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20


 三人目の検察側証人は、事件当夜に当直だった職員、峯祐輔だった。神経質そうな顔立ちは相変わらずで、法廷じゅうを敵視しているように険しい眼差しをしている。
 竜ヶ崎はノートを開くと、真渕検察官の主尋問に集中した。
 人定質問に答えた峯祐輔は、証言台席に腰を下ろした。緊張の表情で法壇を睨んでいる。
「検察側からお聞きします」
 真渕検察官が口を開くと、峯祐輔の視線が彼に滑った。
「……はい」
「まずはあなたの立場の説明をお願いします」
 峯祐輔は緊張を解くように、肩を大きく上下させた。
「NPO法人『天使の箱庭』に勤めています」
「仕事内容を教えてください」
「施設に入所している障害者の方々の訓練やリハビリのサポートや、世話などをしています」
「八月十二日は何をしていましたか」
「その日は当直だったので、もう一人の職員と施設に泊まり込んでいました」
「もう一人の職員とはどなたですか」
「葵若葉さんという女性です。当夜は二人で当直していました」
「普段どおりの夜でしたか」
「……いいえ。違いました」
「何がありましたか」
「深夜十二時半前だったと思います。突然、副施設長の太崎さんが人を呼ぶ大声が聞こえました」
「どんな声でしたか」
「切羽詰まった悲鳴のような声で、『誰か早く来て!』と叫んでいました」
「それを聞いたあなたはどうしましたか」
「何かが起きたのだと確信し、葵若葉さんと一緒に当直室を飛び出しました」
「その後のことを詳しく教えてください」
 峯祐輔は強張った顔で「はい」とうなずいた。
「当直室は一階にあるので、僕らは部屋を出ました。消灯されていたので懐中電灯を使って廊下を進み、階段を上りました。今にも幽霊が出てきそうな雰囲気がありました。二階に着くと、暗闇の中からまた太崎さんの声が聞こえました。『早く!』と怒鳴っていました。金切り声じみていて、僕らは顔を見合わせた後、そのまま奥へ進みました。視聴覚室の入り口から明かりが漏れていたので、中に入ると、あまりに信じられない光景が――」
 彼は身震いするように肩を震わせた。
「そこにあったのはどのような光景でしたか」
「……最初に目に入ったのは、施設長の荒瀬さんの死体でした。血まみれで仰向けになっていました。入所者の美波さんが座り込んでいて、太崎さんが寄り添っていました」
「あなたはまずどうしましたか」
「正直、パニックでした。荒瀬さんは明らかに殺されていましたし――。太崎さんに『何があったんですか』と訊いたと思います。『美波さんが荒瀬さんに襲われて殺してしまったの』と言われて、一一〇番するように指示されました」
「通報したのはあなたですか?」
「はい。僕はほとんど状況も分かっていませんでしたけど、施設内で代表が殺されています、と伝えました。警察の人に訊かれるまま、『天使の箱庭』の場所を説明しました」
「その後はどうしましたか」
「太崎さんが葵若葉さんに美波さんのことを任せて、警察を迎えに行きました。取り残された形の僕は、ただおろおろしていました。死体のほうは見ないようにして……」
「警察が到着してからはどうしましたか」
「別室で事情を聞かれました。今話したような内容を答えた後、美波さんが殺人犯として逮捕されてしまいました」
 痛烈な一言が放たれた直後、真渕検察官は「尋問を終わります」と切り上げた。
「弁護人、反対尋問を」
 鮫島裁判長が言うと、竜ヶ崎はすぐさま立ち上がった。証人――峯祐輔を見据える。
「弁護人からお聞きします。先ほど、美波さんが殺人犯として逮捕された、と証言しました。正確には事情を聞くための任意同行では?」
 峯祐輔の目がわずかに泳いだ。
「ま、まあ……そうだったかもしれません」
「逮捕と任意同行の違い程度は、今時は誰でも知っている知識だと思いますが、あなたはご存じですか?」
「……知っていると思います」
 誰でも知っている知識――という表現はあからさまに挑発のニュアンスがあるだろうが、そう言われたら知らないとは答えにくいと計算した。
「では、先ほどの証言は不正確ですね?」
「それは――」
「施設の別室で――その場で美波さんが逮捕されたという証言は、正確ではありませんね?」
 峯祐輔は下唇を噛んだ後、「……はい」と答えた。「でも結果的には――」
「あなたは犯行を見ましたか?」
「……いえ」
「美波さんが荒瀬さんを刺した場面は?」
「……見ていません」
「副施設長の太崎さんから聞かされただけですね?」
「……そうです」
「事件が起きてから太崎さんの声を聞き、現場に駆けつけたわけですね?」
「はい」
「事件に関して、直接目撃した事実は何もありませんね?」
 峯祐輔は躊躇を見せてから答えた。
「ありません」


21


 四人目の検察側証人は、同じく職員の一人、葵若葉だった。セミロングの栗色の髪を揺らし、証言席に座った。
 竜ヶ崎は真渕検察官の主尋問を見守った。
 彼女が証言した内容は、峯祐輔とほとんど同じで、太崎和子の叫び声を聞いた直後から視聴覚室へ駆けつけた状況を語った。
「死体なんて見たのは初めてで、私も本当にどうしていいのか分からなくて、ただ立ち尽くしていました」
「被告人の様子はどうでしたか」
 真渕検察官が尋ねた。
「床にへたり込んだまま、呆然としているようでした」
 もしも『人を殺した直後のように?』などと質問されていたら、悪意に満ちた誘導尋問として異議を唱えるつもりだった。だが、真渕検察官もさすがにそのようなは犯さなかった。
「被告人と言葉を交わしましたか」
 葵若葉は「いえ……」と首を横に振った。
「被害者は施設長の荒瀬氏です。勤め先の代表が殺されていると知って、あなたはどう思いましたか」
 葵若葉はぎゅっと唇を引き結んだ。
「言いにくい感情があったんでしょうか?」
 彼女は不安そうに視線をさまよわせた。だが、深呼吸すると、すぐ目を法壇に据えた。
「……自業自得だと思いました」
 真渕検察官が怪訝そうに首を捻る。
「自業自得?」
「……はい。正直、荒瀬さんに好感は持っていなかったので」
「それにしても、殺されてしまった被害者に対して、自業自得という表現は強すぎないでしょうか。何かよほどの理由が?」
 本件との関連性が分かりません、と異議を唱えるべきだろうか。だが、真渕検察官の『これから判明します』の一言で、鮫島裁判長は異議を却下するだろう。弁護側が触れられたくない話題だ、という心証を与えることは避けたい。
 葵若葉は苦悩に彩られた表情で答えた。
「日ごろから荒瀬さんは不快な言動をされていました。話しかけるとき、体を触られたり……」
「それはセクハラをされていたということですか?」
「……はい」
「あなたは特別、荒瀬さんに狙われていたということですか?」
「……私だけではありません。他にも女性の職員や入所者が何人も被害に遭ったと聞いています」
「なるほど。だからこそ、荒瀬さんの死に同情できなかったんですね」
「……はい」
「被害に遭ったとき、すぐに同僚などに相談しましたか」
 葵若葉は悔恨の表情でかぶりを振った。
「いえ……」
「それはどうしてですか」
「荒瀬さんは立派な人物として知られていますし、社会的地位もあります。大勢から尊敬されています。そんな人から被害に遭ったなんて訴えても信じてもらえるか分かりませんでしたし、逆に非難されそうで、なかなか言えませんでした。荒瀬さんの立派な活動を妨害することも本意ではありませんでしたし……」
「では、誰にも相談しなかったわけですか?」
「何日も思い悩んでから、副施設長の太崎さんには相談しました」
「彼女は何と?」
「親身になって話を聞いてくれました。なかったことにはしない、他にも被害者がいるかもしれないからしっかり調査して、事実と分かったら対処する――と」
「そうですか。被害を否定されなくてよかったですね」
「はい。こういう話は信じてもらえなかったり、逆に責められたりすることが多いので、ちゃんと信じてもらえたことを嬉しく思っています」
「以上で主尋問を終わります」
 真渕検察官は弁護人席を一瞥した後、着席した。
「弁護人は反対尋問を」
 鮫島裁判長が言った。
 真渕検察官の尋問は巧緻だった。
 竜ヶ崎はしばし思案してから答えた。
「反対尋問はありません」
 傍聴席がざわついた。法壇に居並ぶ裁判員も、当惑の顔や、拍子抜けした顔を見せている。
「反対尋問をしないんですか?」
 鮫島裁判長が念押しした。
 美波は荒瀬施設長からの被害を否定している。弁護側が法廷でそう主張することは、当然、『公判前整理手続』で検察側に開示している。だからこそ、真渕検察官は巧妙に先手を打ってきたのだ。
 荒瀬施設長の加害行為を否定するつもりの弁護側としては、本来なら葵若葉の証言が事実かどうか、反対尋問で追及しなければならない。だが、真渕検察官は、セクハラ被害者によくある苦しみを証言させることで、弁護側の尋問を封じた。
 ――こういう話は信じてもらえなかったり逆に責められたりすることが多いので、ちゃんと信じてもらえたことを嬉しく思っています。
 真渕検察官の着席間際の一瞥に込められた声なき声――。
 ――そんな彼女を弁護側は責めますか?
 計算ずくの証言だったのだろう。しっかり証人尋問の打ち合わせをしていたに違いない。
 被害が事実かどうか反対尋問で追及すれば、どうしても弁護側が悪役に見えてしまう。そもそも、被害がなかったことの証明は困難だ。
 少なくとも、葵若葉が被害に遭ったことは、事実として認めるしかない。
 荒瀬施設長が何人かの職員や入所者に加害していたとしても、美波本人は何もされていない、と主張する。どこまで説得力を出せるか分からないが――。
 竜ヶ崎は改めて答えた。
「反対尋問は特にありません」

 

(つづく)