「いや、ここで帰るのはナシでしょう」

 丸山は慎介の腕をつかむと、山野の部屋のドアの前まで引っ張っていき、迷いのない手つきでチャイムを鳴らした。

 室内の話し声が止んだ。

「ピザ、来たな」

 安アパートなので、部屋のインターフォンにカメラはついていない。

「はーい、今開けます」

 明るい声がしたかと思うと、ドアが開いた。入ってすぐがキッチンになっている1Kだ。愛着のある部屋だったが、薄汚れて見えた。

 慎介と目が合うなり、山野の四角い顔が引きつった。

「ええっと……」

 慎介はしかたなく言った。

「その後、体調はどうかと思って、寄ってみた」

「まあ、もうだいぶよくなって……」

「そう、お大事に」

 そそくさと踵を返そうとするのを、丸山が押しとどめた。丸山は、静かな声で言った。

「医師の丸山です。大河内専務から依頼を受けて、高畠さんの相談に乗っていました。君らの話は全部聞こえていたよ。仮病を使ったんだね」

 いつの間にか、貝原も奥の六畳間から廊下に出てきている。さすがにきまりが悪いようで、二人ともうなだれていた。

 丸山は、ドアを右手で押さえ、ゆっくり繰り返した。

「仮病を使ったんだね」

 今度も反応はなかった。

「高畠さんが、どんな思いで今日一日を過ごしたか分かってる? 幹事をしたバーベキューで食中毒が出たかもしれないって、めちゃくちゃキツい状況だよ? 誰だって逃げたくなる。でも、高畠さんは踏みとどまった。無茶を言う専務を説き伏せて、憶測や感染が広がるのを防ごうとした。君らのことも、心配していた。だから、わざわざ様子を見に来たんだ。なのに、君らの言い草はなんだ。恥ずかしいと思わない?」

 丸山の声は震えていた。顎も震えている。感情が高ぶってきたようだ。慎介のほうは、冷静さが戻ってきていた。丸山の腕に手をかけた。

「いいんです。僕にも配慮が足りなかったから」

 山野が唾を呑み込むように喉を動かした。そして、おずおずと慎介の顔を見た。

「あの……。申し訳ありませんでした。できれば穏便にすませてもらえないでしょうか。専務には黙っていていただきたいんです」

 蚊の鳴くような弱々しい声で言うと、頭を下げた。貝原も長身を折り曲げて一礼をする。

 虫のいい奴らだ。しかし、報告したら、解雇とまではいかなくても、なんらかの処分を受けるだろう。支店の営業部員が二人同時に出勤停止になったりしたら、会社の戦力的に痛手となる。

 どうしたものかと迷っていると、いきなり丸山が大きな声を出した。

「高畠さん、迷う余地なんかないでしょう。高畠さんが報告しないのであれば、僕が大河内さんに言います」

 山野と貝原は再びうなだれた。

 丸山は赤くなった目で、二人を交互ににらんだ。

「僕は君らがやったことを許せない。日本の国民皆保険制度は素晴らしい。でも、医療費は膨れ上がっていて、大変なんだ。保険料が上がったり、高額療養費の自己負担が増えそうだったりで、みんな不安だったり、苦しんでいたりする。なのに、仮病で保険を使うなんて、あり得ないと思う。それ、はっきり言って詐欺ですよ。経済的な不安を抱えながら病気と闘っている人たちをあざ笑う卑劣な行為でもある」

 激しい口調で決めつけられ、山野がビクッと身体を動かした。

 丸山は、歯の隙間から言葉を絞り出すようにした。

「ほとんどの医者は、もっと患者と話をしたいと思っている。丁寧な診察をしたいのに、忙しすぎて十分な時間が取れないのを悔しがっている。仮病を使うバカの相手なんて、している暇はないんだ。謝れ! この国の医療関係者全員に謝れ!」

 若い二人は、丸山の剣幕に気圧されるように、身体を縮めている。慎介も、言葉が出てこなかった。

 カフェのテーブルを挟んで話をしているときには、終始穏やかだった丸山に、こんな激しい一面があるなんて、思ってもみなかった。

 でも、丸山は間違ったことは言っていない。一言一句に同意する。悪ふざけではすまされないことを二人はしたのだ。

 そして思った。丸山がカフェで医療相談をやっているのは、医療現場で患者と十分に話せなかったからではないか。彼は彼なりのやり方で、現実に抗おうとしているのだ。

 アパートの前の道に、バイクが停まる音がした。ピザの宅配が到着したようだ。

 慎介は二人に言った。

「この後、保健所の人と話をするんだ。君たちが嘘の申告をしたことは言わない。というか、恥ずかしくて言えない。僕の勘違いだったことにする。でも、大河内さんには、ありのままを報告するよ」

 丸山は、当然だと言わんばかりにうなずくと、二人に背を向け、外廊下を歩き出した。慎介も丸山の後に続いた。

 ピザの箱を持った若い男性が、階段の下で二人が降りてくるのを待っていた。階段が狭いから、遠慮してくれているのだろう。

「ああっ、すみません。すぐに降ります」

 丸山は恐縮したように頭を下げた。先ほど、山野たちに詰め寄っていたのと同じ人物とは思えない腰の低さだ。丸っこい身体に似合わぬ軽快な足運びで階段を下り始める。

 階段を下りきったとき、慎介のスマホに電話の着信があった。保健所の担当者から連絡が来たのだろう。さっき山野たちに言ったように、自分の勘違いだと言い訳をして、平謝りするしかなさそうだ。貧乏くじもいいところである。

「いろいろありがとうございました。電話がかかってきたので、僕はここで」

 声をかけると、丸山は疲れたような笑みを浮かべて、手を振った。出勤時間が迫っているのか、急ぎ足で駅の方へ歩き出す。

 スマホを取り出し、画面を確認する。知らない電話番号が通知されていた。保健所だろう。

 通話を始め、相手の第一声を聞いたとき、思わず舌打ちが漏れた。

 ――竹本よ、お前もか。

 

 

 リトルスロープの本社は、中野区の早稲田通り沿いにあった。創業当初から建っている三階建ての自前の物件で、中井駅からだとバスと徒歩で十五分ぐらいの距離である。

 本社の終業時間は、支店より一時間早い午後六時だ。慎介が六時過ぎに到着すると、正面エントランスはすでに鍵がかかっていた。

 裏口から中に入る。ほとんどの社員はすでに引き上げたようで、社内は静まり返っていた。

 一階にある総務部の部屋に入っていくと、窓を背にしたデスクに飯島がぽつんと一人で座っていた。リーディンググラスをかけ、PCの画面をにらんでいる。

 体調を崩してから一週間が過ぎ、飯島はすっかり快復したようだ。今日は、食中毒騒動について確認したいことがあると言われ、呼び出された。

「お疲れ様です」

 声をかけると、飯島が顔を上げた。バーベキューで会ったときより、頬の肉が少し落ちたようだ。ノロウイルス中毒で、ろくに食べられない日が続いたのかもしれない。

「ご苦労様。こんな時間にごめんなさい」

「いや、僕もついさっきまで、内見があったので」

「専務ご夫妻との約束は、七時半だったわよね。七時までには終わらせる。そっちのブースに座って」

 衝立で仕切られたミーティング用のスペースを指さした。

 ブースの中に入って椅子に座る。ほどなく飯島がノートを手に現れた。

「いろいろ大変だったわね。私も、迷惑をかけました。申し訳ありませんでした」

 会社のナンバー3に丁寧に頭を下げられ、恐縮してしまった。でも、今回の騒動の発端が飯島だったのは、まぎれもない事実である。

 飯島の嘔吐と下痢は、ノロウイルスが原因だったそうだ。バーベキュー当日の夜、夜勤に行く娘から預かった二歳の孫娘から感染した可能性が高いという。

 孫娘は、ウイルスが感染しても症状が出ない不顕性感染だったそうだ。本人がピンピンしていたものだから、まさか孫娘からウイルスをもらったとは思わなかったという。飯島が体調を崩した翌日の金曜の夕方、孫娘が通う保育園から、複数の園児がノロウイルスに感染したようだと連絡があり、ようやく原因に思い当たったそうだ。

 そのことについて、慎介が飯島から連絡を受けたのは、金曜の夜だった。

 あんなに大変な思いをしたのに、結局、バーベキューで食中毒を起こした人は、誰もいなかったのだ。拍子抜けもいいところである。

 保健所には平謝りをした。担当者が気のいい女性で、「何事もなくてよかったですよ。今後も、何かあったら、遠慮なく知らせてくださいね」と言ってくれたのが救いである。

「飯島さん、あの二人は、どうなるんですか?」

 山野と貝原は、あの後、二人で本社に出向き、社長と専務の前で、自分たちがやったことを白状して謝罪した。丸山の説教がこたえたようだったし、言い逃れはできないと観念したのだろう。

 専務は激怒し、業務妨害で警察に訴えると言ったそうだ。しかし、社長のほうは罪を認め、ひたすら謝罪する若い二人を見て思うところがあったらしい。重い処分はしたくないという。

 社長と専務の間で、今も意見の対立が続いている。二人は処分が決まるまで、本社で書類整理の仕事をしているそうだ。

「明日の取締役会で処分が決まるわ。私は、社長と専務の中間ぐらいのスタンス。警察沙汰にはしなくていいと思うけど、厳重処分は必要だわ。ただ、二人とも自分から辞めるかもしれないわね」

 やむを得ないと思う。ただ、慎介が口を挟む問題ではない。

「僕に確認したいことというのは?」

「うん……。ちょっと気になるのよ。二人を含めて何人かの若手が、個人のスマホのメッセージアプリで、グループを作っていたようなの。食中毒のふりをして、バーベキューの恒例化を潰そうという話は、そこで出たみたい。あの二人以外から、体調が悪いという連絡はなかった?」

 もし連絡があったのであれば、その社員にもなんらかのペナルティーを与えなければ不公平になるという。

 慎介は首を横に振った。

「いえ、特に」

 厳密に言えば、何もなかったわけではない。

 山野のアパートの前で、竹本から電話がかかってきた。しかし、彼女は体調不良を報告したわけではなかった。

 そのグループでは、バーベキュー当日の水曜の夜から翌日の木曜にかけて、専務夫人の手料理が直射日光の下に放置されていて、危なそうだった、という話題で盛り上がった。

 竹本は、冗談で「集団食中毒が発生したら、来年からバーベキューはないよね」と発言したそうだ。それが頭にあった山野は、食中毒のふりをすることを思い付き、翌日の朝、慎介からの問い合わせを受けて「それっぽいかんじ」と返事をしたという。

 その後、飯島も体調不良で欠勤したのが分かった。本当に食中毒が発生した可能性がある。そして、慎介から例の通知が送られてきた。

 竹本は、自分の発言をきっかけに、おかしなことが起きたのではないかと気に病んで、相談の電話をかけてきたのだった。

 竹本によると、竹本を含め、グループの他のメンバーは、山野と貝原をたしなめていたらしい。竹本や彼らのことを飯島に報告する必要はないだろう。竹本は私用のスマホで電話をかけてきた。通話記録を調べられても、彼女から連絡があったことは、分からないはずだ。

 飯島は、慎介の言葉をすんなり信じてくれたようだ。

「分かった。質問は以上です。お疲れさまでした」

 これでよかったのだと思いながら、慎介は席を立った。

 

 カフェ・カミナーレのドアには、「本日貸し切り」という札がかかっていた。ドアを押して中に入ると、四人掛けのテーブル二つがつなげられ、大テーブルのようになっていた。皿やカトラリー、グラスなどが並べられている。

 ――食中毒騒ぎが無事に収束したので、家内がちょっとした慰労会を開きたいと言っている。

 大河内にそう言われて、呼び出されたのだ。

 大河内夫妻、丸山と四人で食事をするのだと思っていたのだが、参加者はもっといるようだ。

 背の高い若いイケメンが、美味しそうな肉料理の大皿を持って厨房から出てくるところだった。ニンニクの香ばしい香りが、店内に立ち込める。

 店に軽快な音が響いた。水島がスパークリングワインを抜栓したのだ。

 壁を背にした席から、大河内が呼んだ。

「早く座れ。今日は無礼講だ。好きなだけ飲み食いしていいぞ」

 下品でカオスな宴会にならないことを祈る。でも、たぶん大丈夫だ。大河内の隣には、夫人がいる。

 夫妻と向かい合うように、丸山が座っている。慎介が隣の席に腰を落ち着けると、丸山はニコニコしながら「こんばんは」と言った。

「先日はありがとうございました」

 頭を下げると、「いやいや」と言って、照れ臭そうに笑った。先週、山野の部屋の前で山野と貝原を詰めていたのと同じ人物とは、とても思えない。

 大河内夫人が笑顔で尋ねた。

「高畠さん、お飲み物は?」

「あ、じゃあビールを」

 大河内夫人が、慎介のグラスにビールを注いでくれた。バーベキューのときはスポーティーな服装だったが、今日は民族衣装のような個性的な服を着ている。

「ほんとに、ありがとね。あなたのおかげで、私の手料理で食中毒が起きたという噂がデマだと証明されて、助かったわ。主人から、そんな噂が流れていると聞いて、生きた心地がしなかったの。誰かが亡くなったら、どうしよう、どうやって責任を取ればいいのかしらって……。高畠さんに直接お礼を言わなくちゃと思って、今日はお招きしました」

 大河内がうなずく。

「家内は、お医者くんカフェの常連でね。今回丸山先生、いや、丸くんと相談しながら、神経質なぐらい衛生面に気を使って、料理を作ったんだ。おにぎりだって、手袋をつけて握っていた。食中毒なんてあり得ない。なのに、家内の料理が悪かったという話になっているようで、俺も胃が痛かったよ」

 大河内が、原因究明にこだわっていた理由は、これだったようだ。山野や貝原に厳罰を望むのも納得だ。

 ただし、夫人の手料理にまったく問題がなかったわけではないと思う。衛生面に注意を払って作った料理でも、直射日光の下に放置されていたら、危険だと感じる人がいるのは当然だ。しかし、それは夫人だけの落ち度ではないし、ここで指摘する必要もないだろう。

「まあ、結果オーライだ。高畠が皆に流した通知も、評判がよかったぞ。情報は隠すより公開したほうがいいんだな」

 そう言うと、大河内は険しい表情を浮かべた。

「ただし、あの二人は許せない。社長がなんと言っても辞めさせる」

 息まく夫を夫人がたしなめる。

「あなた、その話は止めて」

 店に新たな客が入ってきた。大柄な若い女性だ。大河内夫人が立ち上がって彼女を迎えた。

「ショウコさん、こっち、こっち。泡が好きだって言ってたわよね? ぜひ飲んで」

 ショウコと呼ばれた女性は、大河内夫人にお礼を言うと、水島に声をかけた。

「めぐみさん、私、ウチの会社の新製品候補を持ってきたんですけど、皆さんに食べていただいていいですか?」

「もちろんです。どんなお皿に出せばいいでしょう」

 再びドアが開き、今度は中年のおじさんと女子大生っぽい二人連れがやってきた。顔が似ているから親子だろう。おじさんは、花束を抱えている。

 いったいこれはどういう会なのだ。社員旅行の宴会とは違う意味でカオスだ。

 丸山は、来店した人たちと笑顔で挨拶を交わしている。その様子を見て、見当がついた。彼らも、丸山に相談に乗ってもらったのだろう。

 お医者くんカフェか……。

 身体の不調に悩んだら、自分もここに来ようと思いながら、慎介はビールを飲んだ。

 

(了)