31
竜ヶ崎は軽く首を傾げた。
「素人というのは?」
「『介助とか訓練とか、障害の専門知識を持っていない気がする』と。突然そんなことを言われても信じられない思いでした。立派な肩書きがある人たちから支持されている施設ですし、何かの間違いとか、誤解があるんじゃないか、と」
「優月さんがそう考えるに至った理由を聞きましたか」
「聞きました」
「具体的に教えていただけますか」
「……たとえばお札のことです」
「お札というのは、紙幣のことですか?」
「そうです」
美波は姉が行っていた生活の工夫を説明した。
硬貨――一円や十円、五十円、百円、五百円――なら大きさや重さ、穴の有無、ぎざぎざで区別できる。しかし、紙幣は大きさに微小な差異しかないため、判別がきわめて難しい。紙幣の隅には視覚障害者用の識別マークがあるが、使い古されていると分かりにくいのだ。だから、姉は紙幣の種類によって折り方を変える工夫をしていた。千円札は四つ折りで五千円札は二つ折りだ。大金の一万円札には折目をつけない。
「物販の購入を補助してもらったとき、職員は『どうしてお札を折り畳んでいるんですか』と不思議そうに言ったそうです。姉は全盲ですし、たとえ視覚障害者の生活の知恵について知識がなかったとしても、理由には想像がつくんじゃないかと思うんです。姉は驚きつつも、理由を説明したそうです。職員は『あー、なるほど、そうなんですね』と素直に感心していたらしく。何も知らないか、興味もあまりないようでした」
「他にも何かありましたか」
「点字ブロックの話もそうです。点字ブロックは、視覚障害者の安全のために設置されている道しるべです。足の裏で凸凹の感触を確かめながら、目的地に移動したり、階段に注意したりできます。点字ブロックには大きく分けて二種類あります。点状ブロックと線状ブロックです」
「どういうものか説明していただけますか」
「点状ブロックは階段や横断歩道前で注意を促すためにあります。線状ブロックは進行方向を示すためにあります。姉は別の職員と点字ブロック関連の迷惑行為について、話したそうです」
街中を歩くと、点字ブロック上に置かれた自転車や看板をしばしば見かける。点字ブロックの役割を知らない一般市民だけではなく、政治活動を行っている政治家ですら、点字ブロックの上に立っていたり、街宣車を駐車していたりする。検索すれば、ネット上にその手の証拠写真があふれている。視覚障害者にとっては、迷惑きわまりない。
「職員は点状ブロックと線状ブロックの違いも知らず、首を傾げていたそうです。そんなことが続いたと姉は言っていました。もちろん、全員が全員じゃありません。ちゃんとアドバイスをくれた職員もいるそうです。ただ、それでも話をしていると、専門的な内容は答えられなくて、『調べておきます』と言われたり……」
「それを聞いてあなたはどうしましたか」
「改めて『天使の箱庭』についてインターネットやSNSで評判を検索しました」
「何か見つかりましたか」
「SNSで元入所者の声を見つけました。一年近く前の投稿です。元入所者は不満や疑念を告発していました。訓練は役に立たず、何も身につかなかった、という内容でした。少し拡散されて話題になっていたんですけど、『天使の箱庭』の顧問弁護士の女性が反論して、投稿を削除させていました」
「裁判長」竜ヶ崎は法壇を向いた。「ここで実際の投稿内容を提示したいと思います」
鮫島裁判長が検察官席へ目をやった。
「検察官、意見は?」
「内容の確認を」
竜ヶ崎は「もちろんです」と答えた。
手順に則ってから、ディスプレイに金田淳美弁護士によるSNSの投稿内容を映し出した。
『施設の名誉を棄損する投稿です。職員の助言に耳を傾けず、訓練にも不真面目なら、一週間程度で何かが身につくことはないでしょう。彼の投稿を根拠にして施設の悪評を書き込む行為は、虚偽の流布に該当します。面白おかしく囃し立てているアカウントは注意してください。悪質な投稿には法的措置を取ります』
昨今は学者も政治家もジャーナリストもSNSを使っており、毎日のように一般市民と口論している。弁護士も例外ではなく、他者への嘲笑、レッテル貼り、侮辱などを行っている者も珍しくない。金田弁護士の投稿内容は、むしろ穏当な部類に入る。
とはいえ、牽制の効果は十分で、『天使の箱庭』への疑惑を書き込んでいたアカウントの大半は、投稿を削除していた。
竜ヶ崎は美波に尋ねた。
「他にも何か見つかりましたか」
彼女は「いえ……」と首を横に振った。「悪評はありませんでした」
「あなたはその後どうしましたか」
「姉に電話で、『考えすぎじゃないの?』と言いました」
「優月さんは何と?」
「『だといいけど……』と。一応は納得してくれたと思って、安心しました。たぶん、慣れない環境で不安になっているだけだと思いました」
「一件落着ですか?」
「……いえ。次にLINEをしたとき、姉は職員に探りを入れていたらしく、『やっぱり施設を信じられない』と言いました。しかも『そのことを施設長に相談してみた』――と」
「荒瀬施設長に?」
「はい」
「それを聞いたあなたはどう思いましたか」
「施設の代表にそんな話をするなんて――。びっくりしました。姉は『初耳だ、調べてみる、と言われた』と言ったんですけど、何か危険な目に遭うんじゃないか、って私は心配になりました。姉は昔から素直すぎるところがあるんです。施設長なら信じられそう、と思ったらしく……」
美波は不安に押し潰されそうな表情で、視線を落とした。唇は真一文字に結ばれている。
竜ヶ崎は「続けてください」と言った。
美波は小さくうなずいた。
「私はすぐ施設を訪ねて、姉と直接話しました。そうしたらますます不安になる話を聞かされて……」
「どのような話ですか」
「『私たちのLINEが盗み見された可能性がある』と言われました」
「盗み見?」
「はい。姉は、個室にやって来た職員から話を聞いた後、その人が部屋を出て行ってからスマホで私にLINEをしたそうです。その後、スマホをベッドに置いて、トイレに入ったんです。戻ってスマホを探ったとき、位置が少し変わっていたらしいです」
「思い違いなどではなく?」
「姉は全盲ですし、物の置き場所ははっきりしておかないと、見つけるのが大変です。だから、施設の個室でスマホを手放すときは、枕の右側に置くようにしていたんです。でも、トイレから戻って手探りしたら、その位置にはなくて、枕の正面にあったそうです」
美波優月の立場になって想像してみたら、不気味だった。真っ暗闇の中で自分一人しかいないはずの個室でスマートフォンの位置が変わっている――。
第三者がいたとしか考えられない。もう出て行ったのか、今もまだ潜んでいるのか、疑心暗鬼になるだろう。
「優月さんはそのことをどう考えていましたか」
「……職員が内側からドアを開け閉めして、出て行ったふりをして部屋に残っていて、スマホを調べたんじゃないか、と」
スリッパを脱げば、足音も殺せるだろう。全盲の優月の前で透明人間になることができる。
「二人のLINEでは、施設への疑惑を話し合っていたんですね。それを職員に知られた可能性がある――と?」
「はい。施設長に相談したことも含めて、職員に知られた可能性があります」
「スマホの位置が変わる前、優月さんの個室に来ていた職員の名前は分かりますか」
「峯祐輔さんです」
「峯祐輔さんといえば、荒瀬施設長が殺害された視聴覚室に駆けつけた職員の一人ですね」
「そうです。姉は、副施設長に呼び出されて、食堂で施設長と対面しての話し合いもあった、と言いました」
「それは本法廷でも語られた、食堂での話し合いでしょうか? 聴覚障害者の嶋谷さんが目撃したという……」
「はい。どんな話をしたのか訊いたんですけど、普通の面談で、大変なことはないか、確認されただけだったと言われました」
「嶋谷さんが語ったように、性加害の事実の追及などはなかったんでしょうか?」
「私は何も聞いていません。そんな話し合いがあったなら、姉は私に話していると思います」
「ありがとうございます。あなたは優月さんからそのような話を聞いてどうしましたか」
「姉が危険な目に遭うんじゃないか、と心配になって、何とか助けなければ――と思いました。でも、何の根拠もないのに騒ぎ立てるわけにはいかないし、どうしたらいいのか悩んで、私は入れ替わりを提案したんです」
「つまり、妹のあなたが全盲の優月さんに成りすます――ということですね?」
「はい」
「具体的にはどのように実行したんですか」
「……姉を施設の外まで連れていって、辺りに職員の目がないことを確認してタクシーに乗せました。私はコンビニのトイレで姉と同じ服装に着替えて、髪形も合わせて、サングラスをして、施設に戻りました」
「なるほど。それであなたは、全盲の優月さんとして『天使の箱庭』で生活しはじめたんですね」
「そうです。目が見えることに気づかれたら入れ替わりがバレてしまうので、注意しながら生活していました。万が一を考えて姉とスマホも交換していました。他には、職員や入所者がいる場所だと、実際に目を閉じて動くようにしたり……」
サングラスをしていれば、目を閉じていてもはた目には分からないだろう。
「『天使の箱庭』に入り込んだ後、何か不審な出来事はあったんでしょうか」
「幸か不幸か、不審と言うほどのことは何もありませんでした。ただ、しばらく過ごしてよく観察していると、職員の人たちが障害について専門的な知識を持っているような感じはありませんでした。訓練内容も、ネットで調べたら載っているような内容ばかりで……」
美波はうつむき加減で語った。
「他に不審なことはありましたか」
「……ちょうどそのころから、荒瀬施設長の性加害の噂を聞くようになりました」
「そのころは――ということは、それまでそのような噂を聞いたことはなかったんでしょうか」
「なかったです。突然、入所者がそんな噂話をしているのを聞いたり、職員から注意されたり……」
「あなた自身は被害に遭ったことはありますか」
「施設長に会ったことすら一度しかありません。それも廊下ですれ違っただけです。だから『天使の箱庭』のホームページの紹介欄に書いてある内容を読んで知っている程度で、どんな人物なのか、何も知らないんです」
竜ヶ崎は法廷内に話が浸透するように間を取ってから、被告人質問を続けた。
「では、荒瀬施設長が殺された日のことを教えてもらえますか」
美波は覚悟を決めた顔で「はい」とうなずいた。「あの日の夜、私は荒瀬さんから電話を受けました。『この前相談してくれた件で話がある』と言われました。姉が相談していた件だと分かりました。『内密に話したいから深夜十二時に視聴覚室で待っている』と言われ、私は悩みました。施設長がどちら側か分からなかったからです。だから護身用として、小型ナイフをポケットに忍ばせました。もちろん、刺したりするつもりはなく、詰め寄られたり脅されたりしたとき、牽制になるかと思ったんです。危ない状況になったら、目が見えることを明かして、ナイフを構えれば、さすがに相手も怯むだろう、と」
「殺意はなかったわけですね」
「もちろんです。姉からも自分が被害に遭ったという話は聞いていませんし、恨む理由がありません」
「約束の時間が近づいてくると、あなたはどうしましたか」
美波は、消灯されて闇に包まれた施設内を歩いて視聴覚室へ向かった話を語った。
「電気を点けて歩いているところを誰かに見られたら、目が見えることがバレてしまいます。不便でも、サングラスをかけて真っ暗闇の中を歩くしかありませんでした。私はそのまま視聴覚室へ向かいました。視聴覚室に着くと、ノックをしました。でも、返事はありませんでした」
「それでどうしましたか」
「漠然と不安を感じましたが、相談の内容も気になりましたし、ドアを開けて視聴覚室に入りました」
「室内の様子はどうでしたか」
「……何も分かりません」
「分からないというのは? 葉月さんは目を閉じたまま行動していたんですか?」
「いえ、もちろん目は開けていました。様子が分からなかったのは、視聴覚室も真っ暗だったからです」
その発言の違和感に気づいた者は、法廷内でも少なかったようだ。反応は鈍かった。
「荒瀬施設長が待っているはずの視聴覚室に入ったら、電気が点けられておらず、真っ暗だったわけですか?」
「はい」
「視聴覚室は無人でしたか?」
「足を踏み入れたとたん、甘ったるいローズの香りがしたことをよく覚えています。荒瀬さんは汗っかきのようで、一度廊下ですれ違ったときは、ちょうどローズの香りが強い汗拭きシートを使っていました。だから室内にいるはずだ、と思いました」
美波は淡々とした口調で当夜のことを語った。
彼女は闇に向かって「あのう……」と呼びかけた。だが、声は何も返ってこなかった。真っ暗闇のうえ、サングラスをかけていては、人影すら見られない。何も見えないと分かっていても、条件反射で視聴覚室内を見回した。
否応なく不安が増し、危険を感じた。踵を返そうとしたとき、左側の床付近からカツッと微音が鳴った。
靴音だった。
暗闇の中に人がいると確信した。緊張に震える声で「荒瀬さん?」と呼びかけた。
なぜわざわざ闇に身を潜める必要があるのか。理由が分からず、不吉な予感に胸がざわつく。
そのとき、闇の中に何者かの息遣いが聞こえた。先ほどの靴音よりも距離が近かった。
再び「荒瀬さんですか?」と尋ねた。だが、反応はない。
突然、体に衝撃があり、美波は悲鳴を上げながら倒れ込んだ。男の体がのしかかってきた。叫び声を上げ、抵抗した。
美波は必死で暴れ、全身全霊で突き飛ばした。意外にも男が弾け飛ぶように転がった。
少し離れた位置で「うっ――」とうめき声を聞いた。
美波は身を起こすと、様子を窺った。再び襲いかかられることはなく、静寂が続いていた。
四つん這いのまま闇の中を手探りした。男の体――おそらく二の腕の辺りに手が触れた。
「反応はありませんでした。突き飛ばしたときに頭をぶつけて気絶したんだと思いました」
「その後は何がありましたか」
「意識がなくなったのなら、これは絶好のチャンスだ、と思いました」
「チャンス?」
「はい……。相手に意識がないなら、電気を点けて状況を確認することができます」
「なるほど、たしかに被害者が気絶しているならチャンスですね。あなたはそれを実行しましたか」
「……いえ」
「なぜですか」
「そうするより先に視聴覚室のドアが開く音がして、悲鳴のように『荒瀬さん!』と叫ぶ声がしたんです。呆然と『これは一体何があったの……』とつぶやく声が耳に入りました」
「それは誰の声でしたか」
「副施設長の太崎さんです」
「副施設長が駆けつけてきたときの声ですね」
「はい。でも、不審なことがあって……」
「不審?」
「太崎さんは叫んでから視聴覚室の電気のスイッチを入れたんです」
(つづく)