最初から読む

 

15

 第三回『公判前整理手続』で弁護側も証拠請求を行った。
 竜ヶ崎は鮫島裁判官と真渕検察官の顔を交互に見た。
 真渕検察官がため息を吐き出した。
「弁護側は十歳の少女も喚問する気ですか」
「重要な証人です。検察側が証拠申請した映像の信用性を争います。予定の証言は書面に記載されています」
「そもそも、聞き取り調査の様子をおさめた動画は、きわめてデリケートなものです。施設側からは、当人に迷惑、、をかけないことを条件に提供されています」
「証人申請しているのは検察側ではなく、弁護側ですし、保護者の許可は得ています」
 真渕検察官は顰めっ面を見せた。
「……幼い証人の証言の信用性には疑問があります。検察側は少女の証人申請には反対です」
「判例があります」竜ヶ崎は言った。「昭和四十八年十一月十四日の東京地裁の判決では、三歳八カ月の幼児の証言の信憑性が認められています。京都地裁では、昭和四十二年九月二十八日の判決で四歳の証言が認められました」
 検察側の異議を予測し、あらかじめ判例を調べてきた。
「今回のケースには当てはまりません」真渕検察官が言った。「少女には障害があります」
「精神的な原因によって一時的に声が出せないだけです。泉梨乃ちゃんの知的水準は平均以上であり、証言の信用性に問題はありません」
「知的水準は証言を保証する理由にはなりません。大人でさえ時が経てば記憶が曖昧になります。子供ならなおさらです。法廷に立つときには何カ月も経っているんです。記憶力の減退だけでなく、ニュースや親や知人からの情報も証言に影響を与えます」
「法廷では反対尋問の権利があることをお忘れになりましたか? 証言が不確かだと思われるのでしたら、反対尋問で明らかにしてください」
 真渕検察官は舌打ちしそうな顔を見せた。
「……弁護側が少女を証人申請するのであれば、検察側は映像の証拠申請を取り下げます」
 ――取り下げる?
 検察側にとって重要な証言をしているにもかかわらず証拠申請を取り下げるということは、あの映像が孕んでいる危うさ、、、を自覚していたことになる。
 竜ヶ崎は言った。
「構いません。弁護側が証拠申請します」
 真渕検察官の顔が歪んだ。
 被告人は全盲の女性。検察側の証人は聴覚障害者の男性。弁護側の証人は失声症の少女――。
 十人前後の証人が法廷に立つとしても、裁判を左右するのはこの三者だと確信があった。
 見えない女性、聞こえない男性、喋れない少女――。一体どんな裁判になるのか。
 その後も二時間以上、話し合いは続いた。
『公判前整理手続』が終わると、竜ヶ崎は弁護士事務所へ直帰した。真帆と法廷戦術に関して検討し、美波のアパートへ足を運んで本人とも話をした。
「裁判になると、おそらく美波さんにも法廷に立ってもらうことになります」
 竜ヶ崎が説明すると、美波の表情に不安が表れた。
「私も――ですか?」
「検察側証人の証言が終わり、弁護側証人の証言も終わった後、被告人質問の場になります」
 日本の裁判における被告人質問は、アメリカの裁判ほどの“証拠能力”がない。
 アメリカの裁判では、被告人も証人と同じく宣誓――法廷で虚偽を述べないことを誓う――をするし、嘘をつけば偽証罪に問われる。だが、日本の裁判で被告人は宣誓をしない。あくまで言い分を供述する場であり、嘘をついても偽証罪に問われないため、裁判官も“一応犯罪者の弁明を聞いてやろう”程度の認識だったりする。だが、裁判に不慣れな裁判員たちは、被告人の主張を聞きたいと思っている。宣誓の有無にかかわらず、話を聞いて心証を形成する。
 竜ヶ崎はそう説明してから続けた。
「裁判の流れによっては、被告人質問が逆効果になるケースもあります。被告人が喋ったことで印象が悪くなって、有罪の危険性が高まったり――。法廷に立つと、検察官の厳しい反対尋問に晒されますし、矛盾や疑問も徹底的に追及されます。怒らせることが目的であるような尋問もあります。そこで感情的になったり暴言を吐いたりすれば、攻撃的な人間だと思われます。被告人質問にはリスクもあります」
 美波は不安そうな顔のままうなずいた。
「被告人質問は裁判の最終段階で行われることが一般的です。そこまでの段階で検察側が有罪の立証に失敗しているなら、被告人質問を行わない選択肢もあります。しかし、今回の裁判でそれは望み薄だと思われます。検察側の証拠や証人を精査しましたが、弁護側にはきわめて不利な状況です。美波さんには自分の言葉で話をしてほしいんです」
「私は何を話せば――」
「事件当夜の行動や気持ちはもちろん、荒瀬さんを殺していないことを訴えるんです。全盲のあなたに殺人が困難であることを理解してもらわなければいけません」
「……はい」
「もちろん無防備のまま被告人質問を受けることはしません。裁判までにリハーサルをしましょう」
「リハーサル――ですか?」
「はい。本番を想定して行います。弁護人として僕が質問し、美波さんがそれに答えるんです。その後は検察官の反対尋問に対する受け答えの練習もします。検察官がするであろう尋問の内容を想定し、まずい返答、、、、、をしないようにするんです」
「私に覚えられるかどうか……」
「舞台演劇をするわけではありません。一字一句覚える必要はありません。むしろ、台詞を覚えようとしてしまえば、台本を読んでいるように見えて、供述の信用性が薄れます。あくまで自分の言葉で、感情を伝えるんです」
「……分かりました」
「被告人には自分に不利な供述を拒否する権利があります。しかし、検察官の反対尋問にだんまりで応じると、都合が悪いことを隠していると思われますし、可能なかぎり黙秘は避けなければいけません」
 裁判について説明し、彼女のアパートを後にした。
 日にちが経過しても、裁判で語るべきケースセオリーはまだ定まらなかった。どうしても防御が中心になる。このままでは無罪判決を勝ち取るのは厳しい。
 焦燥が募る。
 竜ヶ崎は『天使の箱庭』で現場の視聴覚室を改めて見せてもらった。
 美波は殺人を否定している。彼女が刺したのでなければ、別に殺人犯が存在したことになる。
 弁護側としては、彼女は荒瀬施設長に襲われて抵抗し、突き飛ばしただけだ、殺してはいない、と訴える。そうなれば当然、誰が殺したのか、という話になる。残念ながら弁護側に答えはない。
 果たして現実的な主張なのか?
 第三者の存在を信じさせることができなければ、弁護側の主張に何の説得力もない。
「ボス、事件当夜を再現してみませんか?」
 真帆が提案した。
「再現?」
「はい。私たちは全盲の彼女の世界が分かりません。目で見ていたら気づかない何かがあるかもしれません」
「……たしかにそうかもしれないね」
「私が美波さんになります。アイマスクをして、彼女の部屋から視聴覚室まで歩いてきます。ボスは荒瀬さんになってください。美波さんから聞いた話をもとに、できるだけ正確に再現してみましょう」
「分かった。できることは何でもやってみよう」
 竜ヶ崎は副施設長の太崎和子に許可を取り、入所者たちが昼食をとる時間帯――邪魔になる可能性が少ない――に再現を試してみることになった。
 真帆は施設でアイマスクを借り、「じゃあ、行ってきます」と視聴覚室を出ていった。
 竜ヶ崎は視聴覚室で待機した。
 美波を呼び出した荒瀬はここで待ち構えていた。そこで一体何が起こったのか。
 腕時計を確認しながら、ひたすら待った。二十分近く経ったころ、ノックの音がした。反射的に「どうぞ」と答えそうになり、美波は荒瀬の声を聞いていないと語っていたことを思い出した。
 黙っていると、ドアが開き、アイマスクを嵌めた真帆が視聴覚室に入ってきた。右手で宙を撫でるようにし、不安そうに「荒瀬さん?」とつぶやいた。
 竜ヶ崎は答えなかった。
 真帆が部屋の中央まで進み入ってきた。竜ヶ崎は息を殺し、彼女に歩み寄った。両肩を鷲掴みにすると、彼女が小さく悲鳴を上げた。実際に押し倒したら怪我の危険があるので、軽く揺さぶるようにした。真帆が抵抗の演技をし、両手のひらで突くようにした。
 竜ヶ崎はたたらを踏む挙動をしてから、床に仰向けになった。静寂が訪れると、真帆が四つん這いになり、床を撫ではじめた。ナイフの代わりに置いてあるマジックペンを探り当てる。形状を確認し、怯えた顔で投げ捨てた。
 再現はそこまでだった。
 真帆はアイマスクを取り去ると、竜ヶ崎に目をやった。唇を結んだまま悩ましげな表情を見せている。
「……どうだった?」
 竜ヶ崎のほうが訊いた。
 真帆はふう、と息を吐いた。
「視界がないと、ここへ来るまでも大変でした。真っ暗闇で世界が何も変わらないんです」
 竜ヶ崎はうなずいた。
「視聴覚室に入ったときも、不安でした。頭の中に施設内の地図を思い浮かべてはいましたけど、ボスが無言だったので、本当に正しい部屋にたどり着いたのかも分かりませんでした」
「……ああ」
「ここで襲いかかられたとき、私が真っ先に思ったのは、これは本当にボスなんだろうかということでした、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
 竜ヶ崎ははっと目を見開き、真帆の顔を見返した。彼女は真剣な眼差しをしている。
美波さんは視聴覚室で荒瀬さんの声を聞いていない、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、――」
「……はい。美波さんからしてみれば、襲いかかってきたのが荒瀬さんかどうか分からなかったはずです。でも、待ち合わせの約束をしていたから荒瀬さんだと思い込んだ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
「襲ってきた相手を突き飛ばした後、静まり返って、美波さんは不安の中でナイフを見つけた。しばらくしたら副施設長が駆けつけ、職員もやって来て、死体が荒瀬さんだと判明した。当然、襲いかかってきたのも荒瀬さんだと思い込む」
「美波さんに飛びかかったのが第三者なら――殺人犯なら、この不可解な状況にも説明がつきます」
真犯人は美波さんが来る前に荒瀬さんを刺殺していた、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。そこへ美波さんがやって来た。彼女に襲いかかったものの、予想外の反撃を受け、焦った。相手の目が見えないなら口封じする必要はないと悟り、逃げることを優先した」
「真犯人は物音を殺して視聴覚室を出たんです。その後、副施設長たちが駆けつけた」
 ――真犯人が荒瀬を殺害して消えるタイミングが生まれた。
 竜ヶ崎は真帆に言った。
「このケースセオリーで闘おう」

 

(つづく)