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美波が殺人罪で裁かれる裁判員裁判が開廷した。
東京地方裁判所の中でも大きな法廷となった。竜ヶ崎は弁護人席に腰を落ち着けた。
法廷内の静寂が緊張感を高めていた。天井は高く、厳粛な空気が漂っている。正面には法壇があり、黒い法服を纏った三人の裁判官――中央は鮫島裁判長だ――が着席している。その威厳ある姿は法廷内の秩序を象徴していた。
三人の裁判官の両側には、一般市民から無作為に選出された裁判員が三人ずつ座っている。性別としては男性四人、女性二人。年齢も二十四歳から五十六歳とバランスがいい。
弁護士も検察官も、裁判員たちの素性は把握している。裁判員の選任手続きに出ているからだ。
一つの事件に五十人から百人ほどの候補者名簿があり、その中から裁判員候補者を抽出する。その後の選任手続きでは、裁判官三人、弁護士、検察官が待機している質問手続室で、裁判員候補者たちに集団質問を行う。裁判員法第三十一条一項により、弁護人と検察官は、裁判員候補者たちの氏名を二日前までに知ることができる。
裁判員候補者たちは事前に複数の質問に回答している。
『被告人または被害者と関係があったり事件の捜査に関与するなど、この事件と特定の関係がありますか?』
『家族や身近な人が犯罪被害にあったことがありますか?』
など――。
事件や当事者に関係がある者は公平な裁判ができないので、事前に排除される。犯罪被害に遭った経験があれば、当然ながら被告人への処罰感情が高まるし、弁護側に不利になる。
集団質問の場では、裁判官だけではなく、弁護士も検察官も、各々確認したい内容について裁判員候補者たちに質問する。今回のケースでは、真渕検察官から、身内に障害者がいるかどうか、という質問がなされた。身内に障害者がいれば、全盲の被告人への同情があるかもしれない、という判断だろう。
全候補者の面接が終わると、法曹関係者のみで行われる選任手続が開始される。検察側も弁護側も、裁判員候補者に対する『理由を示さない不選任の請求』が可能だ。質問の受け答えなどを吟味し、裁判員に相応しくない候補者を除外する。基本は四人で、補充裁判員の数によって最大七人まで外せる。
検察側と弁護側が互いに権利を行使することにより、バランスの取れた候補者が残る。そして――残った候補者たちの中からコンピューター抽選で裁判員が選出される。
今回の裁判で選ばれた裁判員六人は、極端な思想などがなく――少なくとも集団質問の場で分かるかぎりだが――、職業や性別、年齢の偏りもない。
――悪くない裁判員だ。
傍聴席は七割ほどが埋まっていた。最前列の左側にある報道席では、ノートとペンを持っている中年男性の姿もあった。何度か顔を見たことがある。たしか全国紙の記者だ。
被告人の入廷が告げられると、真帆に連れられて美波が現れた。サングラスをかけ、白杖を使っている。明らかに使い慣れていないことが分かる挙動で、途中、ふらついた。立ち止まり、周囲の音に耳を澄ませるように顔を左右に動かした。
真帆が美波の腕を自身の肘へ導いた。
美波が左手で真帆の肘に触れ、先導されながら一歩を踏み出した。被告人席――弁護人席の隣だ――にやって来るまでに永遠とも感じられる時間が流れた。裁判員たちは一様に心配そうな眼差しを向けている。
彼女が白杖の訓練をほとんど受けていないことは承知のうえで、購入して持参してもらった。
白杖を突きながらも歩行すら不安定な彼女の姿は、裁判員たちの目にしっかり焼きついただろう。百の言葉を費やすより、映像一つのインパクトが上回ることは往々にしてある。倫理的に褒められないとしても、弁護士としては依頼人のために常に最善を尽くさなくてはいけない。
本当に彼女に殺人が可能なのか――。そう疑念の芽を植えつけられれば、多少なりとも有利になる。
美波は手のひらで宙を探って椅子の背を掴み、座面に手をついた。そして――慎重に腰を下ろした。身じろぎして尻の位置を調整する。
補助すればすんなり座ることができると分かっている。だが、あえて手助けはしなかった。健常者には何の苦労がなくても、全盲の女性には日常の所作一つ一つが困難であることを裁判員たちに見てもらいたかった。
裁判は開廷前からはじまっている。
特に裁判員裁判では、視覚情報による影響が強い。
「大丈夫ですか?」
竜ヶ崎は美波に声をかけた。
美波はピクッと反応し、顔を竜ヶ崎の方向へ向けた。
「はい……」
「これから開廷です。説明したとおり、冒頭手続きではまず美波さんが呼ばれます。緊張せず、落ち着いて答えてください」
「はい……」
鮫島裁判長が開廷を告げ、「では、被告人は証言台の前へ」と命じた。
事前に補助の許可は得ているので、真帆が美波を証言台まで先導した。
視覚障害者の苦難を印象づける必要があるとはいえ、やり過ぎは逆効果になる。弁護人があまりに手助けをしなければ、冷淡な印象を抱かれてしまう。
冒頭手続での受け答えは重要だ。裁判員たちが初めて被告人の声を聞く場だ。
人間は第一印象を引きずる。初対面時の悪印象は、容易には覆らない。
罪を認めて量刑を争う裁判員裁判では、反省や後悔が伝わるような態度をとるように助言する。無実を争う裁判員裁判であれば、背筋を伸ばして法壇を真っすぐ見つめるように助言する。
だが、今回は事情が違う。無実を主張している裁判員裁判ではあるが、堂々としている必要はない。“突然法廷に引きずり出された罪なき全盲の被害者”に見えてほしい。だから美波には、『感じている不安や困惑は隠す必要がない』と伝えてあった。
彼女は証言台の前に立つと、次に聞こえる声の出所を探るように、顔を左右に動かした。サングラスで目が隠れていても、見知らぬ土地に迷い込んだ小動物のような怯えは裁判員たちに伝わっただろう。
鮫島裁判長が咳払いで注意を引き、『人定質問』をした。被告人の氏名、生年月日、住所、本籍、職業を問うのだ。
「……美波優月です」
彼女は深呼吸すると、緊張を孕んだ声で順に答えた。
鮫島裁判長は検察官席へ顔を向けた。
「では、検察官は起訴状の朗読を」
真渕検察官が「はい」とうなずき、立ち上がった。発音がはっきりしていて聞き取りやすい低音で起訴状を朗読する。
「――公訴事実。被告人は、令和×年八月十二日深夜十二時ごろ、東京都新宿区×××にある障害者訓練施設『天使の箱庭』において、施設長の荒瀬鉦太郎、四十八歳に呼び出されて視聴覚室へ行き、そこで襲いかかられて反撃した。同人が教卓に頭をぶつけて気絶したところ、被告人は日ごろから受けていた性被害の恨みにより、殺意を持って持参したナイフ、刃渡り十五センチで同人の腹部を複数回刺し、殺害したものである。罪名及び罰条。殺人!」
最後の『殺人』の一言のみ、断然とした語調で言い放った。裁判員たちに事件の重みを印象づけたのだろう。
効果はてきめんで、明らかに法廷内に緊張が高まった。
一時の静寂を鮫島裁判長の声が破った。細められた目は美波に注がれている。
「被告人には黙秘権があります。言いたくないことは言わなくても構いません。また、法廷内での発言は全て証拠となり、自己に有利な証拠にも不利な証拠にもなります。公訴事実について何か言いたいことはありますか」
法廷内の視線が一斉に美波へ向いた。
罪状認否だ。彼女には答えるべき内容は教えてある。弁護側のケースセオリーに沿った内容を簡潔に――。
美波が口を開いた。
「……私は荒瀬さんから性被害に遭ったことは一度もありませんし、恨みも持っていません。凶器のナイフは私が持参したものではありません。私は荒瀬さんを殺していません。無実です」
誠実な口ぶりだが、報道などによって『全盲の入所者が性被害の復讐で施設長を殺した』と先入観を植えつけられているだろう裁判員たちにどれほど伝わったかは微妙なところだ。
鮫島裁判長が弁護人席へ顔を向けた。
「弁護人、何か意見は?」
竜ヶ崎は立ち上がり、法壇を見据えた。
「美波さんは無実です。彼女自身は荒瀬さんから何の被害も受けておらず、殺人の動機はありません。凶器とされているナイフも美波さんが持参したものではありません。荒瀬さんを刺してもいません。視聴覚室で何者かに襲われて抵抗し、突き飛ばしただけです。美波さんは無実です」
ケースセオリーはこの後の冒頭陳述で語るため、繰り返しにならないよう、意見陳述は簡潔に述べた。
検察側が美波を殺人罪で裁かれている人間だと印象づけるために“被告人”と呼ぶのに対し、弁護側は名前をさんづけで呼ぶ。裁かれているのも裁判員たちと同じ一般市民である、と感じてもらわなければいけない。
表現の一つ一つの積み重ねが心証を形作る。裁判員裁判では、単語一つですら決して軽視できない。
竜ヶ崎は着席した。
鮫島裁判長が岩盤のような厳めしい顔で言った。
「では、検察官。冒頭陳述を」
冒頭陳述では、裁判で証明しようとする事実を説明する。
真渕検察官が立ち上がった。
「まずは被告人の家庭事情から話します。被告人は十八歳のころに両親と妹を含む家族四人で旅行に出かけ、交通事故に遭っています。その事故で両親を亡くしました。事故で負った怪我の後遺症で徐々に視力が下がりはじめ、六カ月前に失明しました。いわゆる中途失明者です。生活が困難になり、障害者訓練施設であるNPO法人『天使の箱庭』に入所して訓練をはじめました」
真渕検察官はそこで思わせぶりな間を取り、顰めっ面を作ってみせた。
「しかし、今回の事件で殺された荒瀬氏は、残念ながら聖人ではありませんでした。彼は被害者でもあり、加害者でもありました。『天使の箱庭』の施設長である荒瀬氏には悪癖があり、女性入所者や女性職員にセクハラや性加害を行っていたのです。そのことは副施設長や職員の証言によって明らかにします。証拠品として、被害の聞き取り調査の匿名アンケートの結果もお見せします。被告人は荒瀬氏から日常的に性被害に遭っており、その恨みを募らせていました。そして事件当夜――荒瀬氏に呼び出されたとき、復讐を決意したのです。まずは見取り図をご覧ください」
真渕検察官が書画カメラを使うと、法廷内の大型ディスプレイに『天使の箱庭』の外観写真と見取り図が映し出された。裁判員席に設置されている液晶ディスプレイにも、同じ映像が映っているだろう。
従来の裁判の冒頭陳述では、検察官が淡々と書面を読み上げる形式が多かった。だが、裁判員裁判では、一般市民に分かりやすく争点を伝えるため、図や写真、イラストを活用するケースが増えている。裁判員裁判用の法廷には『法廷ITシステム』があり、書画カメラとタッチパネルとモニターが一体となって設置されている。
「深夜十二時ごろ、被告人は赤丸の地点――自室から出ると、廊下を通り、二階へ移動します。その際、被告人はナイフを隠し持っていました。被告人がナイフを持っていた事実は、彼女を取り調べた捜査官の証言によって証明します。荒瀬氏が待つ視聴覚室に着いた被告人は、そこで荒瀬氏に襲われます。青丸の場所です」
真渕検察官は法壇を見つめた。液晶ディスプレイに落ちていた裁判員たちの視線が上がるのを待ってから続ける。
「荒瀬氏は決して善人ではありませんでした。罪なき女性を何人も傷つけていました。一般的な感情としては許しがたいでしょう。しかし、そのことは本裁判と直接は関係ありません。この場で裁かれているのは荒瀬氏ではないからです」真渕検察官は一呼吸置いた。「視聴覚室で襲われた被告人は、必死で抵抗し、荒瀬氏を突き飛ばしました。不意を突かれた荒瀬氏は転がり、教卓に頭をぶつけ、昏倒します。ここで形勢が逆転したわけです。被告人は床を手探りし、荒瀬氏が意識を失っていることを把握しました。そのとたん、殺意が噴き上がります。被告人が性被害を受けていた事実、被告人に御しきれない怒りを抱いていた事実は、施設関係者の証言で明らかにします」
真渕検察官はそこでディスプレイの映像を替えた。映し出されたのは凶器のナイフだった。鈍色の刃にどす黒い血がべったりと付着している。
(つづく)