぎない事実です。視聴覚室に第三者が存在しなかったことも、その場から逃げ去る人間がいなかったことも、三人が証言します。副施設長がすぐに一一〇番通報し、警察が到着しました。被告人は任意同行の後、事情聴取を受けてから殺人罪で逮捕されています。被告人には動機も手段もありました。間違いなく有罪です」
 裁判員たちは神妙な顔つきで耳を傾けている。真渕検察官の巧妙で力強い冒頭陳述によって、今や有罪の心証を抱いているだろう。
 真渕検察官が言った。
「本法廷は荒瀬氏を裁く場ではありません。あくまでも、被告人が殺人を犯したかどうか、を裁く場であることを忘れないでください。そして――被告人が殺人を犯したと確信したならば、有罪判決を出さねばなりません」
 繰り返しは意図的だろう。“初頭効果”と“新近効果”だ。最初に提示された情報と最後に提示された情報は記憶に残りやすい。重要な情報は最初と最後に――が鉄則だ。
「証拠調べが全て終わったとき、皆さんは被告人が有罪だと確信を得ているでしょう」
 真渕検察官が冒頭陳述を終えた。
 鮫島裁判長が口を開いた。
「では、弁護人、冒頭陳述を」
 竜ヶ崎は黙諾し、立ち上がった。
 検察側へ傾いた心証を冒頭陳述で覆さなければいけない。
 米国のある調査によると、七割もの陪審員が冒頭陳述直後の心証を公判最後まで維持したという。つまり、冒頭陳述の出来が裁判の行方を左右すると言っても過言ではない。
 竜ヶ崎は法壇に目をやり、冒頭陳述を開始した。一語一語をはっきりと発音し、法廷内の誰もが聞き取れることを意識した。
「皆さん、弁護側の主張は至ってシンプルです。美波さんは無実です。無罪、、ではありません。無実、、です。罪を犯している依頼人を守るためであれば、法解釈の問題として、弁護側は無罪を訴えるでしょう。検察側が立証責任を果たしていないことを指摘し、合理的な疑いが残っていると訴え、無罪判決を求めるでしょう。しかし、今回のケースは違います。逮捕・起訴されてしまった不運な全盲の女性――美波優月さんは、殺人を犯していません。だから無実なのです」
 裁判員たちの心を掴んだ手応えがあった。彼らの興味津々の表情が物語っている。
「美波さんは失明したばかりで日常生活も困難な、非力な女性です。悪意を持って襲ってくる男性に勝つことは不可能です。彼女は、殺人現場に居合わせてしまった不運な女性にすぎません。この裁判で、弁護側は美波さんが無実であることを証明します」
 竜ヶ崎は小さく息を吐いた。
「検察側の冒頭陳述には、事実と異なる内容があります。美波さんは荒瀬さんから性被害を受けたことはありません。よって、荒瀬さんを恨む理由がありません。そのことは証拠調べの中で明らかにします。次は凶器のナイフです。美波さんは凶器のナイフを持参したりはしませんでした。荒瀬さんの悪評を耳にしていた彼女は、護身用に小型のナイフを持っていましたが、それは凶器のナイフではありません」
 何人かの裁判員の眉間に皺が寄った。容易に鵜呑みにできない主張であることは承知している。
 今度は意識的に声量を落とし、感情も抑え気味にして語りはじめた。弁護側に不都合な内容は手短に、かつ、淡々と。
「検察側が語った中には、いくつかの事実もありました。弁護側は事実を誤魔化すようなことはしません。凶器のナイフに美波さんの指紋が付着していたのは事実です。しかし、それは床を手探りした際、触れた物を確認するために手に取ったからです。彼女の服に荒瀬さんの血が付着していたことも事実です。検察側は“返り血”と表現しましたが、事実は違います。真っ暗闇の中で何が起きたか確認しようとして、遺体に触れた際に付着した血です」
 裁判員たちは静かに耳を傾けている。
「弁護側は無実を主張し、この裁判において、美波さんが殺人を犯していないことを証明します。検察側は、美波さんが視聴覚室で荒瀬さんに襲われ、反撃し、刺殺したと語りました。しかし、これは真相ではありません。真相は――」竜ヶ崎は最大の効果を意識して台詞を溜め、、、名探偵よろしく右手の人差し指を立てた。「彼女が視聴覚室に着いたとき、すでに荒瀬さんは殺されていたのです」
 裁判員たちが目を瞠った。衝撃が十分に浸透する時間を待ってから続ける。
 竜ヶ崎は裁判員を一人ずつ見ながら言った。
「暗闇の中で彼女に襲いかかったのは、荒瀬さんではなく、荒瀬さんを殺害した人物だったのです」
 法廷内が――主に傍聴席がざわめいた。
「では、荒瀬さんを殺したのは誰なのか?」竜ヶ崎は緩やかにかぶりを振った。「犯人を捕まえるのは警察の仕事です。今回の事件では、残念ながら警察は十分な役割を果たしていません。今なお、犯人は野放しになっています」
 真渕検察官が“根拠がない憶測”として異議を唱えそうな気配を感じたので、竜ヶ崎は早々に切り上げた。
「全盲の美波さんには、視聴覚室で襲いかかってきた人物を認識することができません。事件当夜、彼女は一度も荒瀬さんの声を聞いていません。そこで誤認が生じました。これが事件の真相です。弁護側は美波さんが犯人でないことを証明します。美波さんは無実です。不幸にも視力を失ってしまった罪なき女性に、これ以上の不幸は必要ありません」
 竜ヶ崎は冒頭陳述を終えると、着席した。黙ったまま法壇を真っすぐ見据える。
 裁判員たちは真剣な面持ちをしている。
 余韻を裂いたのは鮫島裁判長の声だった。
「では、これより証拠調べに入ります」
 竜ヶ崎は気合いを入れ、拳を握り込んだ。
 美波の命運を左右する重要な裁判がはじまった。

17

 竜ヶ崎は隣の真帆へ目をやった。
 彼女は小声で「絶対に無罪、勝ち取りましょう」とつぶやき、拳を握ってみせた。
 竜ヶ崎は黙ってうなずいた。
「では、証人は証言台へ」
 鮫島裁判長が命じると、最初の証人が入廷してきた。
 五十代前後の男性だ。髪は短く刈り込まれており、部分的に白髪が交じっていた。厳めしい顔つきをしている。鋭利な目つきは猛禽類を彷彿とさせ、睨まれたら大抵の人間は目を逸らすだろう。中肉中背で、ダークグレーのスーツに包まれていても、引き締まった筋肉が見て取れた。
「証人は名前と年齢、職業を」
 鮫島裁判長が尋ねると、中年男性は「はい」とはっきりうなずき、口を開いた。
かまたかとく、四十八歳。S署刑事課――」
 中年男性――S署の捜査官、鎌田は慣れた様子で淡々と質問に答えた。
「証人は宣誓書を朗読してください」
 鎌田は宣誓書にチラッと目を落とし、法壇を真っすぐ見つめながら口を開いた。
「宣誓。良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います」
 堂々とした立ち振る舞いだ。さすがに法廷慣れしている。今まで数えきれないほど証言台に立っているのだろう。裁判のいろは、、、を知っている証人を崩すのは難しい。手強い反対尋問になることが予想された。
「検察官は主尋問を」
 裁判では証人申請した側から尋問をする。鎌田はいわゆる検察側証人だ。
 真渕検察官が立ち上がり、鎌田を見た。
「ではまず、今回の事件とあなたの関わりを教えてください」
「はい。八月十二日深夜十二時半ごろ、一一〇番通報があり、現場へ警察官が駆けつけました。男性が刺殺されていると確認され、殺人事件であることが分かり、刑事課の捜査官として捜査に関わりました」
「あなたは何をしましたか」
「現場である『天使の箱庭』へ急行しました」
「現場に着いてからのお話を聞かせてください。『天使の箱庭』に駆けつけた際、何を見ましたか」
「鑑識が証拠採取を行っている視聴覚室に入ると、中年男性の刺殺体が仰向けになっていました。服はべったりと血にまみれ、赤色のシャツを着ているのかと思うほどでした。そばにはナイフが転がっていました。血が刃に付着していたので、すぐに凶器だと確信しました」
「その後どうしましたか」
「関係者が別室に待機していると聞き、事情聴取に行きました。制服警察官がすでに話を聞いていました」
「別室には誰がいましたか」
「副施設長の女性と、職員の男女二人。そしてサングラスをかけた女性が一人。四人の関係者がいました。サングラスの女性の服には返り血が付着していたので、ただ事ではないと思いました」
 竜ヶ崎は一呼吸置き、落ち着いた口調を意識して「異議あり」と手を上げた。
 大声で異議を唱えると、焦っている印象を与えるし、不都合な証言を封じたがっているように見える。異議は冷静に――が裁判員裁判の基本だ。
「“返り血”という表現は、美波さんが荒瀬さんを刺したことを前提としており、誤解を招きます。弁護側は彼女が殺人を犯していないことを主張し、争っています」
 鮫島裁判長が「証人は表現には気をつけてください」と注意した。
 鎌田はクレーマーに遭遇した店員のような目で弁護人席をひと睨みし、前に向き直った。
 真渕検察官が主尋問を続ける。
「別室であなたはまず何をしましたか」
「通報したのは誰なのか、確認しました。副施設長が名乗りを上げたので、何が起きたのか尋ねました。そうしたら、『彼女が施設長を殺してしまったんです』と言いました」
 伝聞の証言ではあるものの、この程度なら異議を唱えても却下されるだろう。
 真渕検察官が尋ねた。
「犯人と名指しされたその“彼女”はこの法廷内にいますか」
「はい」鎌田は断然とうなずき、被告人席に座っている美波をしっかり見据え、指差した。「彼女です」
「証人が被告人を指し示したと記録してください」真渕検察官はそう言ってから続けた。「それから何を?」
「副施設長が『彼女は全盲の障害者で、施設の入所者の一人です。荒瀬に襲われて抵抗して殺してしまったんです』と言いました」
「彼女の様子はどうでしたか」
「かなり動揺しているようでした」
 竜ヶ崎は眉を顰めた。
 これはさすがに黙って聞き逃すことはできない。
「異議あり」竜ヶ崎は軽く手を上げた。「検察官は証人に感想を求めています」

 

(つづく)