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12(承前)


 五分ほど経ったとき――。
「ボス!」
 真帆がスマートフォンを差し出した。
「見つけました。これです」
 画面を見ると、動画が再生されており、少女と同じ手話が説明されていた。
 表示されている言葉は『違う』――。
『いいえ』と同じような意味で用いたのだろう。要するに否定だ。
 動画はそこまでだった。
 少女が『天使の箱庭』を退所しているため、検察側はこの映像を証拠申請したのだ。
 竜ヶ崎は真帆と共に再び美波のアパートを訪ねた。
「職員の葵若葉さんに荒瀬さんからの性被害を相談したことはありますか?」
 尋ねると、美波はきっぱりと答えた。
「ありません。そもそも荒瀬さんからは何もされていません。だから誰かに相談したりするはずがありません」
「それでは嶋谷さんをご存じですか」
 美波は首を捻った。
「入所者の一人で、聴覚障害がある男性です」
「……すみません、分かりません。入所者との交流はほとんどありません。仲良くしている人もいるみたいですけど、私は声しか認識できないので、施設ではあまり人と接点がありませんでした。その嶋谷さんが何か?」
 口調に不安が滲み出ている。
「あなたへの性加害について、あなたの前で荒瀬さんを責めている副施設長を目撃したそうです。法廷ではそのことを嶋谷さんが証言する予定になっています」
「そんな……」
「第三者がそのようなやり取りを聞いていたという事実はとても重いです。泉梨乃ちゃんという女の子のことは?」
 美波は少し考える顔をした。
「……声が出せない?」
「そうです。仲良くしていましたか」
「直接話したことはないです。梨乃ちゃんは喋れませんし、私は目が見えません。コミュニケーションを取る手段がないんです」
 竜ヶ崎は美波になったつもりで想像してみた。たしかにコミュニケーションの方法は限定的だ。手段としては――たとえば泉梨乃がタブレットなどに文字を入力し、音声読み上げ機能を使う。それを聞いて美波が話をする。あるいは、泉梨乃が紙に文字を書き、職員などの第三者が読み上げる。
「彼女は美波さんを知っているようでした。美波さんが被害に遭っているところを目撃したことがある、と答えています」
 美波は当惑したように首を振った。
「分かりません。別の誰かと勘違いしているのかもしれません」
「……もし話していないこと、忘れていたことなど、何かあれば今のうちに教えてください。改めて訊きます。美波さんは荒瀬さんから何かしら被害を受けましたか?」
 美波は一瞬だけ間を置き、竜ヶ崎と真帆のあいだに顔を向けたまま、「何もありません」と答えた。
 何度聞いても答えは変わらないか。
 彼女には何かしら隠し事がある――という印象は拭えなかった。それが荒瀬による性被害なのかどうかは分からない。
 彼女の言っていることが事実ならば、職員たちの証言が間違っていることになる。しかし、複数の証人が勘違いして認識するようなことがあるだろうか。
 法廷で被告人が動機となる性被害を否定し、施設の入所者二人が証言する――。
 心証は最悪だ。
 一体どうすればいいのか。
 竜ヶ崎は他の証拠について彼女と検討した後、アパートを後にした。美波は最後まで荒瀬による性被害は否定した。


13


 竜ヶ崎は朝から『天使の箱庭』へ向かい、スポーツセダンを近くの駐車場に停めて待機した。しばらくすると、助手席の真帆が「七時五十分になりました」と告げた。
「出勤日だといいけど……」
 竜ヶ崎はつぶやき、フロントガラスに目をやった。黙って眺めていると、最寄り駅がある方角から歩道を歩いてくる人影が目に入った。黄色いシャツと濃紺のジーンズの男性だ。『天使の箱庭』で見覚えがある顔だった。名前までは分からない。職員の一人だ。
 目当ては彼ではない。
 そのまま五分ほど待ったとき、一人の女性がやって来た。
「行こう」
 竜ヶ崎はスポーツセダンから降りると、真帆と共に女性に駆け寄った。
「おはようございます」
 声をかけると、女性――南雲梓が立ち止まり、困惑顔を向けた。小柄な体型で黒いストレートヘアが特徴だ。白いブラウスの上にショルダーバッグを斜め掛けにしている。
「弁護士の竜ヶ崎と七瀬です」
 梓は、覚えています、というように小さくうなずいた。
「少しお話を伺いたくてお待ちしていました」
「話って言われても……」梓は戸惑いがちに『天使の箱庭』の建物を見やった。「これから仕事がありますので……」
「十分だけお時間をいただけませんか」
「……副施設長からは部外者に勝手に喋らないよう、言い含められていますから」
「僕らは美波さんの担当弁護士です。ご存じだと思いますが、彼女は起訴されています。そこで弁護のために関係者の方々からお話を伺っています」
 施設内では人目があって話しにくい内容もあるだろうと考え、こうして外で声をかけた。
 梓は眉を顰めた。
「あなたは職員の中で一番長く美波さんの世話をしていました。彼女の日常生活はかなり困難だったと思いますが、そのあたり、いかがでしょう?」
 答えやすい質問から入った。
 梓は少し迷いを見せた後、「もちろんです」と答えた。「視力を失って間もないわけですから、何もかも手探りです。現実を受け入れるまでにも時間がかかります。生活訓練ははじめたばかりでした。点字や白杖の使い方などはまだ先の話で、まずは室内での移動の仕方や、食事の訓練からでした」
「どのような訓練をされていたんですか」
「視覚障害者の方が一人で食事できるようになるまでは、大変です。まずはサポートがある中で食事をすることからはじめました。たとえば、お皿の位置などを教えるときは、『クロックポジション』といって、時計の文字盤に合わせて方角を指示します。視覚障害者から見て、手前が六時、奥側が十二時、右側が三時、左側が九時です。すぐには使いこなせませんから、私が手を取って、お皿まで導いて……。何日も訓練して、ようやく指示に合わせてお皿の位置を把握できるようになったばかりでした」
「移動はどうでしょう?」
「白杖の訓練をまだしていませんでしたから、もちろん外出などはできません。それなりに慣れた施設内を壁伝いに歩くのが精一杯でした」
「なるほど。では、そのような全盲の女性が肉体的に勝っている男性に襲われて勝てると思いますか?」
 梓ははっと目を瞠った。それまでの質問がどんな問題に繋がっているか理解したらしく、当惑の表情を浮かべた。
「それは――」
「ここは法的な場ではありませんし、そう身構えず、率直に。あなたの印象をお聞かせください」
 梓は視線を地面に落としてしばし躊躇を見せた。
「……難しいと思います」
「護身用にナイフを持っていたとしても?」
「私はアイマスク訓練を受けたことがあります。アイマスクを装着して、視覚障害者の世界を体験するんです。入所当初は何度か様子見に来られた美波さんの妹さんも体験されていましたけど、実際に試してみたら本当に真っ暗闇で何も見えませんし、怖くて身動きできません。部屋の中でも数歩進むだけで大変です。机や椅子にいつぶつかるか――。手を伸ばしただけで突き指しそうな不安もありますし。そんな中で男の人が悪意を持って襲ってきたら、武器を持っていても役に立たないのではないかと……」
「ありがとうございます。僕もそう思います。それを法廷で証言していただけませんか」
「そこまではさすがに――」
 真帆が進み出て「お願いします!」と頭を下げた。
 梓は逃げ場を探すように周りに目をやった。
「その……そういう話は副施設長の許可をいただかないと、私の一存では……」
 真帆が頭を上げると、竜ヶ崎は梓に言った。
「太崎さんをはじめ、他にも職員の方が何人か法廷に立つと思います。検察側が証人申請しています。南雲さんには弁護側の証人として、美波さんの話をしてほしいんです」
 梓は困惑顔で目を逸らした。
「施設の関係者はもちろん、世間も、美波さんが荒瀬さんを殺したと考えています。しかし、彼女は一貫して無実を訴えています。弁護士としても、彼女は無実だと考えています。これは冤罪です。罪なき女性が――しかも視力を失った全盲の女性が有罪になることは正しくありません。どうか正しさのためにご協力をお願いします」
 竜ヶ崎はそう訴えて「連絡先です」と名刺を差し出した。
 梓は躊躇しながらも受け取った。

 

(つづく)