17(承前)
鮫島裁判長が「検察官、意見は?」と尋ねた。
真渕検察官は威風堂々とした立ち姿で答えた。
「殺人事件に数多く携わってきたベテラン捜査官として、彼女の逮捕に至るまでの流れを明らかにしたいのです」
「……異議を却下します。検察官は尋問を続けてください」
「ありがとうございます」真渕検察官は鎌田に顔を向けた。「状況の説明をお願いします」
「彼女を観察したところ、服には血がべったりついていましたし、上着のポケットからは不審なモノが覗いているのに気づきました」
「それは何でしたか」
「ナイフでした。持ち手の部分が覗いていたんです」
傍聴席が少しざわついた。
「それは凶器のナイフとは別の?」
「はい。二本目のナイフです」
ナイフが二本あったことは、弁護側から直接指摘される前に自ら触れてインパクトを減殺したのだろう。相手側の反対尋問で指摘されることが予想できる不利な事柄は、主尋問で自ら触れたほうがいい。触れずに相手側から指摘されると、隠し事を暴かれたように見えてしまう。
真渕検察官は驚いた顔を作った。
「被告人はナイフを所持していたんですか?」
「はい。持ち手の部分を見たとき、ナイフだと分かりました。相手は障害者ですから最大限の配慮をし、丁寧に、右のポケットに入っているのは何ですか、と尋ねました」
「被告人は何と?」
「とっさに手のひらでポケットを隠すような挙動をしました。ナイフですよね、と確認したところ、しばらく黙り込んだ後、観念したように、はい、と答えました。危ないので出してもらえますか、と言うと、彼女はしぶしぶナイフを取り出しました。私は証拠品として預かりました」
「ナイフに関して被告人は何か言いましたか」
「これは何ですか、と訊いたところ、迷いを見せながらも、護身用のナイフです、と答えました」
ベテラン捜査官はやはり法廷慣れしており、ゴシップ記事さながら要所要所で美波が犯人であるような印象操作を行っている。
“手のひらでポケットを隠すような挙動を”“観念したように”“しぶしぶ”“迷いを見せながらも”――。
弁護側が異議を却下されたばかりで、心理的に続けて異議を唱えにくいタイミングで主観を織り交ぜた表現を用いている。
竜ヶ崎は表情で悟られないように歯噛みした。
真渕検察官は言った。
「それで被告人を任意同行し、事情聴取をしたんですね」
ずいぶん端折ったな、と思った。別室での細部は主尋問で明らかにしたくなかったのだろう。
「そうです」
「では事情聴取のことをお聞かせください」
「署に同行してもらい、改めて何があったのかを訊きました。彼女は、被害者から呼び出されて視聴覚室へ行き、そこで襲われて反撃した、と話しました。のしかかられて突き飛ばしたところ、動かなくなった、と」
「ナイフに関しては?」
「身の危険を感じて護身用として持参したとのことでした」
「護身用にナイフとは穏やかではありませんね。常識的に考えて、ナイフは“護身用”になりうる武器でしょうか」
鎌田は苦笑いをこぼし、答えた。
「ナイフは催涙スプレーなどとは違って、明白な凶器です。護身用とはみなされません。路上で発生した口論のすえの刃傷沙汰でも、相手を刺殺した犯人がナイフについて訊かれたとき、決まって護身用と弁解しますが、通じません」
「その点は厳しく追及しましたか」
「もちろんです。その後、凶器のナイフから被告人の指紋が検出され、衣服の血も被害者のものと判明し、視聴覚室に第三者の出入りも確認できなかったことから、逮捕状を請求し、執行しました」
「全盲の女性にもこの犯行が可能だと確信して、警察は逮捕に至ったわけですね」
巧妙な訊き方だった。
もし『全盲の女性にも犯行が可能だと思いますか』と訊いていたら、証人が答える前に異議を唱えた。『証人が個人的に可能だと思うかどうかは単なる想像にすぎません』と主張しただろう。だが、このような言い回しをされたら異議を唱えられない。
「はい」鎌田は揺るぎない口調で答えた。「被害者に襲われて抵抗し、突き飛ばしたことは被告人が語ったとおりです。気絶した被害者に近づき、ナイフを刺して殺害したのだろう、と考えました。複数回刺したのは、恨みの強さゆえ、というより、目が見えないせいでしょう。急所の位置を把握するのが難しく、確実に殺すためには、とにかく何度も刺すしかなかったんです」
「被告人は犯行を認めましたか?」
「被告人に弁護士がつき、アドバイスを受けて黙秘に転じたことで取り調べは進みませんでした。殺人の容疑者とはいえ、全盲の障害者です。負担のかかる取り調べは行えません。取り調べの様子も録音録画されています。自白を迫る取り調べではなく、しっかり物的証拠と証言を積み重ねる捜査を行いました」
真渕検察官は満足したようにうなずき、「ちなみに――」と話を変えた。
「証人は刑事として何年勤務していますか」
鎌田は表情を引き締めた。
「何年ではありません。刑事として、二十一年、捜査の第一線で生きています」
真渕検察官は「二十一年!」とわざとらしく驚いてみせた。「私の検察官人生よりも長いですね。すると、あなたは捜査のベテラン――と表現しても差し支えはありませんね」
「ないと思います」
「数多くの事件を担当してきたんでしょうね」
「もちろん数えきれないほど担当しました」
「殺人事件も?」
「三桁以上、扱ってきました」
「それはすごいですね。三桁以上も殺人事件を捜査してきた中で、容疑者が無罪を主張した事件は?」
「何十件もあります。容疑者というものは往生際が悪く、犯行を否定するものですから」
「結果はどうでした?」
「必ず物証がありましたから、全て有罪になりました。誤認逮捕や冤罪は経験していません」
「ありがとうございます。経験豊富なベテランの捜査官として、被告人を犯人と確信して逮捕したわけですね」
「もちろんです」
鎌田は断言した。
異議を唱える前に、真渕検察官が「以上です」と主尋問を切り上げた。
証人は裁判員たちにしっかり有罪の心証を与えた。
18
「では弁護人、反対尋問を」
鮫島裁判長が言うと、竜ヶ崎は立ち上がり、黙ったまま法壇を眺め渡した。
反対尋問の目的は、相手側証人の証言を弾劾し、自分たちに有利な内容を引き出すことだ。主尋問と違い、誘導尋問が認められている。証人を自由に喋らせてはいけない。常に主導権を握り、裁判員の心証を少しでも弁護側に傾ける。
竜ヶ崎は鎌田に目を向けた。
「それでは弁護側からお聞きします」
鎌田の表情に警戒心が表れた。身構えるように体をわずかに引き締めたのが見て取れる。
「……どうぞ」
たった一言の中にも敵対心が宿っている。
竜ヶ崎は逆に感情を抑えて反対尋問をはじめた。
「先ほどの証言によると、あなたは数多くの犯罪を捜査してきたベテランの刑事とのことですね」
「はい。間違いありません」
「百件以上、殺人事件を扱った?」
主尋問では“三桁以上”と表現していた。裁判員たちに『何百件も殺人事件を担当したベテラン』と印象づける狙いだったのだろう。検察側の目論みを弁護側が助長するわけにはいかない。だから“百件以上”という表現を使った。法廷で発する一言一言――単語一つがどのような印象を生むか、常に意識していなければならない。
鎌田は「そうです」と答えた。
実際に何百件も担当していたとしたら、具体的な数字を答えて訂正していただろう。主尋問で数字を出していなかったので、二百件は超えていないだろうと確信があった。
「平均して一年に数件、殺人事件を担当していたわけですね」
自身の経験を軽んじられたと感じたらしく、鎌田はわずかに顔を顰めた。
「ベテランの自負をお持ちなら、やはり自分の眼にはずいぶん自信があるでしょうね」
「……あります」
「どんな状況でも、真相を見極められる?」
鎌田は一瞬言葉に詰まった。
「現実の刑事はフィクションの名探偵とは違います」
「物語の名探偵は様々な手掛かりを集めたすえ、最後になって真相を語るわけですが、あなたは一目で見破る?」
「……それほどの超人的能力があれば、私はもっと出世しているでしょうね」
法廷内の一部から忍び笑いが漏れた。
「たとえば、路上で人が刺されたようだと通報があって現場に駆けつけたとき、倒れている男性のそばにひざまずいている女性がいたら――ベテラン刑事なら、一目で犯人だと確信しますよね」
「まさか」
「被害者のそばにいる女性ですよ」
「常識的に考えれば、通報から警察が駆けつけるまでに時間がかかりますから、その間に犯人は逃げている可能性が高いでしょう。被害者を発見して救護しようとしている女性である可能性を考えます」
竜ヶ崎は困り顔を作ってみせた。
「でも、美波さんのことは、一目見ただけで犯人と見なした?」
鎌田は顔を歪めた。眉間と鼻筋に皺が寄る。
「一目見て犯人扱いなどしません。現場に駆けつけた施設関係者たちから事情を聞きましたし、被告人の衣服には返り血がついていました。しかも、ナイフも所持していました」
「施設関係者たちは犯行を目撃したと言いましたか?」
「……いえ」
「美波さんの叫び声を耳にし、視聴覚室に駆けつけたのでは?」
「……そうです」
「施設関係者たちから聞いた“事情”というのは、悲鳴を聞いて視聴覚室に駆けつけたら血まみれの被害者――荒瀬さんが倒れていたこと、凶器のナイフが転がっていたこと、全盲の美波さんがへたり込んでいたこと、ですね?」
「……そうです」
「荒瀬さんが誰にどのように殺されたか、犯行の場面は一切目撃していない?」
鎌田は一瞬唇を噛んだ。
「まあ、そうです」
「先ほどあなたは、『被害者のそばに女性がいたら救護しようとしている可能性を考える』と証言しました。美波さんもそうではないかと少しでも考えましたか?」
鎌田は迷いを見せてから答えた。
「もちろん考えましたよ。しかし、衣服に返り血がべったりと付着していましたし、ナイフも持っていました。“善意の第三者”でないことは明白でした」
「先ほどからあなたは“返り血”と表現し続けています。しかし、犯行の場面を目撃した人物は存在しませんよね?」
「……いません」
「“善意の第三者”が血まみれの被害者を救護しようとしたら、服に血がつくものでは?」
鎌田はわずかに鼻で笑ってから答えた。
「海で溺れた人間を救護するように、人工呼吸でもしましたか? 被害者と抱擁でもしないかぎり、衣服にあれほどの血が付着することはないでしょう。どんな救護を試みたら、衣服が血にまみれるんですか?」
挑発的な口ぶりだった。
「私がナイフで刺された被害者に遭遇したなら――」竜ヶ崎は両手のひらを重ね、心臓マッサージを試みるようなポーズを作った。「こうして、あふれ出る血を止めようとするかもしれません」
「一般的にはそうでしょうね」
「救護しようとして血が付着するとしたら、服より手でしょうね」
「当然です」
「美波さんの手にも血が付いていたのでは?」
「ありませんでしたね」鎌田は自信満々で断言した。「手が血まみれならそれこそ一目で気づきますよ」
「警察が到着するまでに洗ったのでは?」
「それもありませんよ。施設関係者たちが被告人から目を離したタイミングは一度もなかったそうですから」
「本当に手に血は全く付着していなかったんですか? 衣服の血に目を奪われて、見落としたのでは?」
「まさか。見落とすはずありません」
「マジックのミスディレクションのように、人は大きな注目点に目がいくと、小さな部分に注意がいかなくなるものです」
「関係者の体の血を見落とすようでは刑事失格ですよ。手などは真っ先に観察する部分です。たとえ衣服が血まみれでも」
竜ヶ崎は顎に手を添え、首を軽く捻ってみせた。
「んー、それは変ですね」
「……何がです」
竜ヶ崎はペンを逆手に握り、振り下ろすように何度か縦に振ってみせた。
「倒れている人間に何度もナイフを突き立てるなら、誰もがこうするはずです。服の上から刺して、そこまで真上に返り血が噴き上がるでしょうか?」
「……至近距離なら返り血も付着するでしょう」
「なるほど。それなら返り血を浴びるかもしれませんね」
「理解いただけて何よりです」
「服が血まみれになるほど噴き出したはずなのに、手には全く血が付着していなかったんですね」
不意打ちで放った言葉に鎌田は絶句し、目を見開いた。口も半開きになっている。
「いや、それは――」
もっともらしい説明は出てこなかった。
警察が到着するまでに手を洗った可能性がないことは、証人自身がすでに証言している。今さら否定はできないだろう。
(つづく)