27
主尋問を終えた竜ヶ崎は、静かに弁護人席に腰を下ろした。
専門家に確認したところ、一般的な手話の『はい』『いいえ』はもっとシンプルで――『はい』はうなずく。『いいえ』は手のひらを左右に振る――分かりやすいという。なぜ泉梨乃はあんなに分かりづらい手話で答えたのか。
泉梨乃に『はい』と『いいえ』を誤認させる目的があったとしたら、納得できる。相手が信頼している職員とはいえ、うなずく仕草を『いいえ』、手のひらを振る仕草を『はい』と教えられたら、いくらなんでも不自然さに気づくだろう。だからこそ、動作で『はい』『いいえ』が分かりにくい手話を教え、それを使って答えさせたのだ。聞き取り調査の動画が泉梨乃一人だったことも、それで説明がつく。
全ては真実を歪めるために――。
聞き取り調査の映像は巧妙に作られたフェイクだったのだ。後は口実を作って梨乃を退所させれば、偽りの映像だけが証拠として残る。
「検察官は反対尋問を」
鮫島裁判長が命じると、真渕検察官が立ち上がった。眉間の縦皺が深くなっている。
彼は悩ましげに顎を撫でた後、泉梨乃に目を向けた。少女を見つめる眼差しには躊躇があるように見えた。
「……簡単な質問をするので、タブレットを使わず、手話で『はい』か『いいえ』で答えてくれますか?」
泉梨乃は困ったようにタブレットに視線を落としたものの、すぐに顔を上げ、小さくうなずいた。
「ありがとうございます。あなたは泉梨乃ちゃんですか」
少女がうなずいた。
「あなたは小学生ですか」
再びうなずく。
「あなたは大学生ですか」
泉梨乃は手のひらを横に振った。
真渕検察官は右手の親指と人差し指を立てて、手を捻った。泉梨乃が聞き取り調査の中で使った『違う』の手話だ。
「この手話は『違う』という意味ですか」
泉梨乃がうなずく。
真渕検察官は顔のそばに拳を持ち上げ、上下に振った。
「この手話は『はい』という意味ですか」
泉梨乃がうなずく。
「なるほど、証人は手話の『はい』『いいえ』をしっかり正しく把握しているようです」
――やられた。
「あなたはこの法廷に来る前――」真渕検察官は弁護人席を一瞥した。「あそこの弁護士さんと会いましたか」
少女はためらいがちにうなずいた。
「何度も会いましたか」
再びうなずく。
「今回、この法廷で喋る内容について、話し合ったりしましたか」
再びうなずく。
「手話についても色々と教わりましたか」
再びうなずく。
「なるほど、全て打ち合わせ済みの証言だったわけですね」
裁判員たちは驚きの表情を浮かべていた。傍聴席の一部からは、どよめきがあった。
竜ヶ崎は思わず拳を握った。
裁判の前に証人予定者と打ち合わせをするのは、『証人テスト』といって、弁護側だけでなく、検察側も行っている。
それは普通のことで、違法ではない。むしろ義務に近い。
裁判に相応しい服装などの助言はもちろん、当日訊くであろう内容を説明したり、話す内容に間違いや記憶の混同がないか、確認したりする。
だが、真渕検察官のような言い回しで暴露されると、まるで弁護側が卑劣なヤラセを行ったように聞こえる。『証人テスト』のことを知らない裁判員なら、弁護側に不信感を抱いただろう。
異議を唱えて『証人テスト』の実地を説明しようとした。だが、真渕検察官が先んじて言った。
「施設を辞めてから、手話について勉強したことはありますか」
泉梨乃がうなずいた。
真渕検察官は目を細めて首肯した。
「手話はいつどのような形で勉強したんですか。タブレットを使って答えても構いません」
竜ヶ崎は眉を寄せた。
質問の意図が分からなかった。
これではまるで――。
泉梨乃は不安そうに真渕検察官の顔を見返した後、タブレットを操作した。
『施設を辞めてすぐ、お母さんが手話の家庭教師の人をつけてくれました』
「手話の家庭教師ですか。弁護士からではなく、そこで正しい手話を教わっていたんですね」
『はい』
「なるほど。ありがとうございます」真渕検察官は法壇を振り返り、肩をすくめた。「検察側は残念ながら、証人が弁護士によって手話を教えられたのか、証明することはできませんでした」
竜ヶ崎は唖然としながら真渕検察官の横顔を眺めた。
隣の真帆が囁き声で言った。
「どういうことなんでしょう、これ……」
竜ヶ崎は小さくかぶりを振った。
「分からない。何かの罠なのか、それとも――」
真渕検察官としては、『十歳の子供であれば、大人の指示にいともたやすく迎合して思いどおりの証言をしてくれるでしょうね』と言い放って反対尋問を終えれば、弁護側が主尋問で獲得した心証を容易にひっくり返すことができただろう。
しかし、そうしなかった。それどころか、自ら反対尋問で得た効果を打ち消してしまった。
竜ヶ崎は、真渕検察官の劇場がいつ開演すのか、身構えて待った。
だが――。
「以上で反対尋問を終わります」
真渕検察官は宣言し、着席した。
28
弁護側の証人が証言し終えた時点で、第二回の公判は終了した。最低限の証人申請だったため、午前中で閉廷した。
竜ヶ崎は文具や書類を鞄に片付け、三人で法廷を出た。真帆は美波を介助している。
「竜ヶ崎さん」
裁判所の廊下を歩きはじめたとき、背後から呼びかけられた。振り向いた先には真渕検察官が立っていた。法解釈の難問と向かい合う法学者のように難しい表情をしている。
「何でしょう」
尋ねると、真渕検察官は美波にちらっと目をやり、竜ヶ崎に顔を戻した。
「二人きりで、少し話せますか」
竜ヶ崎は真帆を見た。
彼女は気を遣い、「では、私は美波さんを自宅まで送り届けます」と答えた。
「行きましょう、美波さん」
真帆が促し、美波と一緒に歩いて行った。
裁判所の廊下で真渕検察官と一対一で向き合った。彼は難しい表情を崩さない。
「起訴取り下げ――の提案ではなさそうですね」
真渕検察官は苦笑した。
「検察が一度起訴した事件を容易に取り下げたりしないことは、竜ヶ崎さんもよくご存じでしょう」
「真実よりも面子――ですからね、検察は」
「今日だけは皮肉は受け流しましょう」
「……読めませんね、真渕さんは。今日の最後の反対尋問と何か関係が? まるで弁護士の主尋問のような反対尋問でした」
「竜ヶ崎さんともあろう弁護士が見抜けなかったんですか? あれは打算ですよ。法廷戦術です。声が出せない十歳の女の子を法廷で攻め立てているように見えたら、印象が悪いですからね」
今度は竜ヶ崎が苦笑する番だった。
「本当に法廷戦術なら、こんなふうに種明かしはしないでしょう」
真渕検察官は肩をすくめてみせた。
「買い被りですよ、竜ヶ崎さん」
「あれはあなたの良心かと思いました」
「ま、何とでも」
「……で、二人きりで話というのは?」
真渕検察官は顔を顰めた。苦渋が滲み出ている。踏み込んだとたん、歯切れが悪くなった。
竜ヶ崎も肩をすくめた。
真渕検察官は唇を引き結んだまま、手のひらで顎を撫でた。大きく息を吐く。
「一つ――気になることがありまして」
竜ヶ崎は首を傾げた。
「昨日、竜ヶ崎さんはトリッキーで、劇場型の反対尋問をしましたね。なかなかインパクトがありました」
「嶋谷さんの証言ですか?」
「そうです。口パクとは――お見事でした」
「どうも」
「実際にそのようなトリックが使われたと確信しての反対尋問ですか?」
「法廷外で言質を取っても無意味ですよ、真渕さん」
「これは失礼。好奇心が勝ちました」
「……もちろん、確信しての反対尋問です。しかし、話というのはそれではないんでしょう?」
真渕検察官は人の姿を警戒するように周りを見回してから、声を抑えぎみにして言った。
「あの反対尋問のとき、竜ヶ崎さんは弁護人席に立っていました。被告人席は死角になっていましたよね」
「証人に集中していましたから。それが何か?」
「真向かいの検察官席からは、弁護人席も被告人席もよく見えました。そのとき、気になる動きがあったんです」
「気になる動き――ですか」
「……美波さんの顔が竜ヶ崎さんのほうへ動いたんです」
「全盲の彼女は声を聞くしかありませんから、証人尋問している人間のほうに顔を合わせるのは別におかしくはないでしょう? 自然な動作では?」
「普通の証人尋問中であれば――そうですね」
「つまり?」
「彼女は例の口パクの尋問をしたタイミングで顔が竜ヶ崎さんのほうへ動いたんです」
その意味を理解するまでに何秒か必要だった。
口パクの反対尋問では、当然声を発していないのだから、目が見えない彼女が反応するのは――おかしい。
「何が言いたいんです……?」
真渕検察官は表情からふっと緊張を抜いた。
「私のほうから何らかの結論を押しつける気はありません。ただ、事実は事実として報告しておいたほうがいい、と思いまして。明日は被告人質問でしょう? 無防備で証言台に立つ前に、一度、腹を割って依頼人と話したほうがいいのではないですか。もっとも、弁護人にとってこの情報が何も意外ではない、というなら余計なお節介ですが」
通常であれば、ポーカーフェイスで挑戦的な返事をして、真実に曖昧さを残しただろう。だが、真渕検察官が駆け引きをしているのではないと分かったから、正直に答えた。
「意外でしたよ、心底」
「……そうですか。では、また明日、お会いしましょう」
真渕検察官は法廷内では決して見せない笑みを口元に刻み、踵を返した。
竜ヶ崎は彼が歩み去るのを見送った後、裁判所を出てスマートフォンで真帆に電話した。
「今、どこにいる?」
「タクシーを捉まえたところです。何かありましたか?」
「明日の被告人質問に備えて、打ち合わせをしておきたい。美波さんのアパートで合流しよう」
「……了解しました」
声音でただ事ではないと察したらしく、彼女の声にも緊張が表れていた。
(つづく)