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竜ヶ崎はまぶたを伏せ、一呼吸置いた。
弁護側証人の証言は、真渕検察官に潰された。覚悟をしていたとはいえ、落胆のため息が漏れそうになる。
次の証人で挽回するしかない。
竜ヶ崎は証言の準備が行われる様子を眺めた。
弁護側証人の二人目は、小学生の泉梨乃だ。失声症で声が出せないため、タッチパネルを用意した。キーボードで打った文字がディスプレイに表示される仕組みだ。
鮫島裁判長が次の証人について、文字で証言をしてもらうことを裁判員たちに説明した。
「では、証人尋問をはじめます」
鮫島裁判長が促すと、白い無地のワンピース姿の梨乃が入廷してきた。係官に案内されるまま、証言台へ移動する。傍聴席の母親は不安そうな顔で娘を見つめていた。
梨乃は、見知らぬ森に迷い込んだ小動物を思わせる表情で法廷内を見回した。母親に目を留めると、救いを求めるような眼差しを向けた。母親が力強くうなずいてみせる。
「ここへ」
係官に指示を受け、梨乃は証言台に立った。怯えた顔つきのまま、法壇を見やり、検察官席を見やり、弁護人席を見やり――最後に振り返って傍聴席を見た。
「では、弁護人、主尋問を」
鮫島裁判長が言うと、梨乃が前を向いた。
竜ヶ崎は立ち上がった。
「こんにちは。今日はありがとうございます」
優しい声音を意識して話しかけると、梨乃の目が竜ヶ崎へ動いた。
小学生だとしても、他の証人に対するのと同じく敬語を使った。とはいえ、難解な表現は使わないように注意する。
「話したい内容があれば、手元のタブレットに文字を打ってください。全員にちゃんと伝わります」
梨乃はさっそくタブレットに目を落とし、操作した。ディスプレイに『はい』と文字が映し出される。
「まずはお名前と年齢を教えていただけますか」
少女がタブレットに文字を打つ。
『泉梨乃。小学四年生の十歳です』
「ありがとうございます。今、どうしてタブレットで返事をしているのか、教えていただけますか」
『病気で声が出せないからです』
「それはつらいですね。病気について、どのように聞かされていますか」
『お医者さんはストレスが原因だと言いました』
「治すために治療などはしていますか」
『施設に入ってがんばっていました』
「施設というのは?」
『「天使の箱庭」というところです。色んな大変な人たちが暮らしていて、がんばっていました』
「今も施設で暮らしているんですか」
『今は自分の家で暮らしています』
「『天使の箱庭』ではないんですか」
『施設はやめました』
「辞めてしまったんですね。なぜ辞めたんですか」
梨乃は相変わらず迷子のような表情でうつむき、しばらく入力の動きを止めた。
『分からないです』
「分からない? 普通は説明があると思うんですが……。施設側からはどう言われたんですか」
梨乃は戸惑いがちにタブレットを操作した。
『くんれんしてくれる人がいなくなったと、言われました。あたしはよく分からないです』
「辞める前、施設側に変わったことはありませんでしたか?」
梨乃は小首を傾げた。
「裁判長、ここで記憶喚起のために映像を提示したいと思います。内容は検察側も承知しているはずです」
鮫島裁判長が検察官席を見やった。
「検察官、意見は?」
真渕検察官がため息混じりに答えた。
「検察側は同意しません」
竜ヶ崎は反論した。
「元々は検察側が証拠請求していた映像です。むしろ、検察側の主張を補強する内容だったと思われますが、法廷で再生されたら何か問題があるんでしょうか?」
真渕検察官は顔を顰めた。
「いかがでしょう?」
挑発的に言うと、真渕検察官は疲弊が滲む顔でかぶりを振った。
「……同意します」
鮫島裁判長が「分かりました」とうなずいた。「映像の提示を許可します」
竜ヶ崎はタブレットを操作し、法廷内のディスプレイに動画を映し出した。
『泉梨乃(10)への聞き取り』
タイトルが表示された画面で一時停止する。
「動画は梨乃さんが『天使の箱庭』を辞める四日前、施設内で行われた聞き取り調査の録画映像です。副施設長の太崎和子さんが聞き取りを担当しています」
簡単な説明をしてから、一時停止を解除した。画面外から太崎和子の声がする。
「施設長の荒瀬さんから嫌なことされた?」
梨乃は躊躇を見せた後、顔のそばに猫のように右手を持ち上げ、拳を上下に振った。
竜ヶ崎は補足した。
「今の手話は『はい』を意味しています」
太崎和子の声が質問を続ける。
「体を触られたりした?」
梨乃は再び同じ手話で応えた。
「何度も触られた?」
同じ手話。
「他の人が荒瀬さんに触られたりしているところを見た?」
同じ手話。
「それは誰か知ってる?」
同じ手話。
「……それは美波優月さんだったりする?」
同じ手話。
「……そう。ありがとう。勇気を出して正直に話してくれて。あなたはここの施設で訓練を続けられる?」
梨乃は返事に迷ったすえ、右手の親指と人差し指を立てて、くるっと手を捻った。
竜ヶ崎は再び補足した。
「今の手話は『違う』を意味しています。一般的な『いいえ』とは異なる手話です」
聞き取りが終わると、竜ヶ崎は映像を停止した。
法壇に目をやると、裁判員たちの顔に若干の困惑があった。それも当然だろう。今まで荒瀬による性加害に疑問を呈しておきながら、突然、検察側の主張を補強するような主尋問をしているのだから。
竜ヶ崎は梨乃に向き直った。
「この聞き取りは覚えていますか」
梨乃はタブレットに返事を打ち込んだ。
『おぼえています』
「質問に答えた内容に間違いはありませんか」
『ありません』
「では、改めて確認します。映像と同じように正直に答えてください」
『はい』
梨乃が身構えるようにうなずいた。
「緊張しなくても大丈夫です。施設長の荒瀬さんから嫌なことをされましたか」
梨乃はタブレットを操作した。
『いいえ』
「体を触られたりしましたか」
『いいえ』
「何度も触られましたか」
『いいえ』
「他の人が荒瀬さんに触られたりしているところを見ましたか」
『いいえ』
「それは誰か知っていますか」
梨乃は困ったような表情で黙り込み、タブレットに文字を打った。
『知りません』
「……それは美波優月さんだったりしますか」
『あたしは何も知りません』
「ありがとうございます。あなたは『天使の箱庭』で訓練を続けたかったですか」
『はい』
「今の答えは全て施設で聞き取りをされたときと同じ答えですか」
梨乃は質問の意味を理解しかねたように、きょとんとした顔でタブレットを操作した。
『同じです』
法廷内に困惑混じりのどよめきが広がった。鮫島裁判長が「静粛に!」と一喝した。
「これはどういうことですか、弁護人」
さすがの鮫島裁判長も口を挟んだ。
「ご覧のとおりです。証人は聞き取り調査のときと同じ質問に同じ答えを法廷でもちゃんとしてみせた――ということです。何か問題があるでしょうか?」
竜ヶ崎はとぼけた顔を作り、軽く首を捻ってみせた。
「……同じではないでしょう」
鮫島裁判長の声には苛立ちが混じっていた。『公判前整理手続』で決められた流れを乱された――と言わんばかりに。
自分の返答で法廷内の空気が一変したことを悟ったのか、梨乃は不安に押し潰されそうな表情をしていた。
竜ヶ崎は鮫島裁判長に言った。
「とりあえず尋問を続けさせていただいても?」
鮫島裁判長は目を細め、「どうぞ」と答えた。
竜ヶ崎は梨乃に顔を向けた。
「改めて質問します。何も怖いことはないので、先ほどと同じく正直に返事してください」
梨乃が小さくうなずいた。
「施設で手話は教わりましたか?」
『はい。少しだけ教わりました』
「少しというのは、具体的に答えられますか」
『いくつかです』
「手話を教えてくれたのは誰ですか」
『葵さんです』
「葵さんというのは、職員の葵若葉さんですか」
『そうです』
「動画を撮影された聞き取り調査のときは、職員の葵若葉さんから教わった手話で答えたということですか」
『そうです』
「聞き取り調査では、荒瀬施設長から体に触られたかどうか尋ねられていますが、どのように答えましたか」
『いいえ、と答えました』
「荒瀬施設長から触られたりはしていない?」
梨乃が文字を打つ前に、真渕検察官が「異議あり!」と強い語調を発した。「弁護人は証人の『はい』と『いいえ』同様、事実と嘘を入れ替えています。十歳の少女を懐柔し、出鱈目な証言をさせています」
竜ヶ崎は即座に反論した。
「出鱈目ではありません。実際は何があったのか、検察官もうすうす気づいているのでは? 聞き取り調査の映像の証拠能力が怪しいと気づいたからこそ、弁護側が梨乃ちゃんを弁護側証人として証人申請したとたん、動画の証拠申請を取り下げたのでは?」
真渕検察官は唇を引き結んだ。
鮫島裁判長はかなり迷いを見せた後、「異議を却下します」と言った。
竜ヶ崎は改めて梨乃に向き直った。
「あなたは職員の葵若葉さんから教わった手話を使って、荒瀬施設長から触られたか尋ねられたとき、『いいえ』と答えたんですね?」
『はい』
最後は完全な誘導尋問だったが、異議を唱えられる前に、竜ヶ崎は次の質問を行った。
「あなたは施設を出たいと思っていましたか?」
『思ってないです。学校より楽しかったから続けたかったです』
「それなのに施設を出ることになってしまった。あなたはどう思いましたか」
『ショックでした。ママにもここでくんれんを続けたいと言いました。でも、施設にも事情があるの、と言われてあきらめました』
「……なるほど。間違った手話を教えられて録画の聞き取り調査に答えた後、まるで証人隠滅のように施設から追い払われてしまったんですね」
真渕検察官が鞭打つような語調で「異議あり!」と声を上げた。
竜ヶ崎はすぐさま言った。
「以上で尋問を終わります」
法廷内には当惑が広がっていた。
(つづく)