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法壇には三人の裁判官を中心に据え、その両側に三人ずつ裁判員が並んでいた。
竜ヶ崎は覚悟を決め、弁護人席に座った。真向かいの検察官席に座っている真渕検察官の顔を見た。彼は複雑な表情をしていた。同じく何かしらの覚悟が宿った眼差しだ。
竜ヶ崎は黙ってうなずいた。
それで何かを察したのか、真渕検察官もうなずき返した。
時間になると、真帆と連れ立って美波葉月が入廷してきた。今日はサングラスをせず、白杖も使わず、たしかな足取りで――。
法廷内に困惑と動揺が入り混じったどよめきが上がった。裁判官も裁判員も、全員の目が見開かれ、彼女に注がれている。誰がどう見ても健常者の歩き方だった。
美波は被告人席に座った。手探りで椅子を探すこともなく、当たり前のように――。
鮫島裁判長が目を細めた。
「弁護人、これは一体――」
竜ヶ崎は首を捻ってみせた。
「何でしょう?」
「……何でもありません。準備が整ったようですので、公判を開廷します」
法廷の全員が戸惑っている。
当然だろう。事情を全て聞かされた弁護人としても、いまだに全てを信じられないでいる。
前代未聞の展開だ。
真帆の表情にも緊張があった。この後起こるであろう混乱を予期しているのが分かる。
「……それでは被告人質問をはじめます」鮫島裁判長がわずかに戸惑いを見せたまま口を開いた。「被告人は証言台へ」
美波が立ち上がり、法廷の真ん中に進み出た。彼女が証言台を前にして立つと、鮫島裁判長が黙秘権の告知をした。被告人は証人ではないので、“宣誓”はしない。
「――あなたには供述を拒否する権利があります。当法廷で述べたことは有利にも不利にもなります。座って構いません。では、弁護人、どうぞ」
竜ヶ崎は立ち上がった。法壇、検察官席、傍聴席を順に見た後、美波に目を据える。
「まずは重要なことです。お名前を聞かせてください」
美波は「はい」とうなずいた。決然とした眼差しで真っすぐ前を――法壇を見据えている。
「私は――美波葉月です」
一瞬、法廷内の時が止まった。裁判員同士で顔を見合わせている者もいる。
「弁護人!」鮫島裁判長がぴしゃりと言った。「これはどういうことですか!」
竜ヶ崎は平静を装った顔で鮫島裁判長を見返した。
「お聞きのとおりです。彼女は美波葉月と名乗りました」
「それは分かっています。このような話は聞いていませんよ、弁護人。被告人の人定が違うことになり、これでは公判が成り立ちません。説明を求めます」
「弁護側も昨日知ったばかりで、正直、戸惑っています。しかし、被告人質問で、思いもよらぬ供述が飛び出してくることは珍しくありません。何しろ、宣誓下で証言を行う証人とは違って、本人の口から自由に供述してもらう場ですから。『公判前整理手続』であらかじめ決められた範囲を逸脱しているとは思いません。最後まで被告人質問を続けさせてもらえれば、真実が明らかになると確信しています。質問を続けても構いませんか?」
強引な論理ではあったが、今さら公判を中止することもできず、鮫島裁判長は顔を歪めたまま「分かりました……」と答えた。「被告人に真実を述べてもらい、今後の公判について考えましょう」
訴訟指揮を乱され、声に不機嫌さが滲んでいる。
竜ヶ崎は美波に尋ねた。
「美波葉月さん? あなたは美波優月さんではないんですか?」
美波は深呼吸してから答えた。
「違います。私は美波葉月です。優月の双子の妹です。全盲なのは姉のほうで、私ではありません」
傍聴席のどよめきが大きくなった。戸惑いの声が漏れ聞こえてくる。鮫島裁判長も咎めることを忘れてしまったらしく、法廷内に静寂が訪れるまでしばらく時間が必要だった。
「今日、姉の優月さんの代わりにこの場に来たということですか?」
「違います。最初から私でした」
「裁判の最初から?」
「もっと前からです。『天使の箱庭』の視聴覚室で襲われたのも私です。そのときから私は姉の優月に成りすましていたんです」
「あなたは目が見えるんですか?」
「見えます」
「異議あり」真渕検察官が静かに手を上げた。「とんでもない話が飛び出してきて、少々困惑しています。被告人は全盲の障害者として施設に入所していたはずです。本当に目が見えるのか、突然のことで半信半疑です。確認させていただいても?」
竜ヶ崎は「もちろんです」と答えた。
真渕検察官はマジックペンでノートに何やら書きつけると、立ち上がり、中身を法壇に示してから美波に見せた。大きく『真実』と書かれている。
「何と書かれているか答えられますか」
美波はためらわず「真実」と答えた。
再び傍聴席からどよめきが上がった。
真渕検察官は大仰なため息をついた。
「弁護人が文字を示したなら、何を書くか打ち合わせ済みで、健常者を装うトリックの可能性もあったでしょう。しかし、こうして検察側の不意打ちの確認に答えられたなら、彼女の目が見えることは認めねばなりません」
異議を装ったアシストだった。
真渕検察官が着席すると、竜ヶ崎は再び美波に向き直った。法廷内の誰もが一言も聞き漏らすまい、と注目しているのを感じる。
「あなたの目が見えることは証明されました。今や誰もその事実は疑っていないでしょう。それでは、法廷の皆さんが気になっているであろう話を伺いたいと思います」
「はい」
「姉の優月さんが全盲の視覚障害者であることは、事実なんですか?」
「事実です。交通事故に遭ったときの怪我の後遺症で、視力がどんどん下がりはじめて、失明してしまったんです」
「事故の話をもう少し詳しく教えていただけますか」
「父が運転する車で家族旅行に行く途中でした。母は助手席に乗っていて、私たちは後部座席に乗っていました。そんなとき、中型のトラックが居眠り運転で逆走してきたんです。曲がり角だったので、避けることもできず、一瞬でした。トラックがぶつかる直前、姉は『危ない!』と私に覆いかぶさって……。そのせいで、障害を……」
美波は自分自身が抱える罪悪感について語った。
姉が庇ってくれたからこそ、妹の自分は肩の打撲程度で助かったのだ。しかし、姉は頭を強打した衝撃で視神経を損傷した。
事故後、遠からず目が見えなくなると通告されたときの姉の絶望的な表情は、今でも脳裏に焼きついている。両親を亡くした直後に聞かされた無慈悲な宣告――。
通告を受けてからも、姉と一緒に失明を阻止する手段を模索した。他の医者にも散々相談した。しかし、治癒は不可能だと言われた。姉は回復の希望がないまま徐々に視力を低下させ、ついには両目の光を失った。
美波の声はわずかに濡れていた。
「つらいお話をさせてしまってすみません。その後はどうしましたか」
「途方に暮れました。どうしていいのか分からず、とりあえず、私が姉の生活の介助をする毎日でした」
「それは大変だったでしょう」
「私も視覚障害者については何も知りません。食事とか着替えとか入浴とか――とにかく一生懸命手伝っていました。少しでもうまく介助できるように、と思ってインターネットで色々検索しているとき、『天使の箱庭』の存在を知りました。中途障害者なら誰でも支援を受けられる施設で、国から助成金が出ているおかげで入所費用もかなり安くて……。有名な議員やジャーナリストの人たちも賛同していましたし、信頼できると思いました」
「それで入所の申し込みをしたんですか」
「姉と相談して、入所することにしたんです。姉も自分で日常生活を送れるようになりたいと思っていましたし、『天使の箱庭』で訓練を頑張ってみる、って前向きに……」
今や、法廷内の視線は美波一人に集まっていた。誰もが彼女の言葉に聞き入っている。
「『天使の箱庭』に入所してからのお話を教えてください」
「……姉は『天使の箱庭』で、日常生活の訓練をしていました。私も自分のできることを学びたいと思って、職員の方に相談したら、アイマスク体験を勧められて、試してみたりしました」
「アイマスク体験というのは?」
前回の公判で職員の南雲梓が語ってはいるものの、弁護人が答えを押しつけることは好ましくない。可能なかぎり、本人の口から自分の言葉で語らせることが重要だ。
「アイマスクをしてみて、視覚障害者の世界を体験することです。どんな不便があるか、何が不安か、実際に体験することで分かりますし、相手の気持ちを理解して介助ができるようになります」
「他にはどのようなことを?」
美波が視線を落としたため、顔に影が生まれた。
「……他には何も」
「何も?」
「はい」
「『天使の箱庭』ではアイマスク体験をしただけなんですか?」
「……はい」
「介助のための訓練などは?」
「していません。そもそも『天使の箱庭』は中途障害者が日常訓練を学ぶ施設なので、身内が介助を学ぶなら専門の勉強をしてください、というお話でした。私は自分で調べて、視覚障害者をサポートする『同行援護従業者』という資格があることや、各自治体が指定した事業所で養成研修を受講できることを知りました。姉は私に負担をかけたくない、と前々から話していましたし、姉に話したら賛成されないと思っていたので、そういう資格を取ろうと考えていることは姉には相談していません」
「その時点で姉の優月さんは『天使の箱庭』に入所していて、葉月さん、あなたは外にいます。それがなぜ入れ替わることになったんですか」
「入所してしばらく経ったころ、姉からLINEが来たんです。『ちょっと気になることがある』って」
「優月さんはスマートフォンを使えたんですか?」
「文字を読み上げるスクリーンリーダーと音声入力でLINEを使うことはできました」
「そうなんですね。気になることが何なのか尋ねましたか」
「電話して訊きました」
「優月さんは何と?」
「『天使の箱庭に不信感がある』と」
「不信感?」
美波は深刻な表情でうなずいた。
「優月さんはどう言いましたか」
「……『施設の職員の人たちは全員素人かもしれない』」
(つづく)