飯島はだるそうな声で続けた。
「そういうわけで、参加者に聞いてみてくれない? 食中毒と決まったわけじゃないから、大げさにはしないで」
言いたいことは分かるが、何事も起きていない体を装って参加者に体調を尋ねるなんて、めちゃくちゃ難しい。それに、上の言いなりになるばかりではダメと言ったのは、飯島ではなかったか。
「あの、それって僕の仕事ですか?」
回線の向こう側から、怒りを含んだため息が聞こえた。
「私の仕事でしょうね。でも、気持ち悪くてそれどころじゃないの」
総務部の正社員は、飯島のほか十九歳の新入社員だけだ。社会人としての常識がまだ身についていない彼女に頼める案件ではない。
「大河内さんにはさっき電話したけど、つながらなかった。だから、高畠くんに頼んでる。それに、高畠くんも無関係ではないでしょ」
ピシャリと言われ、情けない気持ちになった。そして、自覚した。自分はこの不測の事態から逃げたいのだ。でも、そうもいかない。幹事をやったのは自分だ。
飯島は不機嫌な声で言った。
「大河内さんに私の話を伝えて判断を仰いで。総務の子には、体調不良で休みますとだけ伝えておく」
通話が切れた。慎介はスマホを握りしめたまま、目を閉じた。
なんとも悩ましい状況である。そして、ハッとした。山野が昨日、体調不良で欠勤したのを思い出したのだ。
もしかして、すでに結論は出ているのではないだろうか。スマホで山野にメッセージを送った。
――その後体調はどう? 医者には行った?
少し迷ったが付け加えた。
――食中毒っぽかったりする?
送信ボタンを押すと、すぐに既読がつき、ほどなく返信が来た。
――お疲れ様です。支店長に言われて昨日医者に行きました。検査とかはなかったんで、食中毒かどうかは分かりません。でも、それっぽいかんじです。今日もお休みをいただきます。支店長にはさっきメッセしました。
――お大事に。
メッセージを返すと、天井を仰いだ。万事休すである。心を無にして粛々と必要な手続きを進めるしかない。まずは、大河内に報告と相談だ。
震える指でスマホを操作し、大河内の番号を呼び出した。
大河内は幸い、電話に出てくれた。飯島からの電話の内容、そして山野が昨日以来、欠勤しており、食中毒のような症状が出ていることを報告した後、お伺いを立てた。
「二人以外に体調不良者が出ていないか、参加者に聞き取りをします。あと、一応保健所にも連絡を……」
大河内は、しばらく沈黙した後に言った。
「体調不良なら欠勤するだろ。聞き取りなんかする必要はない。保健所にも黙っとけ。下手に知らせてガミガミ言われるのはバカらしいし、営業停止なんか食らったら大損だ」
「ですが……」
「重症で入院しているのならともかく、吐いたり、腹を下したりしてるだけだろ? 二、三日休めばよくなるに決まってる」
そうであってほしい。祈っている。しかし、体調不良者がすでに二人出ているのだ。飯島を診た医師の助言に従って、今のうちに保健所に相談しておいたほうがいいのではないか。
しかし、慎介が口を開く前に大河内が言った。
「食中毒を出したのが世間に知れたら体裁が悪い。採用にだって影響する。高畠は心配しすぎなんだよ。一週間もたてば笑い話になる」
そこまで言われては、言葉を継げなかった。大河内の図太い神経が羨ましかった。
落ち着かない気分で自宅を出た。今住んでいるのは、新目白通り沿いにある単身者向けのワンルームマンションだ。西武新宿線中井駅に近い商店街の中にある支店までは、歩いて十分ほどの距離である。
途中、コンビニでおにぎりとサンドイッチを買って、始業前の支店で食べた。店内での接客を担当しているパートの女性社員によると、支店長は管理物件のオーナーと面談があり、現場に直行するそうだ。
午前中は、支店で飛び込みの客を待ちながら、書類仕事をした。胸の奥がザワザワして、集中するのに苦労した。
午後は、二組の担当客を内見に連れて行く予定だった。そのうち一組は若いカップルで、今日の内見が五件目と六件目になる。これ以上物件を見せたら、おそらく決めきれなくなり、逃げられる。これまでに費やした労力や時間を思うと、是非とも今日、仮契約にこぎつけたかった。
駅の南側にあるラーメン店で遅めの昼食を済ませると、午後二時近くになっていた。
急ぎ足で踏切を渡ったところで、スマホに着信があった。大河内からだった。嫌な予感しかしなかったが、無視をするわけにもいかない。足を止め、歩道の脇に寄って通話を開始する。
「今、どこにいる」
「昼飯を食べ終わって店に戻る最中です」
他の社員が一緒ではないことを確認すると、大河内は言った。
「まずいことになった。食中毒の件が社内で噂になってるんだ。飯島さんと山野が欠勤してるのは、バーベキューで食べたものが悪かったからじゃないかって。要するに、犯人捜しだな。どうしてそんな噂が流れているんだ」
詰問され、慎介は思案を巡らせた。
飯島は今朝の電話で、欠席の理由を体調不良とだけ伝えると言っていた。大ごとになるのも望んでいない。噂の出所は、おそらく山野だ。仲のいい社員に、食中毒かもしれないと伝えたのではないか。そのことと飯島の欠勤を結び付け、集団食中毒が発生したと、取沙汰している社員がいるにちがいない。
そう説明すると、大河内は声を荒らげた。
「お前の見解なんかどうでもいい。なぜ山野に口止めをしておかなかったのか、と聞いている」
だったら最初からそう言ってほしいと思いながら、謝った。
「申し訳ありません。僕の手落ちです」
大河内は声のトーンを下げた。
「終わったことはしようがない。ただ、噂をなんとかする必要がある。この後の予定はどうなってる?」
「ええっと、二時半と四時に内見のアポが一件ずつ」
「分かった。本社から交代要員を向かわせる。高畠は今すぐ東中野に行ってくれ」
中井から東中野までは地下鉄で一駅だ。支店もある。
「東中野店で何かあるんですか?」
「そうじゃなくて、カフェに行ってほしいんだ」
店名はカミナーレ。そこで丸山という医者に会ってほしいという。
「丸山先生に話を聞いて、食中毒の原因を究明してもらいたい」
慎介の頭の中で「はてなマーク」が飛び交った。状況が皆目見当がつかない。
「ええっと、確認させてください。カフェに医者がいて、僕が原因究明に当たるんですか?」
「そうだ。医者に状況を説明すれば、原因が分かるはずだ。そうしたら、憶測を語れなくなるから、噂なんて自然に消えるだろ」
「そう簡単に原因が分かりますかね……」
「適当なことを言ってるわけじゃないぞ」
年末に悪心がひどくて近所のクリニックに駆け込んだら、二日前に食べた生牡蠣が原因のノロウイルス中毒の可能性が高いと言われたそうだ。
「検査も何もなかった。医者はその道のプロだ。症状や潜伏期間から、原因の予想がつくんだよ」
それはたぶん生牡蠣以外に怪しいものを口にしていなかったからだ。バーベキューとは状況が違いすぎる。それに、まったく気が進まない。犯人がいるとすれば、候補の最右翼は、おそらく自分だ。
「保健所に任せたほうがよくないですか?」
保健所こそ、その道のプロだろう。自分としては細心の注意を払ったつもりだが、プロの目で見て「お前のせいだ」と言われたら観念するし、ペナルティーを科せられるなら、甘んじて受ける。
しかし、大河内はにべもなかった。
「今朝も言っただろう。保健所への連絡も聞き取り調査も必要ない。大ごとにしたくないんだ。それより、急いでくれ。丸山先生は夕方から仕事が入っているのに、無理を言って時間を作ってもらったんだ。店に行ったら、俺の名前を出せ。それで分かるようになってる」
電話はそこで切れた。
なんでこうなるのか……。何もかも放り出したかったが、自分は無関係ではない。ここで逃げ出すわけにはいかないのだ。
慎介は肩を落として、地下鉄大江戸線の駅を目指した。
スマホで検索した地図によると、カフェ・カミナーレは、落合から東中野へと抜ける通り沿いにあった。
慎介が入社してから二年間住んでいた物件からわりと近い。当時、この通りも、よく通っていた。当時の記憶によると、この店は別の名前だったはずだ。
「OPEN」という札がかかっているドアを開けて、店内に入った。ランチタイムは終わったようで、店内に他に客はいなかった。
カウンターの中から、カフェエプロンを付けた小ぎれいな中年女性が会釈を送ってくる。優しそうな人でホッとした。
「あの、高畠です。大河内に言われて、丸山先生に会いに来たんですが……」
「お待ちしていました」
女性はカウンター席に座るよう、慎介を促した。
慎介が椅子に腰を落ち着けると、女性は緊張した面持ちで自己紹介を始めた。
「水島めぐみと申します。このカフェのオーナーで、お医者くんカフェの責任者です」
「お医者くんカフェ?」
火、木、土のカフェタイムに、丸山医師が客の相談に応じる場だという。金曜日の今日は、丸山の出勤日ではないが、大河内から丸山のスマホに相談の依頼があったのだそうだ。
「丸山は、個別相談という形でお受けすると返事をしたそうです。今、こっちへ向かっているんですが……」
そう言うと、水島は申し訳なさそうに頭を下げた。
「この話、お断りさせてください」
「えっ……」
一瞬固まってしまったが、いやいや、これは朗報だ。犯人捜しをしなくてすむのだ。助かった。
しかし、すぐに考えを改めた。大河内に「断られました」と報告したら、「なぜ相手を説得しない」と怒られるに決まっている。そのことを想像しただけで、胃が痛くなってきた。
なんと言葉を返そう。悩んでいると、店のドアが開き、小太りの中年男性が入ってきた。走ってきたのか、大汗をかいている。シャツの裾もズボンから半分はみ出していた。
男は肩で息をしながら、慎介を見た。
「あなたが大河内さんの?」
「ああ、はい……」
「お待たせして申し訳ありませんでした。丸山です。丸くんと呼んでください。他にお客さんはいないようだし、あっちで……」
奥のテーブル席を指さす丸山を水島が遮った。
「丸くん、ごめんなさい。依頼はお断りしました」
丸山がキョトンとした表情を浮かべて、水島を見た。
「断った……。あの、理由を聞いてもいいですか?」
水島は、そんなことも分からないのか、と言いたそうに首を傾げた。
「依頼の性質が、お医者くんカフェのコンセプトに合わないでしょう。丸くんの役目は、健康問題で悩んでいる患者さんや家族の話を聞くこと。食中毒が発生したのであれば、原因究明は保健所の仕事だわ」
丸山は思案するように眉を寄せた。タオルハンカチで額の汗を拭き、慎介に向き直る。
「ええっと、お名前を聞いてもいいですか?」
「高畠です」
「水島の言う通り、原因究明は保健所の仕事です。でも、高畠さんが困っているのであれば、話を聞きますよ。お手伝いできることがあるかもしれません」
「丸くん?」
水島の困惑するような声を聞いて、辞退したほうがよさそうだと思った。水島の言うことは、もっともだとも感じた。大河内が無理難題をふっかけたのだ。
しかし、丸山は慎介を奥のテーブルに行くよう、促した。
「高畠さんは、バーベキューの幹事だったと聞きました。辛い立場ですよね。身体にも不調が出ているんじゃないですか? もしそうなら、高畠さんの話を聞くのは僕の役目です」
慎介は丸山の丸っこい顔を凝視した。
この人は、自分を助けてくれようとしているようだ。
次の瞬間、全身に一気に疲れが噴き出した。そういえば、今朝、飯島に電話をもらってから、ずっと動悸が収まらない。鳩尾のあたりに、ずっしり重い塊があり、息が詰まりそうだ。
思わず丸山に訴えていた。
「……僕としては、十分注意を払ったつもりだったんです。なのに、こんなことになってしまって……」
丸山は穏やかに言った。
「まだ食中毒と決まったわけではないでしょう。十分注意を払ったのであれば、責任を感じすぎないほうがいいですよ。でも、それはそれとして、善後策を一緒に考えましょう」
慎介は、そっと拳を握りしめた。涙が出そうだ。上司がこんな人だったら、どんなによかったか。
丸山は水島に声をかけた。
「そういうことになりました。すみません、コーヒーを二つ、お願いします。落ち着く香りのものを選んでください」
水島は、「しかたないわね」とでも言いたそうな微妙な笑みを浮かべ、ドリップ用のコーヒーポットに手を伸ばした。
テーブルを挟んで座ると、丸山は言った。
「大河内さんには、一昨日開いた会社のバーベキュー大会で食中毒が発生した可能性があるから、原因の食材を特定してくれと頼まれています。でも、状況がよく分からなくて。説明してもらえますか?」
昨日から今日にかけて発生した二人の体調不良者、そしてバーベキューで食べたものなどについて説明した。我ながらたどたどしかったが、丸山は遮らずに聞いてくれた。
「二人とも菌やウイルスを特定する検査を受けていないわけか……。となると、食中毒か否かの判断は難しいですね。でも、やるべきことは、わりとはっきりしています」
――食中毒が発生した可能性があることを踏まえ、感染拡大を防ぐ。そして、噂が広がるのを止める。
その二つだと丸山は言った。
「早速その二つをやっつけてしまいましょう。噂については、大河内さんも電話でしきりに気にしていました。個人名まで取沙汰されているんだとか。あれこれ憶測を巡らせても、いいことなんかないですよ」
自分の名前も出ているんだろう。胸が苦しくなったが、あれこれ思い悩むより、前に進んだほうがいい。
「どうすればいいんでしょう」
「そうですね。よくないことが起きたとき、隠そうとすると、かえって憶測が広がると思うんです」
確かにそうだ。事故や災害の際、公式発表がないと、多くの人が疑心暗鬼に陥り、デマが拡散される。
「事実を淡々と報告して、会社はしかるべき方法で対処すると明言します。そのうえで、皆さんに協力を求め、憶測を止めるように釘を刺すといいのでは?」
ザワザワしていた気持ちが落ち着いてきた。