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10

 

 ほづみの意識はゆっくりと閉ざされていこうとしていた。

 ふと、深瀬のことを思い出した。

 私を木箱に閉じ込めて土の中に埋めてほしい。

 深瀬はほづみのその頼みを拒絶した。

 そうなることは、どこかで予感していた。

「久美さんの復讐をしたくないんですか」

「これ以上、もう誰にも死んでほしくない」

 深瀬がほづみの手を取った。

「私と一緒に警察へ行きましょう。終わらせるの」

 深瀬の温かい手のぬくもりが、ほづみの心の中へゆっくり沁み込んできた。

 それは亡くなった母を思わせるものだった。

「わかりました。警察へ行く前に、一つだけ頼みを聞いてください」

「どんなこと?」

「両親が亡くなる前、三人で名栗湖を見ながらお昼を食べたんです。お弁当は無理でも、せめて一緒にお茶を飲んでくれませんか」

 ほづみは後部座席に手を伸ばし、水筒の入ったバッグを掴んだ。

 バッグから紙コップを二つ取り出し、それぞれにお茶を注ぐ。

 一瞬、深瀬は慄いたように見えた。

「怖いですか。毒殺されると思ってます?」

 ほづみはわざと意地悪く尋ねる。深瀬を試してみたいと思ったのだ。

「いいえ。これを飲んだら一緒に警察へ行きましょう」

 深瀬は自分の分の紙コップを手に取ると、躊躇なく飲み干した。

 このままもっと深瀬に甘えていたかったけれど、そろそろ時間切れだ。ほづみは口をつけるふりをして、自分の紙コップをダッシュボードの上に置いた。

「私、深瀬さんのことを本当のお母さんのように思ってました」

「私もよ」

 深瀬が再び、ほづみの手を握る。

「あの日、スーパーで偶然、あなたのことを目撃して……ほら、覚えてるでしょう。セルフレジの前であなたが困っていた時、私が声をかけたこと。車いすを見て、娘のことを思い出したの」

 ほづみも頷きながら、微笑み返した。

 深瀬はやはり何も気づいていなかった。あれは偶然ではない。深瀬の家の近くに引っ越しをし、彼女が立ち寄るスーパーも、ほづみはあらかじめ調べてあった。あの日も、深瀬の視界に自分が入っていることを確認し、わざとセルフレジの前でもたついて見せたのだ。深瀬なら絶対に声をかけてくれるはずだと。

「あの日から、あなたは私の娘……」

 深瀬の言葉が途絶え、ほづみの手を掴んでいた両手がゆっくり離れていく。

「なに……私になにをしたの……」

 そう尋ねたきり、深瀬の瞼が落ちた。

 そのまま、車の中に一人で残してきてしまったけれど、大丈夫だろうか。お茶に入れたのは単なる睡眠薬だ。量も加減してある。

 きっと警察が見つけてくれるはずだ。

 ほっとすると同時に、また意識が彷徨い始めた。

「天堂さん、あそこです」

 遠くで声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。

〈お姉さんも刑事なんだよ〉

〈捜査一課?〉

〈え、ううん、まだ違う。いつか行けたらいいなって思ってるけど――〉

 

11

 

「本日、埼玉県警は連続殺人事件の被疑者一名を逮捕に至りましたことを、ここにご報告申し上げます」

 玉城が第一声を発すると、一斉にカメラのフラッシュが焚かれた。

 その様子をテレビで見つめる上野の傍らに、猿渡がやってきた。

「事件解決の記者会見は、本部長ではないんですね」

「記者クラブ側からの要請もあってのことだ。女性刑事部長の方が絵になるからな」

 上野は小さく顔を顰めた。

 こういう形で女性が持ち上げられることに不満がないわけではない。

 だが今回、ほづみを捜索している間、報道機関には取材の自粛を要請した。その見返りとして、これくらいのサービスには目を瞑ろう。

「ここだけの話だが、お前を更迭しようという話になった時、俺のほかにもう一人反対する人物がいた」

「どなたですか」

 猿渡が無言で、テレビの画面へ視線を送った。

「刑事部長が……?」

 これまで上野に対して一方的に敵対心を抱いているように見えたが、誤解だったということだろうか。

 画面の中で玉城は、記者から浴びせられる質問を巧みにかわしている。見た目も華やかで知性を感じさせる彼女の存在は、確かに絵になった。将来、女性初の警察庁長官が誕生するとすれば、それは玉城かもしれない。

〈あなた方女性警察官はなぜ幹部になろうとしたんですか〉

 不意に、玉城に突きつけられた問いが蘇った。

 育児休業制度を推進し、あとに続く女性警察官が働きやすい環境を整えたいと思います。

 確か、上野が埼玉県警初の女性刑事課長に就任した際、広報の一環として受けたマスコミの取材に対し、そんな言葉を口にした。

 あれは本心というより、「女性」刑事課長として発言することを求められたように勝手に感じ取ってしまったからだった。

 今ならきっと違う答えを口にする。

「水嶋はどんな様子だ?」

 上野はテレビの画面から猿渡へ注意を戻した。

「医師の話では、身体的な問題はないと。ただし、聴取に耐えられる精神状態かどうかは、これからの検査次第とのことでした」

 上野たちによって救出されたほづみだったが、彼女は事件の記憶を失っていた。それどころか、自分を八歳の少女だと思い込んでいる。例の心中事件のことも憶えていなかった。医師によれば解離性障害の一種だろうという。

「演技ということは?」

「もちろん、その点は専門家の意見も聞いて、慎重に判断されることでしょう。本格的な聴取が行われるとしても、しばらく時間はかかりそうです」

 とはいえ、その間に、上野たちがやらなくてはならないことは多い。被疑者が逮捕されて、それで特捜本部の仕事は終わりではないのだ。

 まずは事件の被害者のうち、生き残った者たちの証言をまとめなくてはいけない。

 鴻巣市のほづみの祖父母宅の地下室からは、身元不明だった被害者A氏が発見された。衰弱が激しく、発見当初は口も利けないほどだったが、現在は回復に向かい、ようやく身元が明らかとなった。

 続いて、深瀬多津子の証言も重要となる。彼女はほづみにずっと同情的だった。これからもきっと態度を変えることはないだろう。

 まだ片付けなければならない問題は山積みだった。

 それでも今日は久しぶりに早く自宅へ戻れそうだ。

 家族からも、ずっと先送りにしていた夕飯のすき焼きを準備して待っていると連絡があった。

 帰り支度を済ませ、廊下を歩いていると、向こうから玉城がこちらへ来るのが見えた。廊下の端に寄り、目礼をする。玉城が足を止めた。

「事件解決、おめでとう」

「ありがとうございます」

 顔を上げた上野と玉城の視線が交差する。

「一つ、よろしいでしょうか」

 上野が尋ねると、玉城は小さく頷いた。

「先日、玉城部長から訊かれた件ですが、女性としての働き方だとか、女性ならではの視点だとか、猿渡さんや鯨井さんたち男性幹部には求められない問いを、女性幹部だけが求められることには納得がいきません。世間やマスコミが、その手の発言を喜ぶことはわかっています。後輩たちのお手本になれたらそれは嬉しいことですが、初めからそこを目標に働いているわけでもありません」

 玉城の瞳が興味深そうに輝いた。

「つまり?」

「自分の責任と成果に見合うだけのポジションがほしいんです」

 玉城の笑みが深くなる。

「あなたの覚悟が聞けて良かった。もっとも、私に人事権はありませんけどね、上野調査官」

 玉城が廊下の向こうへと歩き去る。そのヒールの音は、いつも以上に自信に満ち溢れているように聞こえた。

 

「ただいま」

 玄関を入ってすぐに、上野は自分の期待が膨らんでいくのを感じた。すき焼きの香りがする。

 食卓に座った夫の弦と、息子の怜大が上野の帰りを待っていてくれた。

 

(つづく)