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24

 竜ヶ崎は検察官席に目をやった。
 真渕検察官が「再主尋問をします」と立ち上がった。再び法廷の中央に進み出る。
「弁護側から驚くべき尋問がなされました。証人は、普通の発言と口パクの区別がつかないということですが、副施設長の太崎さんが口パクを行っていたと断言できますか?」
 嶋谷は少し迷いを見せてから答えた。
「できません」
「太崎さんは口パクではなく、声を出していた可能性もあるということでしょうか?」
「あると思います。僕には判断できません」
 何カ月も前に目撃した太崎和子が声を出していたかどうか――。証明することはできないから、検察側としてはその部分を指摘し、反対尋問の衝撃を減殺してくることは想定できた。だが、裁判員たちの頭には、しっかり疑念が残ったはずだ。
「ありがとうございます」真渕検察官が言った。「あと一つだけ。あなたは職員と一緒に食堂へ移動したという話でしたが、太崎さんたちのやり取りの場には職員の葵さんも居合わせたんでしょうか?」
 やはりそこを突いてきたか。
 あえて反対尋問では触れなかったのだが、真渕検察官はすぐさま弁護側の主張の“弱点”を見抜いたようだ。
「もちろんです」嶋谷が答えた。「先ほど答えたように、葵さんが一緒でした」
「では、彼女は何か話しましたか?」
「何かと言うのは――?」
「太崎さんが口パクをしているのを見ていたとしたら、異様な状況なわけですから、葵さんは何かしら反応したのではないでしょうか」
 質問の意図を理解しかねた嶋谷の反応を利用し、真渕検察官は自分の主張を口にした。再主尋問で禁じられている誘導尋問でもある。
 竜ヶ崎は異議を申し立てるべきか一瞬悩んだ結果、沈黙を選択した。
「葵さんは特に何も……」嶋谷が答えた。「食堂のやり取りはしっかり聞いていたようです」
「なぜそう言い切れますか」
「……食堂を後にしたとき、太崎さんの話を読み取ったか訊かれて正直に答えたら、『まだ事実か分からない話ですし、問題になったら困るので騒ぎ立てないでくださいね』と注意されたからです」
「なるほど」真渕検察官は少し迷ったすえ、続けた。「その職員は読唇術を使えるんでしょうか?」
「いえ、使えません。読唇術にはかなりの訓練や慣れが必要ですから。『天使の箱庭』に読唇術を使える職員はいませんでした。読唇術は他のリハビリセンターで以前に訓練したものです」
 真渕検察官が迷ったのは、彼自身、どんな証言が返ってくるか予期できない質問だったからだろう。職員も読唇術を使えました、と答えられたら、せっかくの再主尋問の成果が一瞬で消えてしまう。
「ありがとうございます」真渕検察官が言った。「では、太崎さんが口パクで喋っていたら、職員は内容を知ることはできない、ということですね?」
 竜ヶ崎は「異議あり」と手を上げた。「誘導尋問です」
 真渕検察官は鮫島裁判長を見やり、「訂正します」と答えた。そして嶋谷に向き直る。
「今、あなたは太崎さんが口パクだったと思っていますか」
「……思っていません」
「以上で再主尋問を終わります」
 竜ヶ崎は手を上げた。
「裁判長、再反対尋問をお願いします」
 主尋問、反対尋問、再主尋問に裁判所の許可は不要だが、再反対尋問には裁判所の許可がいる。認められなかったら――検察側が心証を獲得して終わってしまう。
 竜ヶ崎は緊張を押し隠しながら返答を待った。
 十秒が一分にも思えたころ、鮫島裁判長が「許可します」と答えた。
 竜ヶ崎はふう、と息を吐き、法廷の真ん中に進み出た。
「弁護人から確認します。嶋谷さんを食堂に誘導したのは誰でしたか」
「……職員の葵さんです」
「その職員の指示で食堂に連れていかれたわけですね」
「はい」
「そして偶然にも太崎さんが荒瀬さんを非難する場に遭遇した――」
「はい」
 竜ヶ崎は肩をすくめた。
「あまりに出来すぎていますね。再反対尋問を終わります」
 弁護人席に戻って裁判員たちの表情を観察した。職員もグルだった可能性が頭に浮かんでいることが分かった。

 初日はここまでだった。
 鮫島裁判長が明日の予定を告げて閉廷すると、竜ヶ崎は法廷を出た。真帆が隣を歩きながら言う。
「ボス、裁判員の心証を掴みましたね」
「辛うじて――という感じかな」
「嶋谷さんの証言を崩せたのは大きいと思います。検察側証人の最後の一人でしたし、これで有利になりましたよ」
「そう思いたいね。でも、まだ気は抜けない」
「はい」
 明日は弁護側証人が法廷に立つ。『天使の箱庭』の職員の一人、南雲梓。そして――元入所者で失声症の小学生、泉梨乃。彼女たちの証言が裁判の行方を左右する。
 東京地方裁判所を出るなり、ラフな開襟シャツとジーンズの中年男性が駆け寄ってきた。
「竜ヶ崎弁護士!」
 竜ヶ崎は真帆と立ち止まった。
「何でしょう?」
「失礼。私はこういうものです」
 中年男性は名刺を取り出し、差し出した。受け取ると、週刊誌名と名前が記されていた。
「記者の方ですか」
 傍聴席に座っていた一人だ。顔は覚えている。記者席ではなく、最後列に座っていたが、雰囲気から記者だと察していた。
「少しお話を聞かせていただけませんか」
 竜ヶ崎は黙ったまま記者の目を見返した。裁判において、記者は敵にも味方にもなる。返事には細心の注意が必要だ。
「そう警戒なさらず」記者は苦笑いした。「いやはや、見事な反対尋問でしたね」
「どうも」
「まるで副施設長が小細工を弄したと言わんばかりでしたが、なかなか危うい印象でした」
「ボス」隣から真帆が口を挟んだ。「約束の時間が――」
 裁判後すぐに約束を入れたりしない。気を利かせて口実を作ってくれたのだろう。
「ああ、そうだったね。では、失礼」
 竜ヶ崎は彼女の機転に乗っかり、先を急ごうとした。
「ちょっとちょっと!」
 記者が食らいついた。
「『天使の箱庭』を悪者にして依頼者を弁護するのは、人道上、いかがなものか、お答えいただきたく!」
 竜ヶ崎は首を傾げた。
「どういう意味でしょう?」
「『天使の箱庭』には多くの中途障害者が入所して、生活訓練を行っていますよね? 施設の活動が困難な状況になれば、その中途障害者たちが行く当てを失って、苦しむことになります」
「その苦しむ中途障害者の中には依頼者――全盲の美波さんは含まれていますか?」
「え?」
「彼女も傷つき、苦しんでいる入所者の一人――ということです。いずれにせよ、真実はこの裁判で明らかになると思いますよ」
 記者は納得しかねるように顔を顰めた。
「……今回の件を愉快に思わない方々も大勢いると思いますが」
「何の話です?」
「『天使の箱庭』を支援している方々です。議員、弁護士、作家、ジャーナリスト、インフルエンサー、その他大勢の支持者――。敵に回さないほうがいいのではないか、と」
「その“支援している方々”の中にあなたもいるようですね」
「いやいや!」記者は手のひらを振り立てた。「誤解ですよ、誤解。老婆心ながら忠告しているまでです」
 忠告の名を借りた脅迫――。
 竜ヶ崎は苦笑した。
「弁護士は依頼人のために働くものです。他の誰かのためではありません」
「もちろんそうでしょうとも! ただ、他の方々の面子も意識されたほうがいいのでは、と思いまして」
「……心にとどめておきましょう。では、失礼します」
 竜ヶ崎は今度こそ裁判所を後にした。
 近くの駐車場にとめたスポーツセダンに乗ると、助手席の真帆が嘆息と共に言った。
「嫌な感じでしたね、何だか」
「それだけ注目度が高いのかもしれないけどね」
他意を感じる物言いでした。『天使の箱庭』側が差し向けたんでしょうか?」
「記者が気を利かせた可能性もあるだろうね」
「大丈夫でしょうか。圧が増すかもしれないですね」
 竜ヶ崎は赤信号で停車した。
「裁判員裁判は、圧をかけられる前に終わるよ」
 従来の裁判のように、開廷から判決まで数カ月――あるいは一年、二年かかるなら、途中で様々な圧や嫌がらせもあった。だが、裁判員裁判は数日で結審する。
「そうですね」真帆がうなずいた。「無事に終わることを――無罪判決を勝ち取れるよう、最善を尽くしましょう」
「ああ」
 弁護士事務所に戻ると、竜ヶ崎は机に鞄を置いた。椅子に腰を下ろし、一息つく。
 来訪者が現れたのは、夕方になってからだった。
『天使の箱庭』の顧問弁護士、金田淳美――。彼女は不機嫌なブルドッグよろしく、顰めっ面を崩さなかった。
「本日は抗議に参りました」
 竜ヶ崎は応接セットを指し示した。
「立ち話も何ですから、お座りになられては」
「その必要はありません。長話をするつもりはありませんから」
「承知しました。抗議というのは?」
「本日の裁判での言いがかりの件です」
 竜ヶ崎は首を傾げてみせた。
「お分かりでしょう? 太崎さんはこれから『天使の箱庭』の施設長として、施設を運営していく方です。中途障害者の自立のために尽力している彼女を貶めるようなことは、許されません」
「そんなつもりはありません。真実を明らかにするために必要な弁護活動をしています」
「とにかく! 難癖や言いがかりは入所者も傷つけます。鵜呑みにした有象無象のクレームや嫌がらせで施設が潰れたら、救いを必要としている障害者たちが苦しむんですよ」
 金田弁護士は鼻息も荒く一方的に不満をまくし立てた後、弁護士事務所を後にした。
 竜ヶ崎は真帆と顔を見合わせた。
「裁判がはじまったとたん、急に――でしたね」
 彼女が苦笑混じりに言う。
「虎の尾を踏んだのか、それとも――」
 裁判はまだ一波乱ありそうだと思った。

 

(つづく)