18(承前)
尋問の効果が裁判員たちに十分浸透する間を取ってから、竜ヶ崎は続けた。
「先ほどの証言によると、警察は、気絶して無抵抗になった状態の荒瀬さんをナイフで刺した、と考えて逮捕したんですよね」
鎌田は落ち着きを取り戻すように深呼吸し、答えた。
「視聴覚室に入るなり、ナイフを取り出して襲いかかる――というような手口は、全盲の女性に不可能ですから」
「全盲。そう、何度も繰り返しますが、美波さんは全盲です。目が見えません。気絶した荒瀬さんの位置をどうやって把握したんでしょう?」
本来、反対尋問では、『なぜ?』『どうして?』『どうやって?』などの訊き方はタブーだ。証人が自由に答えられるし、想定外の証言が飛び出して慌てるはめになりかねない。せっかく追い詰めても、それっぽい説明をさせる機会を与えてしまう。
だが、何事にも例外はある。出てくるだろう内容が限定的で、どのような証言をされても尋問をコントロールできる確信があれば、証人の言葉で語らせるほうが効果的な場面もある。
「荒瀬さんの位置を特定するのは困難では?」
「そんなの――」鎌田は腕を伸ばし、手のひらで宙を撫でた。「このようにして手探りで探したんでしょう」
「立ったまま?」
「常識的に考えて、這いつくばってるに決まってますよ。法廷内で四つん這いになって実演しろと?」
「いえいえ、とんでもありません。単なる確認です。美波さんは四つん這いになって手探りで荒瀬さんの位置を把握した――」
「ええ。私も夜中に目が覚めて、リモコンやスマートフォンの位置を探すときはよくそうして見つけてますよ」
「なるほど……。四つん這いになっていたら、倒れている荒瀬さんに思いがけず密着してしまうこともありますよね」
鎌田は後ろめたい秘密を暴かれたような顔を見せた。質問の意味するところを理解したらしい。
「いや、それは――」
「目が見える健常者であれば、血まみれで倒れている人間の体に密着するようなことはしないでしょう。しかし、美波さんは目が見えませんから、荒瀬さんがどんな状態か、どこにいるのか、何も分からないわけです。這いながら手探りしていて、荒瀬さんの体の一部に引っかかって倒れ込んだとしたら――。抱擁するような体勢にもなるのでは?」
鎌田は渋面で唇を噛み締めた。
「お答えください」
「……まあ、ありえるかもしれませんね」
「正直なお答えに感謝します。捜査段階であなたは全盲の彼女の視点になって考えましたか?」
彼は苦渋の形相のまま、絞り出すように「いいえ……」と答えた。
「つまり、全盲の人間であれば、倒れている血まみれの遺体に抱き着くような格好になる可能性もある――ということですね」
「異議あり!」
さすがに真渕検察官が横槍を入れた。強めの語調だ。
「弁護側の尋問は荒瀬氏が被告人ではない何者かに殺されていたという、何も証明されていない前提に則っており、きわめて不適切です」
鮫島裁判長が言い放った。
「異議を認めます。弁護人は質問を変えるように」
尋問の効果は十分にあった。
「そうします」竜ヶ崎は素直に引き下がり、鎌田に向き直った。「先ほどあなたは一目で真相を見破れるほど超人的な力はない――と答えました」
「当然です。刑事の勘――というものは、捜査の端緒にすぎません。諸々の状況から推理を組み立てたら、徹底的に捜査し、証拠や証言を集め、裏取りをするんです。刑事の仕事は、世間の人々が思うより地道で、根気が必要なんですよ」
「よく分かります。弁護士の仕事も同じですから」竜ヶ崎は人差し指を立てた。「今、証拠や証言を集める――とおっしゃいましたが、それには容疑者から話を聞くことも含まれる?」
「もちろんです」
「それは捜査の中では比較的重要なことですか?」
「当然でしょう。最重要――と言っても過言ではありません。なんたって“容疑者”なんですから」
「現場に駆けつけたとき、あなたの中で美波さんは容疑者だった?」
「先ほども答えましたが、入所者の彼女が殺人を犯した、と施設関係者から聞いていましたし、衣服は血まみれで、ナイフも所持していました。無関係の第三者とみなすのは難しいでしょう」
「容疑者として話も聞きましたよね」
「逮捕し、取り調べを行いました。弁護士さんが黙秘を指示して彼女を黙らせるまでは」
鎌田は皮肉で一矢報いたように、薄笑みを浮かべながら答えた。
世間一般的には、無実ならそう訴えるはずだ、黙秘するということは往生際悪く罪を隠そうとしている、という偏見がある。おそらく裁判員たちも多かれ少なかれそのようなイメージは抱いているだろう。
この場で黙秘が正当な権利であることを説明し、鎌田に認めさせることも考えた。だが、そうしたら話が横道に逸れてしまう。今は本題で追及するべきだと判断した。
竜ヶ崎は鎌田の挑発的な皮肉を受け流し、対照的に落ち着いた声を意識して言った。
「逮捕の前の段階です。検察官の尋問の際は、話すのをお忘れだったようなので、確認しています」
「……どういう意味ですか」
鎌田の口調に不機嫌さが滲み出た。
「容疑者から話を聞くことは最重要だ、とまでおっしゃったのだから、当然、現場に駆けつけたとき、美波さんに話を聞いたのでは?」
「それは――」
「一言すら話を聞かず、全盲の女性を犯人として署へ連行したんですか?」
鎌田は舌で軽く唇を舐めた。緊張で唇が乾いていることが察せられた。
「……もちろん、話は聞きましたよ」
それまでに逃げ道を塞ぐ尋問をしてきたので、話は聞いていない、とは答えられないだろう。
「美波さんは殺人を認めましたか?」
鎌田は眉間に皺を刻み、「いいえ……」と答えた。
「美波さんは犯行を否定しましたね?」
「……はい」
「私は殺していません、と答えましたね?」
「……まあ」
「まあ? 曖昧な返答ですね。『はい』か『いいえ』でお答えください」
鎌田は諦念が籠った声で「はい」と答えた。
「美波さんは、視聴覚室で誰かに襲われて抵抗しただけ、と訴えたのではないですか」
「……荒瀬さんに襲われて抵抗したと話しました」
襲ってきた相手を限定したのが鎌田の精いっぱいの抵抗だった。弁護側のケースセオリー――彼女を襲ったのは荒瀬を殺した真犯人である――は当然検察官から聞かされているだろうから、美波の犯行を確信している担当捜査官としては、彼女を襲った人物は荒瀬だということにしたいのだ。そのための尋問の予行練習もしているだろう。
「全盲の美波さんは、真っ暗闇の世界で生きています。自分を襲ってきたのが誰か、知りようがありません。そんな彼女が人物を特定することは不可能です。誰かに襲われた――と言ったのでは?」
鎌田の表情に弱気が忍び込んでいた。
「い、いや、荒瀬さんに襲われたと言ったと――思います」
「思います? 視聴覚室で殺されているのは荒瀬さんですし、職員の方々から話を聞いて、荒瀬さんが美波さんを襲って返り討ちに遭ったという“分かりやすいストーリー”に飛びついた結果、彼女が人物を特定していないにもかかわらず、そうだと決めつけてしまったのでは?」
「そんなことは――」
「この事件は“全盲の女性の視点”を理解しなければ、真相を見落としかねません。先ほどの服の血のお話を聞いても、警察が“全盲の女性の視点”で事件を見ていたとはとても思えません」
鎌田は言葉を詰まらせた。
実際には、美波自身にも荒瀬に襲われたという先入観があり、警察の事情聴取ではそう答えてしまった可能性もある。だが、先ほどの反対尋問で、警察が“全盲の女性の視点”に立っていなかった疑いを印象づけたので、裁判員たちは弁護側の主張に説得力を感じるだろう。
「質問を変えます。凶器のナイフについて訊かれたとき、美波さんは自分が持参したものではない、と話したのではないですか?」
「……はい。そう言いました」
「美波さんは、殺人を否定し、凶器も自分のものではないと否定した。そうですね?」
「……はい」
「しかし、彼女の訴えには耳を貸さず、署へ連行し、逮捕した――。逮捕までこれほど迅速であれば、警察は他に真犯人がいる可能性を一切検討していませんね?」
鎌田が答える前に、竜ヶ崎は「反対尋問を終わります」と宣言した。
一定の効果があったと確信した。
だが――。
竜ヶ崎が席に着くと、入れ替わるように真渕検察官が「再主尋問をお願いします」と手を上げた。
鮫島裁判長が許可すると、真渕検察官は立ち上がり、証人席へ目を向けた。
「被告人を任意同行で署へ連れて行き、事情聴取してから逮捕状を請求したのは何日後ですか?」
鎌田は質問の意図を察したらしく、落ち着きを取り戻した顔で「二日後です」と答えた。
「先入観や偏見に基づいて逮捕しましたか?」
「いいえ。むしろ、彼女が犯人でなければいい、とさえ思いました。事故で視力を失い、NPO法人の訓練施設に入って施設長から性加害を受けたあげく、恨みと怒りで殺人――。そんな真相は不幸すぎます」
「しかし、警察は被告人を逮捕した。なぜですか」
「二階にある現場の視聴覚室の窓は全て内側から閉まっており、第三者が逃げ出した形跡はありませんでした。科学捜査の結果、指紋や血などの物的証拠がありました。関係者へ事情聴取を行い、動機も判明しました。残念ながら彼女が犯人でしかありえず、やむなく逮捕状を請求しました」
「逮捕は拙速だったわけではないんですね?」
再主尋問でも禁じられている誘導尋問だったが、異議を唱える前に鎌田が「もちろんです」と答え、真渕検察官が「以上です」と切り上げた。
竜ヶ崎は奥歯を噛み締めた。
本来ならば、逮捕の経緯などは主尋問で明らかにする。だが、真渕検察官はあえて触れなかった。弁護側の反対尋問を予測し、再主尋問で逮捕の正当性を裁判員に印象づける作戦だったのだろう。
真渕検察官も手練れだと認めるしかない。裁判員裁判を熟知し、法廷戦術を組み立てている。
再反対尋問で弾劾できる証言内容ではないので、検察側に心証を上書きさせたまま諦めるしかなかった。
一人目の証人は、検察側にポイントを積み上げた。
(つづく)