11
第一回の『公判前整理手続』が終わると、竜ヶ崎は真帆を伴って美波のアパートへ赴き、開示された全証拠を子細に検討した。弁護側と検察側に異議がない事実には合意書面を作ると説明する。
「簡単に認めていいんでしょうか」美波が不安そうに言った。「何だかそのまま有罪にされそうで……」
「懸念は分かります。しかし、物的証拠などによって明らかな事実を争うと、弁護側が難癖をつけているように見えます。こちらの提出する反証にも疑惑が生まれ、信じてもらえなくなりかねません」
「……そうなんですね。認める事実というのは、たとえばどのような?」
「たとえば、事件が起きた時間帯や場所です。他には『天使の箱庭』で施設長が職員や入所者にセクハラを行っていた、という話とか――」
「他の人のことは分かりません。でも、少なくとも私は被害は受けていません」
「何度もお聞きしていますが、本当に間違いないですか?」
「はい」美波は断言した。「セクハラ的な発言とか、体に触れられたとかは一度もありませんでした」
竜ヶ崎は横目で真帆を見やった後、顎を撫でた。
彼女は一貫して性被害を否定している。それが事実なのかどうか、正直、分からない。被害があったなら、復讐殺人の動機が生まれてしまう。彼女としては否定したいだろう。
真帆が訊いた。
「もし裁判で職員から目撃証言などが出てくると、不利になります。本当にありませんでしたか?」
美波は「はい」とうなずいた。「噂は聞いていても、私自身は被害に遭っていません。だから半信半疑でした」
「……でも、護身用に小型ナイフは持参したわけですよね?」
美波の表情に苦悩が滲み出た。
「深夜の呼び出しでしたし、万が一のために……。今は後悔しています。馬鹿なことをしたと思います。でも、そのときは不安が強くて、必要以上に警戒してしまいました」
護身用のナイフ――か。
たとえ心配があったとしても、刃物を隠し持っていながら“護身用”という理由は、一般常識的に受け入れられるのは難しいだろう。殺意を疑われてしまう。
竜ヶ崎は言った。
「そのナイフの件も法廷では問題視されると思います。料理用の小型ナイフを持参した事実は争わず、凶器のナイフとなった二本目に関して争います。凶器のナイフは美波さんが持参したわけではない、と断言できますね?」
「できます」
「分かりました。検察側は凶器のナイフも美波さんが持参した、と考えています。法廷でもそう主張するでしょう。所持していなかったことの証明は困難ですが、しっかり争います」
「お願いします」
彼女は深々と頭を下げた。
二時間ほどの話し合いを終えて事務所へ戻ると、竜ヶ崎はノートに向かい合った。
【不利な事実】
護身用に小型ナイフを持参した。殺害手段。
彼女が被害者から性加害を受けていた可能性。動機。
深夜に一人で被害者に会いに行った。
凶器のナイフに彼女の指紋がついている。
衣服に付着した被害者の血。
ほぼ現行犯で発見されている。
視聴覚室から逃げ出した第三者の不存在。窓はシャッターが下ろされ、室内から外へ逃げ出すことは不可能。
【有利な事実】
全盲で非力。健常者の男に襲われたら勝てない。
竜ヶ崎は書きつけた内容を見つめ、頭を掻き毟った。
あまりに不利な事実が多すぎる。検察側はこれらの事実を法廷で積み重ね、裁判官と裁判員に美波が有罪だと確信させるだろう。
弁護側は――全盲の女性に犯行は無理だと主張するしかない。
だが、それで裁判官と裁判員を納得させられるか? 考えるまでもなく、無理だ。消極的な弁護では無罪は勝ち取れない。
ノートに書きつけた内容について、一つ一つ検討していく。
小型ナイフを持参したことは彼女自身認めている。否定はできない。事実として認めるしかない。だが、そうすると凶器のナイフも持参したのではないか、という疑いが生まれる。彼女にとって不利な心証が形成される。
彼女は被害者から性加害を受けていないと答えた。だが、検察側はその事実を証明するつもりだという。もし被害を証明する目撃者などが存在したらきわめてまずい事態になる。法廷で彼女が否定した後、決定的な証言が出てきたら心証は地に落ちる。動機を隠そうとした殺人犯のように見えるだろう。
従来の裁判ならそのような不意打ちもあり得たが、『公判前整理手続』に付される裁判員裁判では、検察側の証明予定事実が事前に開示されるため、不意を突かれる心配は少ない。どのような主張をするかは、次回の『公判前整理手続』を待ってから決める。
被害者に呼び出されて一人で視聴覚室へ向かったことは事実だ。凶器の指紋や衣服の血も事実。科学捜査で証明された証拠は覆せない。
指紋や血の事実は争わず、付着した理由を争う。それがベターだろう。美波自身が説明したように、被害者が気絶したと思ったので床を手探りしていたらナイフに触れた。指紋はそのときに付着した。彼女はナイフだと気づいて驚き、放り捨てた。血は、刺殺された被害者に触れた際に付着した。
竜ヶ崎は嘆息を漏らした。
ここで無理が生じる。
美波は触れたナイフを手に取り、放り捨てた後、そこで何者かがそのナイフで被害者を刺殺した。何度も刺した。そしてそのまま音もなく消えた。何も知らない美波は再び手探りし、遺体に触れた。そこで血が服に付着した――。
一体誰が信じる?
殺人犯はどこから現れ、どこへ消えた?
竜ヶ崎はノートの文章に×印を書き込んだ。
このケースセオリー――事件を結論へ導く道筋――では裁判官と裁判員を説得できない。第三者が存在した可能性を信じてもらうには……。
動機がある他の人間の存在を示して見せるのが常道ではある。しかし、今回の事件は『天使の箱庭』という障害者訓練施設で起きており、容疑者を挙げるとしたら、職員か、入所している他の障害者ということになる。よほどの根拠がないかぎり、安易に名指しはできない。弁護側への印象が悪くなる。
竜ヶ崎はノートを閉じ、弁護士事務所を後にした。月は垂れ込める暗雲に覆い隠されており、未来を暗示しているかのように一帯は薄闇に包まれていた。
12
法廷で語るべきケースセオリーが定まらないまま、第二回の『公判前整理手続』を迎えた。
竜ヶ崎は席につき、鞄から書面を取り出した。
口火を切ったのは真渕検察官だ。
「弁護側にほとんどの調書を不同意にされましたので、検察側としては事実証明のため、証人尋問の準備があります」
検察側は、証人として、美波の取り調べを担当した捜査官、『天使の箱庭』の副施設長である太崎和子、事件当夜の当直だった職員二人――峯祐輔と葵若葉、そして聴覚障害者の男性入所者を証人請求した。証人の氏名、住所、証言要旨記載書面――予定している証言の要旨が記してある書面――は弁護側に開示される。
竜ヶ崎は、類型証拠として、証人申請された四人への供述録取書などの開示を求めた。証拠書類は後で検察庁でコピーしなければいけない。
第二回『公判前整理手続』は、検察側の証拠の取り調べ請求と検察官請求証拠の開示がメインだ。
検察側証人の証明予定事実によると、取り調べ担当者は現場に駆け付けた際の状況、美波から聞き取った供述――小型ナイフの持参や、当夜の行動について証言する。太崎和子は荒瀬施設長の性加害の事実と遺体を発見したときの状況を。峯祐輔と葵若葉も同じく、性加害の件、事件現場である視聴覚室に駆けつけたときに見た状況を。聴覚障害者の男性、嶋谷良平は、荒瀬施設長が美波に性加害を行ったことを太崎和子が非難している場に遭遇し、聞き取った内容――耳が聞こえないため、唇を読んだという――を証言する。
真渕検察官は、法廷で遺体の写真を提示したいと提言した。
「賛成できません」竜ヶ崎は迷わず否定した。「遺体の写真はあまりにショッキングです」
悲惨で生々しい写真を目にした裁判員たちは、事件の陰惨さを思い知って被告人を犯人視し、厳罰指向になる。
「提示するならイラストでお願いします」
真渕検察官は呆れ顔でかぶりを振った。
「最も証明力が高い写真や映像を伏せて公正な裁判が可能でしょうか? たとえば一九九〇年の湾岸戦争は、最新鋭のミサイルが飛び交う映像が煽情的に報じられ、“テレビゲーム戦争”と揶揄されました。ゲームのような非現実的な映像で戦争を見せられた市民たちは、人が殺されても現実感が湧かず、悲惨な戦争を深刻に受け止めませんでした。それと同じです。イラストでは事件が薄められます。遺族としても、身内がどんなひどい目に遭ったか裁判員に知ってもらいたいと思っています」
「裁判員裁判では『刺激証拠』には慎重であるべきです。一般市民に精神的負担を与えるべきではありません。二〇一三年のように、裁判員が急性ストレス障害になれば、問題です」
鮫島裁判長は難しい顔を見せた。
二〇一三年、福島県の裁判で遺体の写真を見せられた裁判員の女性が急性ストレス障害になったとして、損害賠償を求めて国を提訴した。裁判では症状への因果関係が認められた。それ以降、裁判員裁判では、遺体などの『刺激証拠』の採用には慎重になっている。イラストですら、裁判員への負担を理由に却下されるケースもある。
鮫島裁判長は渋面のまま言った。
「遺体に関しては配慮を求める。ただし、凶器のナイフに関しては実物の写真を認める」
妥当な判断だろう。
真渕検察官は嘆息交じりに「分かりました……」とうなずいた。
『公判前整理手続』が終わると、竜ヶ崎は弁護士事務所へ戻った。真帆がデスクから顔を上げ、「どうでした」と訊いた。
竜ヶ崎は鞄を自分のデスクに置いた。
「……厳しくなりそうだ」
彼女は眉を顰め、続きを待つように竜ヶ崎を見つめていた。
「美波さんが性被害に遭ったことを証言する証人が出てきた」
その一言で事態の深刻さが伝わったらしく、真帆はますます深い縦皺を眉間に作った。唇を真一文字に結び、思案するように黙り込んでいる。
第三者が荒瀬施設長による美波への性加害を証言したら――。彼女自身が被害を否定したとしても、裁判官と裁判員は決して信じないだろう。殺人の動機を否定したがっているように見える。
検察側のストーリーは単純明快。
性被害の復讐で美波が被害者を殺害した、というものだ。そのために荒瀬施設長の性加害の事実を証明し、美波に動機と手段があったことを訴えるだろう。
おそらく、検察側の最重要証人は聴覚障害者の男性だ。
竜ヶ崎はノートにペンを走らせた。
法廷では裁判員に『推定無罪』と『疑わしきは罰せず』の理念をしっかり説明する。弁護側は無実を証明する必要はなく、検察側が合理的な疑いを差し挟む余地なく罪を証明しないかぎり有罪判決を下せない、合理的な疑いが残っていれば無罪判決を出さなければいけない、と刑事裁判の原則を訴える。その上で、彼女以外にも犯人がいる可能性を信じさせる。
現状では他に弁護手段がない。
竜ヶ崎は証拠を精査し、真帆と二人で検討した。検察側から取り調べ請求された証人の供述調書を読み込むと、法廷で証言される内容がおおよそ把握できる。内容に矛盾や誇張がないか、客観的な事実と食い違いはないか、法廷ではどのように反対尋問するか――。
その後、検察側の証拠が順次開示され、確認できた。施設内で行われた聞き取り調査のコピーもある。荒瀬施設長からセクハラなどの被害を受けたことがあると答えているのは、女性職員三人、女性入所者五人だった。匿名の調査なので被害者の名前などは分からない。
竜ヶ崎はノートパソコンで映像を再生した。動画プレイヤーに映し出されているのは、幼い少女の姿だった。タイトルは『泉梨乃(10)への聞き取り』とある。
画面外にいるらしい女性の声――太崎和子だ――が尋ねた。
「施設長の荒瀬さんから嫌なことされた?」
少女はためらいを見せた後、顔のそばに猫のように右手を持ち上げ、拳を上下に振った。
検察側の請求証拠である聞き取り映像だ。基本的には匿名のアンケートで調査が行われたようだが、中には被害を直接聞き取った入所者もいたらしく、少女はその一人だった。心因性の失声症――声が出せない状態――だという。
インターネットで調べたところ、少女の手話は『はい』を意味していた。
緊張の滲む太崎和子の声が質問を重ねた。
「体を触られた?」
少女は不安げに顔を顰め、再び同じ手話で応えた。
『はい』
「何度も触られた?」
同じ手話。
「他の人が荒瀬さんに触られているところを見た?」
同じ手話。
「それは誰か知ってる?」
同じ手話。
「……それは美波優月さんだった?」
同じ手話。
「……そう。ありがとう。勇気を出して正直に話してくれて。あなたはここの施設で訓練を続けられる?」
再び少しの間の後、少女は右手の親指と人差し指を立てて、くるっと手を捻った。
『いいえ』かと思ったが、調べたら違った。一体何と答えたのだろう。
手話の専門家に頼るべきだったかもしれないと思いながら、ジェスチャーが何を意味するのか検索した。
(つづく)