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太崎和子は叫んでから視聴覚室の電気のスイッチを入れた――。
その供述の意味するところは明らかだった。
「ドアが開く音がした後、真っ暗闇で何も見えない状況にもかかわらず、太崎さんは『荒瀬さん!』と叫んでから電気を点けた、ということですか」
竜ヶ崎が説明すると、美波は慎重な面持ちでうなずいた。
「……そうです」
「それまで美波さんは暗闇の中、状況が全く分からなかったんですね?」
「はい」
「電気が点いて初めて状況を理解した?」
「はい」
「何を見たのか説明していただけますか」
「……私は目が見えないふりをしながら、視聴覚室の中を見回しました。そうしたら、教卓の近くに血まみれの荒瀬さんが倒れていました。少し離れた位置に血がついたナイフも落ちていました。太崎さんは入り口に突っ立ったまま、口を押さえて絶句しているようでした」
「彼女は何か言いましたか」
「『なんてことしたの!』と怒鳴った後、教卓の上の上着を手に取ってから、廊下に出て何度か『誰か来て!』と叫びました。それから職員が二人、駆けつけてきて、警察が呼ばれました」
「一点、はっきりと確認しておきたいことがあります」
「何でしょう?」
「暗闇の中で美波さんにのしかかってきたのは、間違いなく男性でしたか」
美波は事件当夜を思い返すように、軽くまぶたを伏せた。何秒か間を取ってから答える。
「体重とか、体つきから、間違いなく男性でした。だから私はそれが荒瀬さんだと思ったんです」
「なるほど。では、あなたにのしかかってきたその男性は、生きていましたか」
決定的な質問を口にしたとたん、法廷内に動揺の声が広がった。横目で見やると、裁判員たちも目を瞠っていた。
美波は沈黙を経た後、口を開いた。
「……分かりません」
「のしかかってきた男性は動きましたか」
美波は困惑したように眉を顰めた。
「たとえば、腕や肩を掴まれて押さえつけられたとか、首を絞められたとか、髪の毛を引っ張られたとか」
「……そんなことはありませんでした。ただ、突然のしかかられて、私はパニックになって、必死で突き飛ばしたんです」
「荒瀬さんは結構な体格です。馬乗りになられたら、男性の僕でも振り落とすことは難しいかもしれません。彼が生きていれば――ですが」
美波ははっきりと答えた。
「押さえつけられる感じはありませんでした。たしかに簡単に突き飛ばせた気はします」
「そう考えると奇妙ですね。死体が起き上がって飛びかかってくることはありません」
「はい……」
「しかし、暗闇の中に潜んでいた第三者が死体を起こし、美波さんにぶつけたとしたら――」
美波はおぞけを抑え込むように、両腕で自分の体を抱きかかえた。
「相手は暗闇に目が慣れていたのかもしれませんね。何か見てはいませんか?」
彼女は無念そうにかぶりを振った。
「私はサングラスをしていたので、本当に真っ暗闇で、何も見えませんでした」
「なるほど、電気も点いておらず、サングラスをしていたならそうですね。相手からは美波さんの姿がぼんやりと把握できていても、美波さんは何も見えなかった――」
「はい」
「のしかかってきた男性がまさか死体だなんて想像もできませんし、美波さんが荒瀬さんに襲われたと思い込んだのも無理はありません。ただ、一つ分からないことがあります」
美波は小さくうなずいた。
「警察に任意同行を求められたとき、どうして真実を正直に話さなかったんでしょう? 『天使の箱庭』の運営実態に不信感があったこと、姉を守るために入れ替わって調べていたことなどを……」
美波は怯えを孕んだ表情で視線を落とした。
「理由は色々ありますが、一番は姉が心配だったからです。『天使の箱庭』は議員やジャーナリストなど、力を持っている有名人たちに支持されていますし、そんな施設を疑っていると知られたら、どんな目に遭わされるか分かりません。姉は入所するときに当然個人情報を伝えていますし、身元を知られています。SNSで施設についての評判を調べたら、過去に施設を疑った人が追い込まれているという話も見つかりました。身の危険を感じて、何も言えなかったんです」
美波葉月が姉を手助けするために、アイマスク体験をしたり、視覚障害者について学んでいたりしたことや、舞台に出演する役者の卵だったこともあり、入れ替わりが見事に成功したのだ。
優月に扮していた葉月が接見で『妹には舞台のオーディションがあるんです。演劇をやっていて、ようやく掴みかけたチャンスなんです。姉が逮捕されたなんて周りに知れたら、夢が台無しになってしまいます。だから妹には関わってほしくありません。妹には私の事件にはもう関わらせないでください。たとえ弁護のためだとしても』と言っていた。あれは妹を思いやっているのだと思ったが、本音は、自分に成り代わっている全盲の姉に連絡されたくなかったのだろう。
「以上で質問を終わります」
竜ヶ崎は着席し、検察官席に顔を向けた。真渕検察官は嘆息を一つ漏らしてからゆっくりと立ち上がった。
「検察側から質問はありません。知りたいことは弁護人が全て訊いてくれましたから」
法廷はざわめきの余韻を残している。
真渕検察官がきっぱりと言った。
「本来であれば、この後は論告求刑と最終弁論に進むわけですが、『公判前整理手続』でも想定していなかった事実が明らかになり、事情が変わりました。きわめて異例ではありますが、公訴の取り扱いを含め、検討に日数をいただきたいと思います」
(つづく)