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19(承前)


「荒瀬氏は入所者や職員にセクハラや性加害を?」
「初めて噂を耳にしたときは、何かの間違いだと思いました。しかし、あまりに被害の話が具体的だったため、私は施設内で聞き取り調査や匿名のアンケートを行いました」
 真渕検察官がそこでアンケートを提示する許可を求めた。
「アンケートは事前に弁護側に閲覧してもらっています」
 匿名のアンケートなので、内容の真実性が保証されていない、という理由で異議を申し立てることも考えた。だが、この後の検察側証人の証言内容を考えれば、弁護側が難癖をつけているように見える危険性と紙一重だったので、竜ヶ崎は「異議ありません」と答えた。
 匿名であることを追及すると、デリケートな被害の調査で実名を要求しているように見えかねない。実名でなければ価値なし――と主張しているように思われる。
 真渕検察官はディスプレイにアンケート内容を映すと、主尋問を続けた。
「あなたが行ったアンケートはこれで間違いありませんか?」
「間違いありません」
「アンケート内容によると、荒瀬氏から被害を受けたと答えているのは、女性職員三人、女性入所者五人ですね?」
「実態はもっと多いと思われます。大っぴらにすることに抵抗がある被害ですし、匿名とはいえ、全員が正直に答えるとはかぎりません。施設を辞めた職員や入所者は回答できませんし、その中にも被害者がいた可能性はあります」
「アンケート結果を知ったあなたはどうしましたか」
「職員に相談した入所者に直接話を聞くなど、被害の実態の把握に努めました」
「荒瀬さんから被害に遭っていた入所者は分かりますか?」
「一人は失声症の女の子です。もう一人は――」太崎和子は被告人席に目をやった。「美波優月さんです」
 真渕検察官は大袈裟なほど驚愕の表情を作った。
「被告人ですか!」
 驚いたように言う。
 太崎和子が「はい」とうなずいた。
「被告人は何と?」
「職員から聞いた話では――」
「異議あり」竜ヶ崎は即座に手を上げた。「伝聞証言です。証人本人が経験したことではありません」
 鮫島裁判長が「検察官、意見は?」と確認した。
「質問を変えます」真渕検察官は太崎和子に向き直った。「被告人本人から被害を相談されたことはありますか」
「……あります。荒瀬さんに押し倒されて体を触られた――と言われました」
「ひどい話です。信頼していた施設のトップから被害を受けたら、動揺も大きかったでしょう。それを聞いたあなたはどうしましたか」
「看過できないと思い、すぐ荒瀬を直接問い詰めました」
「荒瀬氏は何と?」
「聞く耳持たず、無視でした」
「罪を否定したりは?」
「一切しませんでした。私が責め立てても、仏頂面で、謝罪などもなく……」
「弁解もなかったわけですね」
「残念ながら。『天使の箱庭』を設立した同志ですし、何かの間違いであってほしいと願っていましたが、叶わず……。失望しました」
「それでどうしましたか」
「私は『証拠が集まったら責任を取ってもらいます』と明言して、話を終えました。もっと早くに何とかしていれば、今回のような不幸な結末は避けられたのに……と悔やんでも悔やみきれません。率直に申せば、荒瀬は自業自得だと思っています。被害者の女性にこんなことをさせてしまったことは、痛恨の極みです」
 異議を唱える前に、真渕検察官が「主尋問を終えます」と宣言した。
 一時、静寂に伴って法廷内の空気が重くなった。
 鮫島裁判長が「弁護人、反対尋問を」と命じると、竜ヶ崎は立ち上がった。
 太崎和子は緊張した面持ちでこちらに目をやった。
 美波は、荒瀬施設長から性被害には遭っていない、と話している。当然、誰かに相談などしていない。しかし、太崎和子は美波から被害を訴えられた、と証言した。
 美波が事実を語っているならば、太崎和子が嘘をついていることになる。反対尋問で弾劾すべきではあるが――物証などは何もないので、言った言わないの水掛け論になる。
 攻めるなら別の証言だろう。
 竜ヶ崎は反対尋問を開始した。
「先ほどあなたは、美波さんに同情し、荒瀬さんの加害行為を非難しました。その感情に間違いはありませんか?」
「……ありません」
「荒瀬さんは施設を立ち上げた仲間であるわけですが、それでもなお、いち入所者である美波さんのほうに同情しているんですか?」
 太崎和子は眉間に皺を刻んだ。
「私は以前より荒瀬の理念に共感し、感銘を受けていたこともあり、設立にあたって協力をお願いしました。しかし、まさか立場を悪用してあんな犯罪を行う人間だったなんて――。とても許すことはできません」
「荒瀬さんの死を前にしたとき、美波さんが犯人であることを願っていましたか?」
 太崎和子は質問の意味を図りかねたように、首を捻るようにした。
「そんなこと、望んでいません。でも、目の前で起きた現実は否定できませんし、だから――」
「全盲の美波さんが無実であれば、それに越したことはないと思いますか?」
 質問を重ねたとき、さすがに真渕検察官から異議が出た。
「質問の意図が分かりません。無意味な重複質問です。証人の私情は本裁判には関係ありません」
 鮫島裁判長が「弁護人、意見は?」と尋ねた。
「質問を変えます」竜ヶ崎は言った。「あなたは犯行の場面は目撃していませんね?」
「……はい」
「駆けつけたとき、荒瀬さんはすでに死んでいて、美波さんはへたり込んでいたんですね?」
「……はい」
「犯行直後に現場から逃げ去る人間がいた場合、目撃できましたか?」
 太崎和子は顔を顰めた。
「悲鳴を聞いてからすぐ駆けつけましたし……」
「悲鳴と同時に視聴覚室へたどり着いたわけではないですよね?」
「……それはまあ、そうですけど、でも、いくら何でもそんなことはさすがに――」
「おや?」竜ヶ崎は首を傾げてみせた。「まるで美波さんが犯人であってほしいかのようですね
 太崎和子ははっと目を見開いた。
「先ほどは、美波さんが犯人であることを願っていない、というお話でしたが、本音はどちらでしょう?」
 反対尋問で重要なのは、一見無関係に思える質問で逃げ道を塞いでから肝心な質問をぶつけ、望みどおりの証言を引き出すことだ。
 太崎和子は大きく息を吐いてから答えた。
「もちろん、美波さんが犯人であることなんて望んでいません。彼女には同情していますし、できれば無実であってほしいと思っています。それは本心です」
「なるほど。では、改めてお聞きします。悲鳴の直後、視聴覚室から逃げ出した人物がいた場合、あなたは目撃できるタイミングで現場へ向かいましたか?」
「……いえ。悲鳴の発生源を探して少し廊下を歩き回りましたし、第三者が逃げ出すタイミングはあったと思います」
「正直なお答え、どうもありがとうございます。視聴覚室へ駆けつけたとき、美波さんは自分が殺したと言いましたか?」
「……言っていません。荒瀬さんに襲われて抵抗した、と言われました」
 荒瀬さんに――か。
 この証言は少しでも減殺しておく必要がある。
「美波さんは荒瀬さんの姿を見たと言いましたか?」
「……彼女は目が見えませんから、もちろん、言っていません」
「美波さんは、荒瀬さんに呼び出されて視聴覚室に来たと話しましたか?」
「はい」
「美波さんは、視聴覚室で荒瀬さんと言葉を交わしたと言いましたか?」
「言っていません」
「では、美波さんは誰に襲われたか特定できませんね?」
「……そう思います」
「美波さんの手は血まみれでしたか?」
「……服だけです」
「視聴覚室に洗面設備はありますか?」
「ありません」
「荒瀬さんを刺したとしたら、手を洗うことはできませんね?」
「できません」
「美波さんは視聴覚室で待ち構えていた相手の声を聞いていません。第三者が彼女を襲った後、抵抗にあって逃げ出す時間はありました。美波さんは犯行を否定し、手に返り血もついていませんでした。それでもなお、彼女が犯人に間違いないと思いますか?」
「……思いません」
「反対尋問を終わります」

 

(つづく)