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「ボス、突き止めましたよ!」
 事務所に真帆が駆け込んできた。
 竜ヶ崎はノートから顔を上げた。
「泉梨乃ちゃんは両親のもとに戻って一緒に暮らしています」
 聞き取り調査の動画内で答えていた失声症の少女だ。真帆には少女を捜してもらっていた。美波と少女の話が食い違っているため、本人に直接確認してみたかった。
 少女は、美波が荒瀬に触られているところを目撃したと答えている。しかし、美波は否定した。動画内のやり取りでは具体性がなさすぎて、いつどのように、どのような行為を目撃したのか何も分からない。
「北区赤羽の住宅街です。これから向かいますか?」
 真帆が訊いた。
「留守でないことを祈ろう」
 竜ヶ崎はスポーツセダンを運転し、赤羽へ向かった。しばらく沈黙が続いたとき、助手席の真帆が「何か引っ掛かりました?」と尋ねた。
 真帆には「少女から直接話を聞きたい」とだけ伝えていた。
 竜ヶ崎は赤信号でスポーツセダンを停車し、彼女を横目でちら見してから前方に目を戻した。答えあぐねていると、真帆が苦笑をこぼした。
「ボスお得意の秘密主義ですか?」
 からかうように言う。
 竜ヶ崎は苦笑を返した。
「そういうつもりはないよ」
「そうですか? ボスは梨乃ちゃんにこだわっている気がします」
「単なる直感だよ」
「ボスの直感はいつも何かしら根拠があるものですよね?」
「……動画の内容が妙に引っ掛かってね」
「たとえば?」
 青信号になると、竜ヶ崎はアクセルを踏み込み、スポーツセダンをゆっくり発車させた。運転に集中しながらも、動画の内容を思い返した。
「聞き取りの質問は具体性に欠ける。梨乃ちゃんが施設長から触られたと答えたのに、いつどこでどのように――という質問がされていない」
「十歳の女の子に配慮した結果では? 保護者の立ち会いもない中で、そこまで踏み込んでいいのかどうか、気遣ったのかもしれません」
「しかし、それなら動画を撮影しての聞き取りそのものが配慮に欠けるんじゃないかな?」
「梨乃ちゃんの聞き取りを実施したときは、被害の告白が出てくることを予想していなかったとか」
「想定外の告白だったなら、質問者である太崎さんはもう少し焦ったり戸惑ったり、声に何かしら感情の揺れが表れるんじゃないか」
 彼女もその程度は考えた上での反論だと分かっている。普段からこのような話になったとき、彼女は“検察官”になる。ここが法廷なら当然突っ込まれるであろう疑問を次々とぶつけ、思考の整理の手助けをしてくれる。
「障害者の訓練に長年携わってきた女性ですし、動揺したとしても感情を表に出さない冷静さがあるのかもしれません」
「たしかに大人が目の前で感情的になると、子供は不安になるし、怯えてしまう。とはいえ、あれほど淡々と質問を続けられるものかな?」
「なら、最悪のケースとして予期していたのでは? 何もなければいい、と思いつつ、聞き取りを実施した。そうしたら被害が分かった。努めて冷静に最低限の話だけ聞いて、聞き取り調査を終えた――」
「……筋は通るね。でも、気になる点はまだある。被害の聞き取り調査は、匿名のアンケート形式で行われた。なぜ梨乃ちゃんだけ名前を出して、内容を映像で残したんだろう?」
 真帆は少し考えるような間を置いてから答えた。
「職員が梨乃ちゃんから被害を聞かされたことで、聞き取り調査が行われた、という可能性は?」
「つまり、梨乃ちゃんの相談をきっかけに荒瀬さんの問題が発覚した――」
「はい。その可能性は十分あると思います」
 少女が職員に被害を相談し、証拠に残すために動画撮影下での聞き取り調査が行われた。その後、施設内で匿名アンケートを実施した。たしかにそれならば説明はつく。
「ところが――」
 竜ヶ崎が最後まで言い終える前に、真帆が察した。
「実施時期はだった?」
「ああ」竜ヶ崎はカーナビに目をやり、T字路を右へ曲がった。「記載されていた日時を見ると、実施されたのは匿名アンケートのほうが二日早かった」
「だったら私の説は成り立ちませんね」
「アンケートは匿名だし、誰が被害を受けたか分からない。そんな中で梨乃ちゃんにだけ聞き取り調査を行って、やり取りを録画してる」
「都合よく考えるなら、梨乃ちゃんから相談されて荒瀬さんの問題を把握し、慌てて匿名アンケートを実施した。そうしたら被害の訴えが何件もあった。その後、唯一被害者が分かっている梨乃ちゃん本人に聞き取り調査をした――。こういう流れならありうるんじゃないでしょうか」
「自然だね。もし法廷でそう言い逃れ、、、、、、されたくなかったら、梨乃ちゃんへの被害を把握したのが動画撮影時が初めてだったか、あらかじめしっかり証言してもらって、言質をとらなきゃいけない」
 彼女と問答をしているうち、法廷での反対尋問のイメージも見えてきた。もちろん、現時点ではこの問題点を重視するべきかどうかは分からない。
 さらに数分走ったとき、カーナビに入力されている目的地――駐車場に着いた。泉梨乃の住所を突き止めた際、一番近くの有料駐車場も調べてくれたのだろう。
 竜ヶ崎はスポーツセダンを降り、二人で少女の家へ向かった。閑静な住宅街に建っている建て売り住宅で、白色の外壁にレンガが彩りを添えている。庭先には大人用と子供用の自転車が停められていた。表札には『泉』の文字がある。
「留守ではなさそうですね」
 カーテンが開け放たれている掃き出し窓を見ながら真帆が言った。
「話を聞かせてもらえるといいけど……」
 無駄足にならないことを祈りつつ、竜ヶ崎はチャイムを鳴らした。少ししてインターホンから女性の声が聞こえてきた。
「はい」
 真帆が口の動きで『私が』と答え、インターホンに顔を寄せた。
「『竜ヶ崎弁護士事務所』の七瀬と申します。NPO法人『天使の箱庭』に娘さんが入所していたと伺い、少しお話を聞かせていただけないかと思いまして」
「は、はあ……」
 困惑が伝わってくる。だが、拒絶は感じなかった。
「少々お待ちください」
 インターホンが途切れると、一分ほど経ってから玄関ドアが開いた。顔を出したのは三十代前半くらいの女性だった。温厚そうな顔立ちで、ウェーブした黒髪が頬を縁取っている。
 真帆が門扉越しに会釈し、改めて自己紹介した。
「『竜ヶ崎弁護士事務所』の七瀬と――」彼女は竜ヶ崎を一瞥した。「竜ヶ崎です。泉梨乃ちゃんのお母様ですよね」
 女性は顔に若干緊張を滲ませ、「そうです」と答えた。「でも娘は『天使の箱庭』を先月辞めていますし、何かお話しできることがあるとは思えませんけど……」
 女性――泉梨乃の母親の口ぶりに憤り、、などが全く表れていないことが気になった。真帆も同様に感じたらしく、困惑した顔を竜ヶ崎に向けた。
 竜ヶ崎は一歩踏み出し、母親に話しかけた。
「娘さんはどうして施設を退所してしまったんですか」
 思い切って単刀直入に尋ねると、母親は小首を傾げた。
「どうしてって……娘を担当してくださっていた職員の方が退職してしまって、面倒をみることが難しくなったと聞いていますけど。残念です」
 母親は娘が被害に遭ったことを聞かされていない――。
 困った事態になったと思う。
 施設側としては、問題を大きくしたくなくて、適当な口実で退所を促したのだろう。娘も母親に事情は隠しているようだ。
 真帆の眼差しは、どうします? と問うている。
 デリケートな問題だ。しかし、美波の弁護人としてここで引き下がるわけにはいかない。少女の証言は裁判の行方を左右しかねない内容だ。荒瀬の性加害を証言しているだけではなく、美波が被害に遭っている様子を目撃したと答えている。
 美波が被害を否定している以上、弁護人としては法廷でそう主張するしかない。だが、検察側は泉梨乃の証言映像と聴覚障害者の男性の証言でそれが嘘だと証明するだろう。裁判官と裁判員は一体どちらを信じるか。考えるまでもない。
 竜ヶ崎は深呼吸してから口を開いた。
「実は大変申し上げにくいお話なんですが……」
「何でしょう?」
「玄関口ではお話ししにくい内容です。ご迷惑でなければ、中でお話をさせていただければ……」
 母親は迷いを見せながらも、「散らかっていますけど……」と門扉を開けてくれた。招じ入れられるまま玄関を抜け、リビングルームへ進み入る。
 奥の窓から自然光が射し込み、部屋全体を明るく照らしていた。中央には、明るいベージュの布地で覆われたソファと、木製のローテーブルが置かれている。
 竜ヶ崎はさりげなく室内を観察した。コーヒーテーブルの上には、家族の写真が入ったフォトフレームや、子供が描いたと思われるクレヨン画がいくつも並べられている。絵には、虹や花、笑顔の家族が描かれていた。ソファの上には、ピンクのぬいぐるみや玩具が散らばっている。
 棚の上には手作りの工作――紙粘土の作品や、折り紙で作られた飾り物――があった。仲睦まじい家族の光景が容易に想像できる。
 本棚には、絵本や童話の本がぎっしり詰まっていた。テレビの前には、ゲーム機やカラフルなコントローラーが散乱している。
 竜ヶ崎は母親に訊いた。
「今日、娘さんは?」
「二階の部屋にいます。学校はずっと休んでいます」
 母親に「どうぞ」と促され、竜ヶ崎は真帆と隣り合ってダイニングのチェアに腰を下ろした。正方形のテーブルを挟んで向かい合う。
 母親が口を開いた。
「お話というのは……」
 前置きなしに本題に入るあたり、強い不安が窺える。あまり遠回しに話しても逆に怒らせそうだが、かといって安易に切り出せる内容でもない。
「……『天使の箱庭』の施設長が殺された事件はご存じですか」
 母親の顔の緊張が強まった。
「ニュースで見てびっくりしました。入所者に殺されたとか」
「実は僕らは殺人容疑で逮捕された女性の弁護をしています」
 母親ははっと目を瞠った。
「殺人犯の――」
「いえ。逮捕された女性は目が見えず、とても殺人などができる状態ではありません。本人も無実を主張しています。弁護士としても不自然な部分が多く、冤罪だと考えています」
「そうなんですね……」
 決して鵜呑みにしたわけではないだろうが、彼女の表情からわずかに警戒心が薄れた。
「検察側は、全盲の女性が施設長から性被害を受けていて、その復讐で犯行に及んだ、と考えています。施設長にはそのようながあったらしく……」
「は、はあ……」
 話の行き着く先に不安を覚えたのか、彼女の指はテーブルの上で落ち着かなげに動いている。
「改めてお聞きします。娘さんの退所は職員の退職が理由だったんですか?」
「はい……」
「娘さんはどのように説明していましたか」
「……もちろん残念がっていました」
 残念がっていた、、、、、、、――?
 動画の中で少女は、施設で生活を続けることを望んでいなかった。母親には本音を隠しているのだろうか。
「とても言いにくいんですが、実は娘さんも不快な思い、、、、、をされた疑いがありまして」
 母親が眉を顰めた。
「検察側が証拠として請求している聞き取り調査の動画があり、そこに娘さんが映っています」
「梨乃が?」
「はい。見ていただけないでしょうか」
 母親は緊張の面持ちでうなずいた。
 竜ヶ崎は鞄からノートパソコンを取り出した。例の動画を再生する。
 画面の中で梨乃が質問に答えている。それを見つめる母親の顔は次第に強張りはじめた。
「まさかそんな……」
 愕然としたように口を手のひらで覆う。
「あたしには何も……」
 竜ヶ崎は黙ってうなずくに留めた。
 動画が終わると、室内に重苦しい沈黙が降りてきた。
 竜ヶ崎は頭を下げた。
「突然こんなお話をしてしまってすみません。検察側がこの映像を証拠申請しているため、内容の確認に伺った次第です」
 母親の拳はテーブルの上で握り固められていた。真一文字に結ばれた唇が小刻みに震えている。施設長への怒りか、被害を隠していた施設への怒りか、それとも、このような動画を持参した弁護士への怒りか。
「私は――」母親は怒りを吐き出すように口を開いた。「何も聞かされていません。施設はこのことを隠蔽、、していたんですか?」
「施設側としては、荒瀬氏の悪い噂を耳にしてからは、職員や入所者に被害があったかどうか、匿名のアンケートを行っています。娘さんはこのことについて、何も?」
「……はい、何も言っていません。施設を出なければならないことを伝えたときも、むしろ悲しんでいました」
 動画の中では、施設に残りたいかどうか問われ、否定している。退所を悲しんでいたのだとしたら、動画内の返答と矛盾する。
 これは一体何を意味しているのか。
「娘さんとお話しさせていただくことはできないでしょうか」
 母親は逡巡を見せた。
「お願いします」真帆が頭を下げた。「少し確認させていただくだけで構いません」
 母親は顔を顰めたものの、間を置いてからうなずいた。
「あたしが立ち会ってよければ――」
「もちろんです」
「じゃあ、呼んできますから、少しお待ちください」
「はい」
 母親は立ち上がり、リビングの奥にある階段を上っていった。「梨乃?」と呼びかける声に続き、ドアが開け閉めされる音が聞こえた。
 二、三分待つと、二人分の足音が階段を下りてきた。
 母親の後ろに隠れるようにして現れたのは、小学生の女の子だった。白地に花柄のワンピース姿で、セミロングの黒髪が印象的だ。くりっとしたまん丸い目が来客に注がれている。
 竜ヶ崎は立ち上がると、笑みを浮かべながら声をかけた。
「こんにちは。梨乃ちゃんだね?」
 女の子――梨乃はおずおずとうなずいた。
「ちょっとお話を聞かせてもらってもいいかな?」
 再びうなずく。
「いくつか質問するから、うなずくか、首を振るか、仕草で答えてくれたらいいからね」
 失声症で喋ることができないので、『はい』『いいえ』で答えられる質問が中心になる。
 母親に「ほら」と促され、梨乃はテーブルを挟んで向かいに座った。竜ヶ崎もチェアに腰を下ろした。
 竜ヶ崎は自己紹介してから切り出した。
「梨乃ちゃんは『天使の箱庭』で生活していたよね?」
 梨乃がうなずく。
「副施設長の太崎和子さんから聞き取り調査で質問されたことは覚えてる?」
 再びうなずく。
「施設長の荒瀬さんに触られたか訊かれて、梨乃ちゃんは手話で『はい』と答えているけど、事実かな?」
 梨乃は眉を寄せた後、ためらいがちに首を横に振った。
 否定されるとは思わなかった。
「大事なことだから正直に答えてほしい。目が見えない女性――美波優月さんが荒瀬さんに触られているところを見た?」
 再び首を横に振る。
 竜ヶ崎は真帆と顔を見合わせた。
 全部否定だ。動画の内容と異なる。これは一体どういうことだろう。親の前で被害の事実を話しにくいということだろうか。
 しかし――。
 梨乃は怪訝そうに困惑を浮かべていた。被害者特有の怯えや羞恥が感じられない。
 竜ヶ崎は動画を見せて確認することにした。

 三十分ほどの話が終わったときには、少女が弁護側の重要証人になると確信していた。
 竜ヶ崎は母親の目を真っすぐ見据えた。
「娘さんに法廷で証言してほしいんです」

 

(つづく)