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日比谷公園は、木々の葉擦れの音や小鳥の鳴き声に包まれていた。 銀杏の木々が黄金色に染まり、風が吹くたびに葉が舞い散る。池は陽光を吸い込んで銀色のちりめんのように輝き、水面に映る青空が揺らめいている。
秋の気配が少しずつ近づいていた。
竜ヶ崎はベンチに腰掛け、ふう、と息を吐いた。前方に目をやり、そよ風に身をさらしていると、靴音が近づいてきた。相手がそのまま隣に腰を下ろす。
ちらりと見やると、真渕検察官の横顔があった。
「どうも、竜ヶ崎先生」
彼は前を見つめたまま口を開いた。
「どうも」
竜ヶ崎も軽く応じた。
しばらく、二人揃って黙ったまま前を見つめ続けた。
竜ヶ崎は膝の上で指を絡め、切り出した。
「公訴の取り消し、感謝しています。検察で立場が悪くなったのでは?」
公訴しておきながら取り消すということは、検察が無実の者を訴えていたことを意味する。取り消しには高等検察庁の検事長に決裁を貰う必要があり、担当の検察官は不手際を責められるだろう。
真渕検察官は苦笑した。
「正義と真実を重んじた結果です」
「……取り調べは進んでいますか」
「ぼちぼち、というところでしょうか。関係者たちからの供述も集まっているようです」
ようです、という曖昧な言い回しは、真渕検察官が公判部所属――裁判を担当する検事――だからだろう。捜査から起訴までを担当する刑事部の検察官から情報を得ている立場だ。
「先日の公判で明らかになったように、荒瀬施設長を視聴覚室で刺殺したのは、副施設長の太崎和子でした。順を追って説明しますと、『天使の箱庭』では以前から公費の不正受給が行われていたようです。専門的な技能を持った職員を雇っていると偽って、実態は資格などない若者が何人も働いていました。入所者のために必要な訓練道具や設備なども最低限のみで、あまり購入の実態がありませんでした。カウンセラーや弁護士などには、顧問料のような形でかなり高額の金銭が支払われていたようです。しかし、金額に見合っただけの仕事をしていたとは思えず……」
典型的な手口だな――と思った。
自分と繋がりがある個人や団体を優遇し、仕事内容に見合わない高額の代金を支払って儲けさせる。実体のない仕事に謝礼金を払う。キックバックを受け取る――。
真渕検察官が嘆息混じりに続けた。
「カウンセラーや弁護士の顧問料に関しては、それが正規の報酬額だ、と言われてしまえば、追及は難しいでしょうね。たとえ一般常識に照らし合わせて、高額すぎたとしても」
金田淳美弁護士の顔が脳裏に浮かび上がる。彼女が裁判中に圧を掛けてきたのも、調べられては困る事情があったからだろう。殺人事件に関与しているとまでは思わないが。
「『天使の箱庭』の実権は太崎和子が握っており、施設長の荒瀬氏は経営にノータッチで、何も知らなかったようです。評判を聞くかぎり、施設に顔を出すことは少ないものの、パワハラやセクハラとは無縁で、温厚かつ真面目で入所者想いの好人物のようでした。今回、生活訓練をする中で、美波優月さんが職員の能力と知識に疑問を持ったことが全ての発端です。本人からその辺りの経緯は聞いているのでは?」
被告人質問に先立って、美波優月に初めて対面し、事情は教えてもらっている。
竜ヶ崎は一呼吸置いてから語った。
「施設に疑問を持って、思い切って荒瀬さんに探り入れたそうです。荒瀬さんは困惑していたらしく、確認してみる、と優月さんに答えました。その後、優月さんは妹の葉月さんにも状況を相談し、心配した葉月さんの提案で入れ替わりが行われました。健常者の葉月さんが全盲を装って『天使の箱庭』で生活していると、やはり疑惑は事実だと感じるようになったそうです。荒瀬さんから『内々に話がしたい』と呼び出されたのは、事件の夜です」
「太崎和子側の動きはこうです。荒瀬氏から探りを入れられ、話の内容から、施設を疑っているのは美波優月さんではないか、と察しをつけたらしく、職員に彼女を調べさせました。これは入れ替わりが行われる五日前です。職員は優月さんの部屋を訪ねて他愛もない話をした後、出て行ったと見せかけて居残り、彼女がバスルームへ姿を消したタイミングで枕元のスマートフォンを調べました。妹へのLINEを見て、施設を疑っていることを確信しました。そこで何とかしなければ――と策を弄したようです。その後の事情聴取で全てを語っています」
「荒瀬さんは無実だったんですね」
「そうですね。荒瀬氏を施設から排除する名目として、子飼いの職員――峯祐輔と葵若葉を使って、彼の悪評を撒いたようです。施設内という狭い空間ですから、二、三人がそれとなく仄めかせば、噂話に尾ひれがついて、既成事実化していきます。数日が経ったころには、直接的な証拠や証言がないにもかかわらず、荒瀬氏はセクハラ・パワハラの常習者になっていました。後は被害を口実に彼を施設から排除すればよかった」
「でも、そうはならなかった」
「元々、殺すつもりなどはなかったようです。結果的には偽装工作のようになった、美波優月さんを利用した小細工――」
「食堂で彼女が被害に遭っている話を口パクで見せた件ですね?」
「そうです。あれは美波優月さんを施設から追い出すための根回しのようなもので、彼女は荒瀬氏から被害を受けて施設を辞めた、という理由を作るためでした。しかし、その前に荒瀬氏が施設の経営実態を調べ、不正受給の証拠を掴みました。太崎和子としては、不正と自分が結びついてはまずい、と考えたようです。もちろん、経営の実権を握っていたのだから、疑われていることは間違いありません。だから――」
「口封じするしかなくなった」
「荒瀬氏が深夜に美波優月を呼び出したのも、秘密裏に事実を伝えるためだったと考えられます。太崎和子はその呼び出しの件は知らなかったようですが、荒瀬氏の動向には常に注意していたようです。一刻も早く脅威を排除しなければ――と考え、深夜、部屋を出た荒瀬氏を尾行し、視聴覚室へ踏み入りました。太崎和子の登場に驚いた様子の荒瀬氏でしたが、彼女を追及したそうです。彼女は、もう逃げ道はない、と思い詰めたすえ、隠し持っていたナイフで刺殺――」
衝動的で短絡的な犯行に、竜ヶ崎は呆れてかぶりを振った。
「返り血が付いた上着を脱ぎ、ナイフの指紋を拭うなどの後始末をしていたとき、ノックがあり、太崎和子は飛び上がりました。慌てて室内の電気を消し、息を潜めました」
「それが美波優月さん――正確には、彼女に成り代わった美波葉月さんだったわけですね」
「荒瀬氏との待ち合わせだったので、葉月さんは室内から返事がなくてもドアを開けて中に入ったわけです。太崎和子は焦ったようですが、荒瀬氏に呼びかける声を聞いて、やって来たのが誰なのか把握し、とっさに彼女を犯人に仕立て上げる方法が閃き、実行しました」
多少なりとも暗闇に目が慣れていて人影程度は把握できただろう、太崎和子。対する美波葉月は、全盲の姉を装うためにサングラスをしており、完全な闇の中にいた。
「太崎和子は荒瀬氏を背後から抱き起こし、美波さんへ突き飛ばしました。太崎和子は学生時代、柔道部だったこともあって、力がありました。美波さんは暗闇の中でのしかかってきたのが死体とは思わず、当然抵抗します。後は竜ヶ崎先生が法廷で暴いたとおりです。美波さんは荒瀬氏から襲われたと誤認した。その後、太崎和子は彼女の悲鳴を聞きつけて駆けつけた善意の第三者を装ったわけです。血が付着した上着は警察が到着する前に処分したようですね」
「太崎和子が殺人を実行し、駆けつけた職員二人が口裏を合わせた――ということですか」
「職員二人も殺人に関しては関知していなかったようです。太崎和子の仲間として利益を享受している身だったので、不正受給が発覚しないよう、協力したようです。ま、何にしても、それぞれが相応の罪に問われることは間違いありません」
無残に殺されたあげく、希代の悪党のように報じられ、マスコミやSNSで袋叩きにされていた荒瀬施設長の無念も多少は晴らすことができただろうか。
今にして思えば、荒瀬施設長の悪行の噂を既成事実にするため、太崎和子たちはSNSを使って巧妙に世論を煽ったのではないか。拡散の手際がよすぎた。
真渕検察官は嘆息と共に立ち上がった。
「ま、義理として説明責任は果たしたつもりです」
竜ヶ崎は彼の背中に答えた。
「感謝しています」
「……こちらの台詞です。冤罪の愚を犯さずに済みました」
真渕検察官はそう言って立ち去った。
竜ヶ崎はしばらくベンチに座ったまま、事件に思いを馳せた。
(つづく)