22
竜ヶ崎は証人尋問の準備が行われるのを見守った。
『公判前整理手続』で決められた証人尋問の順序によると、次は聴覚障害者の男性が証言する。男性は手話が使えないらしく、手話通訳士などは呼ばれていない。
証言の準備――それはタッチペンで書いた文字が全てのモニターに映る工夫だった。これで筆談が可能になる。真渕検察官によると、念のためだという。
準備が整うと、聴覚障害者の男性、嶋谷良平が入廷した。身長は百八十センチ近くあり、比較的筋肉質な体形をしている。短めにカットされた黒髪で、顔立ちはシャープな印象があるものの、目は優しく、穏やかな表情が特徴的だ。
鮫島裁判長に命じられ、嶋谷は自己紹介した。『天使の箱庭』に入所中の聴覚障害者で、年齢は三十二歳だという。
真渕検察官が検察官席から出てきて、法壇の前に位置取り、鮫島裁判長を見た。
「証人は中途失聴者です。先天性の聴覚障害者と違い、耳は聞こえなくても発声はできます。コミュニケーションの方法として、唇を読むことができますので、困難がないかぎり、口話で証人尋問をしたいと考えています。検察官席に立っていると、唇が読みにくいため、証人の正面に立つことを許可していただきたく思います」
鮫島裁判長が「認めます」と答えた。
「感謝します」
真渕検察官は法壇と証言台の中間地点に立ち、証人――嶋谷を真っすぐ見つめた。
「まずは嶋谷さんのことを伺いたいと思います。私の話は読み取れますか?」
嶋谷の目は真渕検察官の顔――正確には唇に注がれていた。
「はい、読み取れます」
嶋谷は一語一語をしっかりと発言した。
竜ヶ崎は小さく息を吐いた。
彼は検察側証人の中で一番重要だ。美波にとって決定的な証言をする予定になっている。弁護側としては、証言の不確かさを反対尋問で明らかにしなければならない。
美波の有罪無罪は――それにかかっている。
「嶋谷さんは中途失聴者ということですが、声や音は全く聞こえないのでしょうか?」
真渕検察官も、単語の発音をはっきりしていた。唇の動きを正確に見せるためだろう。
嶋谷は「全く聞こえません」と答えた。
「しかし、こうして会話が成立していますし、一見して聴覚障害があるとは思えないのですが……」
「よくそのように誤解されるのが困りごとの一つなんです。僕を含めて中途失聴者は、言葉を覚えてから失聴しているので、話すことができるんです。しかも僕は訓練で唇を読むことができるので、障害があることを他人に分かってもらえないことがあります。耳が聞こえないと信じてもらえなかったり、普通に話されて、相手の言葉を読み取れなかったり――」
「失聴の原因は何だったのでしょう?」
「遺伝が原因とか、ストレスが原因とか、医師には言われました。検査をしてもはっきりしないそうです。失聴も原因は多種多様で、人それぞれらしく……」
「そうですか。お気の毒に」
「いえ」
「唇を読めるなら、一般的なコミュニケーションに支障はないのでしょうか」
「一応……支障はありません。ただ、初対面の相手に聴覚障害者だと伝えると、手話が使えないとコミュニケーションがとれないと思われて、困った顔で避けられたりすることもあって、聴覚障害者は誰もが手話が使えるという思い込みに悩まされたりします」
「それは悩ましいお話ですね。教えていただき、ありがとうございます。様々な困難があるにもかかわらず、こうして法廷までご足労いただき、感謝しています」
嶋谷が軽く頭を下げた。
「さて」真渕検察官が嶋谷のほうを向いたまま続けた。「これまでの会話で、証人の嶋谷さんが相手の唇をしっかり読み、コミュニケーションが取れることは皆さんにご理解いただけたと思います」
なるほど――。それが狙いだったのか。単に証人の情報を語らせているだけではなかったのだ。
「質問を続けます。嶋谷さんは『天使の箱庭』に入所しているということですが――」
「そうです」
「日ごろどのような生活を送っていますか」
「日常生活の訓練をしつつ、手話を習っています。コミュニケーションの手段は多いほうが便利だと思いまして」
「それはそうですね」真渕検察官は共感を示してから言った。「今回、被告人である全盲の女性――美波優月さんが施設長の荒瀬氏を刺殺した容疑で裁かれているのはご存じですか」
「はい。事件のことは施設内でも大騒ぎになっていましたし、入所者なら誰でも知っていると思います」
「嶋谷さんは、被告人と何らかの関係はありますか」
嶋谷は緩やかに首を横に振った。
「直接会話したことはないと思います」
「事件の前から被告人のことは知っていましたか」
「……顔が分かる程度には」
「会話したことがなくても、被告人と他の入所者を区別して認識できるんですか」
「彼女は全盲ですし、目立ちます。『天使の箱庭』には色んな中途障害者が入所していますが、彼女ほど重い障害は珍しいので……」
「重い障害――というのは?」
「障害は比較するものではないと思っていますが、それでも、やはり目が見えないというのはとても重いと感じます。僕も耳が聞こえなくなって、今まで楽しんでいたことができなくなりました。英語が分からないので、洋画は唇が読めても理解できません。字幕でなければ観られないんです。好きだった音楽も聴けません。こういう表現が正しいのかは分かりませんが、視力をなくすよりはましだった、と思います。施設で見かける彼女は、壁などを手探りしながら一歩一歩慎重に歩いていて、本当に大変そうでしたから」
「話しかけようと思ったことは?」
「何度もあります。僕は目が見えますから、移動のサポートくらいならできます。しかし、『天使の箱庭』は訓練施設ですから、差し出がましいかな、と思って、声はかけませんでした。見かけたときは、障害物などで怪我しないか、見守ることはありました」
「被告人に悪印象はないということですか?」
「悪印象どころか、好感を持っていました。頑張る姿を見て、内心で応援していました」
嶋谷には美波を有罪にするために嘘をつく動機がない――と印象づける質問と証言だ。
真渕検察官が同情を込めた声色で言った。
「そんな彼女がこうして殺人罪で裁かれています。そのことについてはどう思いますか」
「……信じられない思いです。でも、あんな目に遭っていたなら、仕方がないかもしれない――とも思っています」
真渕検察官は目を眇めた。
「あんな目?」
「はい……」
「あんな目というのは、どういう意味でしょう。何か知っているなら教えてください」
「被害者の荒瀬さんからの性被害です」
「性被害?」真渕検察官は驚きの声を発した。「被告人は施設で性被害に遭っていたんですか?」
法壇に顔が見えないので、声で裁判員たちにこれが重要な証言であることを教えている。
「……直接見たわけではありません。でも、彼女が副施設長と一緒に荒瀬さんを非難している場面は、目撃しました」
「待ってください。これは美波さんが何の被害にも遭っていない、という弁護側の言い分と真っ向から対立する証言です。裁判の行方を左右する内容です。具体的に話してもらえますか」
嶋谷は緊張を呑み下すように喉仏を上下させ、重たげに口を開いた。
「あれは事件の数日前でした。僕は職員の女性――葵さんに連れられて、食堂へ行きました。手話の訓練で利用していた個室を他の入所者が使っていたので、食堂を利用することになったんです。夕食の時間が終わってしばらく経ったころなので、午後九時とか十時だったと思います。そこで美波さんたちを見たんです」
「美波さんたちということは、他にも誰かがいたわけですね?」
「荒瀬さんと太崎さんです」
「施設長と副施設長ですね。三人はどのような位置でしたか?」
「荒瀬さんが椅子に座って、ダイニングテーブルを挟んで美波さんと向き合っていました。美波さんは僕に背を向けていて、太崎さんは荒瀬さんの斜め後ろに突っ立っていました。仁王立ち――と表現するのが相応しいような、険しい顔つきで」
「それであなたはどうしましたか」
「深刻な空気が漂っていたので、僕は葵さんと顔を見合わせました。彼女も困惑しているようでした」
「食堂の三人はあなたたちに気づきましたか」
「食堂の入り口の扉は開いていて、手前で僕たちは立ち止まりました。荒瀬さんはテーブルに視線を落とし気味にしていましたし、太崎さんは彼の後頭部を睨むようにしていましたから、そのときは気づかれていないと思います」
「そこで何を見ましたか」
「……太崎さんが荒瀬さんを責めていました」
真渕検察官は間を置き、「内容は覚えていますか」と尋ねた。
「もちろん覚えています。あまりに驚いたので、忘れることなんてできません」
「教えてください」
「……太崎さんは荒瀬さんを睨みながら、『美波さんを傷つけたことを謝罪してください。彼女はあなたに性被害を受けたと訴えているんですよ』と非難していました。突然のことに驚き、僕はショックを受けました。まさかこの施設内でそんなことが――」
「非難された荒瀬さんは何と?」
「無視を決め込んでいました」
「それはなかなか厚顔無恥ですね。反論の余地がなかったんでしょうか?」
「太崎さんは『罪を認めないなら、美波さんと一緒に告発しますよ』と言いました」
「荒瀬さんは答えましたか?」
「思い詰めたような表情で押し黙っていました。太崎さんが焦れた様子で、『言い訳もしないというのは、認めるんですね?』と責め立てました。荒瀬さんはため息をついて、美波さんをじっと見つめました。太崎さんは『被害の声は他にもあります。言い逃れはもうできませんよ』と言いました」
「他にも何か会話はありましたか」
「太崎さんは『私は荒瀬さんを信じていたのに』『理念が本物だと思ったからこそ同志として頼ったのに』ということを訴えていました」
「他にはどうでしょう?」
「太崎さんが『それなのに、入所者を食い物にするなんて』『美波さんが勇気を振り絞ったから明らかになったんです。彼女を恨むのは筋違いですよ』と責めていました」
「荒瀬氏も被告人も、性加害の件は否定しなかったわけですね」
「はい、否定しませんでした」
「他にも会話は聞きましたか」
「……聞いていません。そのとき、太崎さんがこちらに気づいたんです。彼女は目を大きく開いて、びっくりした顔をしました。一時、気まずい間がありました。太崎さんは深呼吸すると、『今はプライバシーに関わる話をしているから』と言いました。僕は葵さんに促されて食堂を離れました」
真渕検察官はしばし押し黙った。法廷内に緊張が張り詰めた静寂が流れる。
何秒か間を取り、口を開いた。
「証言ありがとうございます。よく分かりました。このような会話を目撃していたから、今回の事件を知ったとき、仕方ない、という感情になったんですね」
「……はい。荒瀬さんは裏で相当ひどいことをしていたようですから」
「改めて確認しますが、会話を目撃したのは事件の数日前なんですね?」
「そうです。それは間違いありません」
「なるほど。荒瀬氏の性加害はすでに数人に知れ渡っていて、本人も太崎さんに追及され、自身の行為が知られていることを知っていたわけです。そんな状況でセクハラや性加害を続けるとは思えません。事件の夜、美波さんを呼び出したのは、そういう目的ではなく、告げ口の恨みをぶつけるためだったかもしれませんね」
「異議あり」竜ヶ崎は我慢できずに手を上げた。「どうやら検察官は証人尋問を放棄し、論告をはじめたようです」
鮫島裁判長が「異議を認めます」と応えた。真渕検察官に意見を聞くまでもない――という判断だ。
「失礼しました」真渕検察官は素直に謝罪した。「明らかになった事実に驚き、考えを整理するつもりが声に出てしまったようです」
異議を覚悟した主張の開陳だ。裁判員たちの頭の中には、計画殺人の構図が棲みついただろう。
美波が副施設長に被害を訴え、加害者である荒瀬施設長本人と対面していた――。それが事実であれば、事件のストーリーは少し変わってくる。
荒瀬施設長は、自分を告発した相手を深夜に呼び出し、彼女自身、それに応じたことになる。施設長に”悪い噂”があったから念のために護身用でナイフを持参した――という主張に信憑性がなくなる。告発した相手から呼び出されたら、強烈な身の危険を感じるだろう。男であったとしても、警戒して応じない状況だ。
裁判員たちは、最初から使うつもりでナイフを持参したと考えるだろう。
真渕検察官は、荒瀬施設長の呼び出しの目的を法廷で変えてみせた。『公判前整理手続』で主張内容を明かし合っている中で、巧妙な不意打ちを仕掛けた。
真渕検察官は満足そうに宣言した。
「以上で尋問を終わります」
(つづく)