エピローグ
美波優月は絨毯に座り直した。暗闇の中、トランプのケースを開ける音がする。プラスチック製のカードが並ぶ音が続いた。
「ババ抜きか何か?」
優月は質問をぶつけた。
「神経衰弱」
葉月の声が答えた。
「……何か私に不利なにおいが漂ってるんだけど」
「気のせい気のせい!」
葉月は笑い声を上げながらゲームの開始を宣言した。神経衰弱は全てのカードを裏側にして並べ、交互に二枚ずつめくり、同じ数字を当てた数を競う最もルールが簡単な記憶ゲームだ。
優月は先手を貰うと、手探りで最前列右端のカードをめくった。
適当な場所を選択したら、後でどの場所か分からなくなってしまう。
健常者と違って目で見た印象で記憶できず、何列目の右から何番目が何――という暗記方法を用いなければいけない。
人差し指の腹を使い、めくったカードの左の上隅を撫でた。微々たる突起が並んでいる。点字――縦三点、横二点の合計六点の突起を組み合わせた文字――だ。指触りを利用して視覚障害者にも読み取れるように工夫されている。考案者はフランス人のルイ・ブライユ。
葉月がプレゼントしてくれた点字トランプだ。左の上隅と右の下隅にマークと数字が点字で打たれている。しかし、まだ点字に慣れていないため、数字の解読だけでも困難だった。
優月は指先の感触を頼りにし、数字が何かを探り当てようと試みた。勘違いして認識すると、後々で混乱の元になってしまう。
かなり難しい。こんな調子では、点字習得は永遠に無理なのではないだろうか。
十五にも満たない数の判別に苦戦するようでは、複雑な平仮名などは絶対に覚えられない。
同じ視覚障害者と話す機会があったとき、点字の習得には一年以上要したと言われた。吸収期の子供ならともかく、成人してからの習得は大変らしい。
内心で諦め半分のため息が漏れる。点字をすらすら読める日が来たらいいのだが……。
エアコンのうなる音が耳に入ってきた。適温に設定してあるにもかかわらず、額に汗の玉が浮かんでいるのが分かる。
指先に神経を費やし、四つの突起が四角型になっているのを感じ取った。めくったカードは7だろう。続けて同列の左端を選ぶ。横に並んだ二つの突起は3の証だ。
二枚を確認するだけで何分かかっただろう。葉月は催促せず待ってくれている。数字を探る姿を眺めているのか、通販のカタログを片手に待機しているのかは分からないが、文句一つ言わず付き合ってくれるのは嬉しかった。
めくったカードを裏に戻すと、出番を交替した。葉月はたっぷり一分はうなりながらカードを吟味している。
妹らしい気遣いだと思った。もしあっという間にカードを選ばれたら、相手を待たせては悪いという心理がどうしても働き、もっと早く行動しなくてはと焦ってしまうだろう。しかし、行動ペースを合わせてくれると、落ち着いてカードの数字を探ることができる。
それは特別扱いではなく、気遣いだ。
二枚のカードをめくる音に続き、悪戯っぽい声が聞こえてきた。
「お姉ちゃん側から見て二列目の右から三番目がハートの5ね。三列目の左から七番目がスペードのキング。覚えた?」
優月は開いた口が塞がらず、感謝の言葉を撤回した。
情報が多すぎて覚えきれない。一枚目は右を基準に教えてくれたのに、二枚目は左を基準にするのが小憎い感じだ。『左から七番目』でなく、『右から四番目』でいいと思う。何より、神経衰弱に無関係なマークまで口にするあたりに、確信犯的なものを感じる。
「無理よ。覚えられない」優月は唇を突き出した。「二列目の右から何番目が5? キングは何列目の左から七番目?」
「なら、もう一回言うから覚えてよ。お姉ちゃん側から見て二列目の左から八番目がハートの5ね。三列目の右から四番目がスペードのキング。今度は大丈夫?」
「ちょっと待って!」
「どうかしたの?」
「さっきの説明と左右が逆になってる。絶対わざと私の混乱を誘ってるでしょ?」
「深読みしすぎだってば。私がそんな悪質な手を使うと思う?」
「思う」
断言すると、乾いた笑い声が聞こえてきた。
「やっぱり確信犯でしょ?」
優月は睨む真似をした。
「失礼な。お姉ちゃんは強いから、こうやってハンデを貰ってるだけ。ちゃんと覚えられるでしょ?」
「無理に決まってるじゃない。こうやって喋ってるうちに全部忘れちゃった。もう一度教えて」
「駄目。お姉ちゃんは記憶力がいいんだから、三度も説明したくない」
「……実は昔のことを根に持ってるでしょ?」
小学校時代のトランプ遊びを思い出した。正月に葉月と興じた神経衰弱では全勝した。泣き顔で頬を膨らませていた妹の幼い顔が印象に残っている。
「私のは兵法よ」
「兵法?」
優月は小首を傾げた。
「宮本武蔵の逸話を知らない? 佐々木小次郎と巌流島で決闘するとき、取り決めの時刻よりも遅れることで苛立たせる戦法。勝負事には作戦が必要なの」
「何か違うと思う……」
優月は独りごちながら、葉月の時代劇趣味に苦笑した。彼女の鑑賞するテレビ番組は、コメディドラマか時代劇が多い。
「とにかく次はお姉ちゃんの番よ」
カードを裏返す音が聞こえたため、三度目の説明は諦めた。要求しても無茶な理論でごまかされかねない。
優月は「もう」と不満を口にしながらも、神経衰弱を続けた。
互いに何組かのカードを手に入れ合い、ゲームは終盤を迎えた。途中経過を報告し合うと、葉月は八組だった。妹には五組リードしている。
複雑な暗記が嫌いな葉月は、数回前の数字しか覚えていないらしい。妹に勝っているのは、効率よく数字を暗記していたおかげだろう。
優月が次にめくったカードは7だった。7は初期段階で記憶した覚えがある。記憶を掘り起こすと、最前列の右端に思い至った。勝利を確信した。
トランプのペアは、ジョーカーを含めて二十七組。場に残っているペア数は六組だ。互いのペア数が十三組対八組だから、次に数字を揃えたら十四組対八組になる。葉月が残り全てを揃えても、十四組対十三組――。
「これで私の勝ちね」
含み笑いを漏らしながら、右端のカードをめくった。指の腹で数字を確認する。突起が横に二つ並んでいた。
「あれ?」
怪訝に思いながら、何度も撫でてみた。間違いなく3だ。7の突起の形ではない。なぜだろう。7は同列の左端だっただろうか。右端だと思っていたのだが――。
葉月の左右混乱作戦に惑わされ、ゲーム開始直後のカードまで場所を誤解したのかもしれない。
仕方なくカードを元に戻すと、葉月は見事に7を揃えた。残り数が減ったこともあり、妹は次々と数字を合わせていった。
結局、一組差で逆転負けをした。
「悔しい……」優月は下唇を噛み締めながらつぶやいた。「初めて葉月に負けちゃった」
「私だって勝ちたいんだから」
葉月が勝ち誇った口調で返すのを聞いたとき、とんでもない可能性に思い至った。
「私が分からないのをいいことに、こっそり数字を確認したりしてないよね?」
「まさか! いくらなんでもそこまでは――。私がやったのは7と3の位置の入れ替えだけ――あっ」
「ちょっと!」
優月は膨れっ面をしてみせた。妹のわざとらしい口の滑らせ方から推察すると、最初から白状する気でのイカサマだったのだろう。
「……もう本当に神経が衰弱した」
優月は不満を込めてつぶやくと、真後ろのソファに突っ伏した。背後から小悪魔的な笑い声が聞こえてくる。
「元気出してよ、お姉ちゃん。リベンジマッチする?」
表情を見られたくなかったから、ソファに顔を埋めたまま首を横に振った。騙されたのに笑ってしまったら悔しい。多少の反抗はしておきたい。
敗北に落ち込む感情はなかった。勝敗云々より、子供じみた遊びの相手をしてくれたことに対する感謝が大きい。元気を分けてもらえるような気がして嬉しかった。
葉月は可能な限りの行動をさせてくれる。訪問者の応対なども代わりに出るとは言わない。当たり前のように健常者と同じ扱いをしてくれる。全盲者に対する遠慮や気遣いがない。
むしろ、何も見えないのを利用して悪戯を仕掛けてくる。そんな行為は、不思議と悲観的な感情を吹き飛ばしてくれた。不幸なはずの障害も些細な問題に感じられる。
もし必要以上の世話を焼かれたら、逆に絶望を感じていたかもしれない。助けなしでは通常の生活も困難だと思い知らされ、惨めな気持ちになってしまっただろう。
「――はい、カット!」
男性の声が耳を打った。
優月は息を吐き、声の方角へ顔を向けた。
「お疲れ様でした、優月さん」
周囲にざわめきが広がった。男性や女性の話し声が聞こえはじめる。
「お姉ちゃん、大丈夫だった?」
正面から葉月の気遣う声がした。
「うん、大丈夫」
妹に答えたとき、男性の声が言った。
「撮影は以上です。後はインサート撮影を行います。お二人はゆっくり休んでいただければ」
「ありがとうございます」
優月は声の方角に向かって頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ撮影を受けていただいてありがとうございました」
声の主は、テレビ局のプロデューサーである久長だった。葉月が殺人罪で起訴された裁判の後しばらくして、妹を救ってくれた竜ヶ崎弁護士から連絡があった。
テレビ局のプロデューサーから出演の意向を確認してほしい、と打診があったという。
正直言えば乗り気ではなかったが、先方から「お話だけでも――」と懇願され、竜ヶ崎弁護士と七瀬真帆弁護士に立ち会ってもらって、葉月と一緒に話を聞いた。
(つづく)