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23

 竜ヶ崎は机の上で両手の指同士を合わせ、ピラミッドを作った。そこを見つめながら、頭の中で改めて反対尋問の流れを復習した。
 ――判決の分かれ目だ。
 聴覚障害者の男性――嶋谷の証言内容を崩せなければ、美波の犯行動機が立証されてしまう。彼女の無実を信じている今、反対尋問で裁判員の心証をひっくり返さなければいけない。
 真渕検察官が着席すると、鮫島裁判長が弁護人席に目を移した。
「弁護人は反対尋問を」
 竜ヶ崎は深呼吸し、「はい」と立ち上がった。
「弁護側はここから尋問させていただきます」
 鮫島裁判長が猪首を捻る。
「正面に立っても構わないんですよ? 弁護人席では証人から唇が見えにくいのでは?」
「距離は変わりませんし、問題ないかと思います」竜ヶ崎は証言台を見た。「ここから質問しても構わないでしょうか?」
 竜ヶ崎の口元をじっと見つめていた嶋谷は、うなずきながら「大丈夫です」と答えた。
 竜ヶ崎は鮫島裁判長に言った。
「ということですので、よろしくお願いします」
「……分かりました。では、反対尋問をどうぞ」
 竜ヶ崎は体を斜めにした。証言台の嶋谷からも、法壇の裁判員たちからも、口元が確認できる角度だ。
 これも計算ずくだった。
 この後の反対尋問の内容へのの一つ――。
 竜ヶ崎は明瞭な発音を意識し、唇をはっきり動かしながら反対尋問を開始した。
「弁護人からお聞きします。先ほどの検察官の尋問を見ていて、コミュニケーションがしっかり取れていることに驚きました。読唇術は相当なレベルですね」
「ありがとうございます。相手の唇が読めるようになるまで、かなり苦労しました」
「嶋谷さんは『天使の箱庭』で手話の訓練を行っているとのことでしたが……」
「はい。まだ全く身についていませんが」
「唇でこれほどコミュニケーションが取れるのに、手話まで訓練されているんですね」
 追及に聞こえないように口調には注意した。
 検察側証人ではあるものの、美波に敵意があるわけではないので、誘導尋問で追い詰めるというよりは、主尋問のように話を引き出したいと考えた。
「コミュニケーション手段は多いほうが便利ですから」
「たしかにそうですね」竜ヶ崎はうなずいて共感を示した。「しかし、手話でのコミュニケーションとなると……相手も限られてしまうのでは?」
「もちろんそうです。ただ、コミュニケーション手段はどれも一長一短なので……」
「一長一短?」
「はい」
「あー、理解しました。読唇術も欠点はあるということですね。相手がマスクをつけていたら唇は読めませんし、複数で同時に喋られても困ります」
「そういうことです」
「二人の唇を同時に読むのは困難ですもんね。ところで――荒瀬さんが糾弾されている食堂には三人がいたそうですが、全員の会話を正しく読み取れたんでしょうか?」
 嶋谷は眉を顰めた。
「美波さんは背を向けていましたし、元より唇は見えません。荒瀬さんは黙ったままでした。だから、喋っている太崎さんの唇だけを注視していればよかったんです」
「なるほど。そうおっしゃっていましたね。失礼しました」
「いえ……」
「先ほどの証言についてお聞きします。太崎さんが荒瀬さんを非難し、荒瀬さんは黙って聞いていたということですが――」
「そうです」
「自分が責められているのに、一言も反論せず、黙ったままだったんですか?」
「黙ったままでした」
「では――」竜ヶ崎は隣の真帆を手で指し示した。「この尋問をはじめてから彼女が何か喋ったかどうかは、把握しているでしょうか?」
「え?」
 嶋谷の瞳が困惑に揺れた。
「意地悪な質問をしてしまってすみません。しかし、唇を動かしている人物の顔に注目していたら、他の人間の唇までは見えていないのでは――と思いました。少なくとも、常に唇の動きを把握できていたとは考えにくいのですが、いかがでしょう」
 証言の不確かさを指摘した形になったものの、嶋谷は不機嫌そうな表情を見せたりすることなく、考え込むようにしばし口を閉ざした。間を置いてから答える。
「……おっしゃるとおり、複数の顔を同時には確認できません。一人の唇を読むのが精一杯です。ですが――弁護士さんの横の女性は喋っていないと思います」
「なぜそう思いますか」
「……法廷内の雰囲気と言いますか、誰もそちらに顔を向けたりしていなかったので」
 竜ヶ崎は首を傾げてみせた。
 嶋谷が続ける。
「尋問中に他の方が喋りはじめたら、気になって、皆そっちに目が向くと思うんです。でも、誰もそちらを見ていなかったので、たぶん、話していないと思いました」
 大した洞察力だ。
 しかし、これは否定されることを承知の尋問だったから、何も問題はない。
「では、改めて確認しますが、太崎さんが荒瀬さんを追及し、荒瀬さんは黙って聞いていたということですね」
「はい」
「責められているのに反論一つしなかった、というのは、不自然だと感じませんでしたか」
 嶋谷は当惑を見せた。
「いかがでしょう?」
「……僕には荒瀬さんの内心は分かりませんから、その辺りはどうか分かりません」
「なるほど。分かりました。質問を続けます。そのときの美波さんは背を向けていたので、彼女が何か喋っていたとしても、読み取ることはできませんね?」
「……はい」
「美波さんが何か喋っていた可能性はありますか」
「僕には分かりません」
「その場に居合わせて、太崎さんの追及を目にした結果、嶋谷さんは美波さんの被害を知ったわけですね」
「はい」
「他のタイミングで、美波さんが被害に遭っている場面を目撃したことはありますか」
「ありません」
「直接の被害は見たことがない?」
「はい」
「では、太崎さんの追及以外に根拠はないわけですね」
「……それはそうですけど、本人たちを前にして追及しているわけですから、事実だと思います」
 竜ヶ崎はそこであることを行った。
『しかし、あなた自身は被害の現場は目撃していない?』
「目撃してはいません」
『では、被害が実際にあったかどうか、証明することはできませんよね』
「僕自身が――という意味なら、そうです」
『責めているように聞こえてしまったなら申しわけありません。証言の正確性を明らかにするためですので』
「いえ、気にしていません」
『何にしても、あなたは今、美波さんの被害を証言する証人として、法廷に立っています』
「はい」
 鮫島裁判長が「弁護人?」と声を発した。
 竜ヶ崎は法壇に顔を向けた。
「何でしょう?」
尋問が聞こえません
 竜ヶ崎は両手のひらを広げ、きょとんとした顔を作った。
「……弁護人はしっかり聞こえる声で尋問するように」
 竜ヶ崎は表情を緩めた。
「失礼しました。声を出さなくても尋問が成立していましたので、つい」
「声を?」
 竜ヶ崎は口パクで答えた。
『先ほどの尋問は声を出していません』
 鮫島裁判長が不機嫌そうに顔を歪めた。
「何を言っているんですか、弁護人」
『茶化しているつもりはありません』
「弁護人?」
 竜ヶ崎は軽く手のひらを上げ、謝罪の意思を示した。嶋谷のほうに向き直り、声を出さず――口パクで尋ねた。
『私の尋問は問題なく理解できていますか?』
 嶋谷は困惑顔を見せた。
「できていますけど……」
 竜ヶ崎は今度ははっきりと声を出した。
「失礼しました。嶋谷さん、私は先ほど声を出さず、唇の動きだけで質問をしていました
「え?」
「お気づきでしたか?」
 嶋谷の瞳が困惑に揺れる。
「一体何をおっしゃっているのか――」
「法廷内の皆さんには、途中から私の声は聞こえていませんでした。声を発していなかったので。しかし、唇が読める嶋谷さんには質問の内容が伝わりました」
「それはまあ――」
食堂でも同じことが起きていたとしたらいかがでしょう?」
 嶋谷は、突然世の中の常識がひっくり返されたかのような表情をしていた。
「今、実演したとおりです。もし太崎さんが声を出さず、唇だけを動かしていたとしても――嶋谷さんには、普通に喋っているように見えるのではありませんか」
「いや、まあ、それはそうかもしれませんが――」
「普通に喋っている場合と区別はつかない?」
「……つかないと思います。しかし、そんな不自然なことをしていたら荒瀬さんたちに不審がられるのでは――」
「証言によると、太崎さんは荒瀬さんの斜め後方に立っていたそうですね。荒瀬さんは太崎さんの顔を見ていません
 嶋谷ははっと目を瞠った。
「そして、美波さんは全盲です。太崎さんと向かい合っていても、彼女の唇が動いているかは見ることができません
 真渕検察官が「異議あり!」と手を上げた。「弁護人は憶測で証人を混乱させています!」
 竜ヶ崎は法壇に顔を向けた。
「美波さんは食堂でのやり取りを否定しています。証人に嘘をつく動機がないことを考えれば、なぜそのような言い分の違いが起きたのか、明らかにしなければなりません。これは一つの可能性として、きわめて重要な指摘だと考えます」
 鮫島裁判長は思案げにうなった後、軽くため息をついた。
「異議を却下します。弁護人は尋問を続けて構いません」
「ありがとうございます」竜ヶ崎は嶋谷に向き直った。「太崎さんが発声しているかどうか、嶋谷さんは区別がつきませんね?」
「……僕は耳が聞こえませんから」
「太崎さんが口パクだったとしたら、荒瀬さんが責められても反論せず、だんまりだったことは当然ではありませんか?」
「……そう思います」
 証拠はなく、可能性の話にすぎないが、事実だと確信があった。美波に当日の話を聞いたところ、太崎和子から話があると食堂に呼ばれ、荒瀬を交えて向かい合ったという。だが、特別な話をされたわけではないうえ、無言の時間も長く、他愛もない会話をしただけで終わったらしい。
 竜ヶ崎は法廷内にしっかり聞こえる声で言った。
「耳が聞こえないあなたは、都合がいい目撃者に仕立て上げられたのです」

 

(つづく)