4章 魔法の杖
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南青山にある高級分譲マンションの屋上で、新木幸弥は大型プランターに植えられた野菜やハーブの育ち具合を見て回った。午前中だが、日差しは強烈だ。サファリハットをかぶり、日焼け対策のアームカバーをしていても、全身がじりじりと焙られるようだ。四十六歳のオジサンにはなかなか辛い状況である。
フルーツミニトマトの樹には、鈴なりの実が何段もついている。下の段の実は、真っ赤に熟れて食べごろだ。断面が星型の大型のオクラ「ダビデの星」は、先端を空に向けて伸び、イングリッシュラベンダーの紫色の花からは、爽やかな香りが漂ってくる。
植物たちに囲まれていると、大都会のど真ん中にいるのを忘れそうになるが、南東の方角には東京タワーが見える。
この屋上菜園は、幸弥が経営する農業・環境系ベンチャー企業、ポタジェがプロデュースし、運営を手がけている。床にはウッドパネルが敷き詰められ、大きさも形も様々なプランターが一見無造作に、実は緻密な計算のもとに配置されている。お手本は、フランスの田舎のガーデンだ。
今朝、幸弥がここに来たのは、自社のプロモーション動画を撮影するためである。幸弥の出番はすでに終わった。今は日よけ帆布の下のテーブルで、MCを担当するタレント、中林霧子が女性二人にインタビューをしていた。二人ともマンションの住人で、菜園のヘビーユーザーだ。インタビューの様子は、契約カメラマンの小暮が撮影しており、広報部の二人と菜園の責任者も立ち会っている。
霧子は派手なオレンジ色のノースリーブのワンピースを着ていた。彫りの深い顔立ちでスタイル抜群の彼女によく似合っている。撮影はまだしばらくかかりそうだ。幸弥は菜園の見回りを続けることにした。プランターはマンションの住人に貸し出しているが、利用者任せにしないのがポタジェの屋上菜園の特徴である。種や苗はポタジェが用意したものから選んでもらう。大根、かぼちゃなどの生活感たっぷりの作物を植える人がいると、全体の調和が損なわれるからだ。水やり、枯れた植物の始末、伸びすぎた枝の剪定は、週に三度訪れるスタッフが必要に応じて行うほか、利用者同士の懇親を目的としたイベントも定期的に開催している。
きめ細かなサポート体制が、設営者や利用者のニーズに合っていたのだろう。現在、ポタジェが手がけている屋上菜園は首都圏で五十か所以上に上る。従業員は百人弱。十五年前、元妻と二人で立ち上げた零細企業が、ここまで大きくなるとは想像もしていなかった。
三年前には、ガーデニンググッズを企画・販売している会社を買収。去年は経済新聞が主催する「アグリ系ベンチャー企業大賞」も受賞した。今年も過去最高益を更新する見通しだ。
ようやく撮影が終わったようだ。幸弥は、皆がいるテーブルへ向かうと、インタビューに応じてくれた二人に、ポタジェの人気商品の一つであるガーデニングポーチを謝礼代わりにプレゼントした。
彼女たちがエレベーターに乗り込むのを待って、幸弥はスタッフに声をかけた。
「お疲れさまでした。よかったら、この後、皆で昼飯に行かない? 中林さんと小暮さんのお疲れ様会ということで」
なぜかその場に微妙な空気が漂った。何かまずいことを言っただろうか……。
広報部長のベテラン女性が、遠慮がちに切り出した。
「予約なしで六人は難しいんじゃないでしょうか。私たち社員は結構ですので、三人でいらっしゃってください」
まだ十一時半になっていない。この近くにあるファミレスに毛が生えたようなイタリアンなら、六人でも大丈夫だと思うのだが……。
幸弥が口を開く前に、小暮が首を横に振った。
「僕は次の現場があるので、時間的にちょっと」
幸弥は霧子を見た。霧子は、笑みを浮かべると言った。
「ランチ、ご一緒させていただけたら嬉しいです」
「そう。じゃあ、二人だけど行きますか」
広報部長が分別臭い顔でうなずく。
ひょっとして、霧子と自分の関係はバレているのだろうか。だとしたらまずいなと思いながら、幸弥は霧子に何が食べたいか尋ねた。
霧子が選んだのは、そのマンションからタクシーで五分ほどのところにある隠れ家風の自然派イタリアンだった。タレント仲間と時々行く店だそうで、タクシーに乗る前に店に電話をして、人目につきにくい半個室の席も押さえてくれた。
白いテーブルクロスがかかった落ち着いた店だった。霧子は、昼なので軽めにサラダとメインだけのシンプルなセットにしようと提案した。メインはサーモンのハーブグリル、チキンと夏野菜のさっぱりソース、大豆ミートを使ったミートボールのトマト煮から選ぶそうだ。
幸弥としては、もっとガッツリしたものが食べたかった。迷っていると、スタッフが助け舟を出してくれた。メインはパスタに変更できるのだという。グランドメニューを見てラザニアに変更してもらった。
霧子は、イタリアの高級スパークリングワイン、フランチャコルタも頼んだ。幸弥はこの後、仕事があるのでミネラルウォーターである。
運ばれてきたサラダは、いかにも女性好みだった。色鮮やかで形も珍しい野菜たちが、レース模様の白い皿に芸術的に盛り付けられている。霧子はスマホのカメラで写真を撮り始めた。ブログにアップするのだろう。水を飲みながらその様子を見ていると、霧子がいたずらっぽく笑った。
「広報部長さん、私たちに気を遣ってくれたのかな」
「やっぱり、そう思った?」
「カメラの小暮さんも、気づいてるかも」
「まずいな」
「そう? 私はタイミングをみて、オープンにしてもいいと思ってるけど」
「えっ、そうなの?」
霧子はスマホをテーブルに置くと、フランチャコルタを美味しそうに飲んだ。
霧子はタレントである。二十代半ばまでアイドルグループに所属していた。その後数年間は女優をしていたが、あまりうまくいかなかったようで、今は、司会やブログの執筆が主な仕事である。
ブログの人気テーマの一つが、自宅ベランダに作った菜園だった。本格的なもので、野菜ソムリエやハーブコーディネーターなどの資格も持っていた。そこに目をつけた広報部長が、彼女をポタジェのネットCMに起用することを思いついたのだ。
昨年秋、CM撮影の後の打ち上げで、珍しい野菜の話題で盛り上がった。話の続きがしたくて、そういう野菜を出すレストランに誘ってみたら快諾してくれた。その後、あれよあれよという間に交際に発展したのだ。
幸弥にとって、十年前に離婚してから初めてできた恋人である。それが十歳も下のタレントだなんて、自分でも信じられなかった。ちなみに幸弥の外見は、普通のおっさんである。服はほとんどファストファッション、腹回りに浮き輪状についた贅肉が悩みの種である。住まいは西新宿のタワマンだが、オフィスに近いから選んだだけで、自室は眺望とは無縁の五階だ。経営者といっても、いたって地味な人間なのだ。
「迷惑じゃない? 僕みたいなのと付き合ってるのがバレたら、霧子のファンの人たちがどう思うか」
霧子はサラダを口に運びながら笑った。
「アイドルを辞めて十年も経つのよ。もう三十六歳だし、事務所も文句なんか言わないわ。経営者は相手として悪くないし、仕事を通じて知り合ったのも好印象だしね。ただ……」
霧子はフォークを置くと、改まった様子で言った。
「結婚を前提にした交際、ということでいいのかな」
「えっ」
「幸弥さんはバツ1だし、娘さんと暮らしているでしょ。結婚は考えていないのかなって。でも、私は……」
幸弥の頬がカッと熱くなった。これは、逆プロポーズではないだろうか。今度は冷汗が出てきた。
「もちろん、結婚前提で構わないよ」
いや、こういう相手任せの言い方は男らしくない。幸弥は頭を下げた。
「結婚を前提に付き合ってください。霧子がいいと思うタイミングで、結婚しよう」
「いいの? 娘さん、嫌がらないかな」
「大丈夫だろ。もう大人だし」
娘の若菜は、大学二年生である。元妻と神奈川県西部で暮らしていたが、昨年春、都内の大学に入学したのを機に、幸弥のマンションに引っ越してきた。八年間離れて暮らしていたわりに、親娘仲は悪くない。
離婚の原因は、元妻と二人で設立した会社の経営方針を巡る対立だった。離婚して会社も解散したら、いがみ合う理由がなくなったので、その後はまあまあ円満だ。若菜の中学、高校の入学式や卒業式には、幸弥も参列したし、中学、高校の夏休みには親娘二人で旅行もした。そんな関係だったから、東京の大学に進学が決まり、一人暮らしさせてほしいと言われたとき、何年か一緒に暮らそうと提案してみたのだ。若菜は快く応じてくれた。
ただし、最近は若菜と冷戦状態にあった。突然、「美容整形をしたい。費用を出して」と言い出したのだ。東京に出て来てから、よく言えばイマ風、悪く言えば珍妙な化粧をするようになっただけでも嫌なのに、整形なんてとんでもない。思わずカッとなって、「そんな金を出す気はない」と怒鳴ったら、むくれてしまった。
でも、それはそれ。再婚に反対はしないと思う。
「付き合っている女性がいることは言ってあるんだ」
「えっ、そうなんだ。娘さん、なんて?」
「ふーん、ってかんじだった。興味ないんだろ。僕らが結婚したら、若菜には大学の近くに部屋を借りる。本人もそうしたがってたから、嫌がったりしないよ」
霧子はホッとしたように微笑んだ。
「結婚したら、会社に関わらせてもらえると嬉しいな。実はグッズやアパレルの企画に興味があるの」
「それは、僕からもぜひお願いしたい」
とんとん拍子に話が進むとはこのことだ。妻としても、仕事のパートナーとしても、理想的な女性と再婚できるなんて、夢のようである。
霧子はサラダをきれいに食べ終えると、ナプキンで口元を拭いた。スタッフが皿を下げるのを待っていたかのように、真剣な表情で切り出した。
「実はもう一つお願いがあるんだけど」
「なんでも言って。婚約指輪? それとも家? 今の部屋はタワマンといっても五階だし狭いんだ。もう少し広くて眺めがいいところに……」
「それは嬉しいけど」
「新婚旅行はモルディブとか行く?」
勢い込んで言うと、霧子は困惑するような表情になった。
「興味がないとは言わない。でも、私の中で贅沢ってそこまで重要じゃないの」
幸弥は反省した。年甲斐もなく浮足立ってしまった。ここは彼女の要望をしっかり受け止めなければ……。
霧子は幸弥の目を見て話し始めた。
「人生で一番大事なのは、健康だと思う。それに気づいたから野菜やハーブに興味を持つようになったの。幸弥さんに惹かれたのも、人を健康にする仕事をしているところが尊敬できたから」
何より嬉しい言葉だった。タレントを妻にするなら、贅沢三昧させなければと考えた自分の浅はかさが恥ずかしい。
スタッフがメインの皿を運んできた。湯気の立ち上るラザニアが幸弥の前に置かれる。チーズの匂いが食欲をそそった。
スタッフがテーブルから離れるのを待って、幸弥は尋ねた。
「で、お願いというのは?」
「うん……」
霧子は美しいナイフさばきで、サーモンを切り分け始めた。幸弥もラザニアにナイフを入れた。肉汁が溢れだし、見るからに美味しそうだ。早速味わってみると、牛肉の旨みが、幸福感とともに口一杯に広がった。
霧子はナイフとフォークを動かしながら続けた。
「実はずっと気になってたの。野菜作りって健康的なイメージがあるよね。なのに、菜園をプロデュースしている会社の社長が、ぽっちゃり体型なのはよくないよ。身体を絞ってシュッとしたかんじにして、身なりも整えたほうがいい」
端的に言うと、会社のイメージと社長のビジュアルが合っていないのだそうだ。
口の中のものを飲み下すと、ナイフとフォークを置いた。
幸弥は身長一七四センチ、体重七五キロだ。肥満ではないが、ぽっちゃり体型という自覚はあった。特に腹周りが。
ポタジェの菜園は、オシャレなガーデン風であり、利用者は素敵なライフスタイルや健康的な生活に憧れを持っている。なのに、社長が小太りの冴えないおっさんでは、がっかりされてしまう。霧子が言いたいのは、おそらくそういうことだ。
「ど、どうすればいい?」
霧子は笑った。
「焦らなくて大丈夫。着るものは、アドバイスさせてもらうし、結婚したら、野菜中心の食事を作ってあげる」
「頼む。霧子が頼りだ」
「任せて。ただ、ちょっと心配なんだ。服選びはともかく、ダイエットは本人にその気がないと成功しないと思う。幸弥さんが、好きなものを好きなように食べるんだ、という考えの持ち主だったら、私があれこれ言っても喧嘩になるだけじゃないかな」
「僕は霧子が作ってくれる食事に文句なんか言わない」
「だとしても、隠れて外で高カロリーのものを食べたら、太るよね。意志薄弱で痩せられない人って案外多いのよね。そういう人を山ほど見てきた」
だから、結婚を正式に決める前に、ダイエットしてほしいのだと霧子は言った。
「幸弥さんが、自分の意志でダイエットできる人だと分かったら、安心して結婚できるから」
言いたいことは分かった。筋も通っている。しかし、なんとも気が重くなるお願いである。
幸弥は食べるのが大好きだ。野菜はもちろん、肉や魚、炭水化物に揚げ物。なんでも美味しく食べられる。
とりわけ好きなのが、庶民的な中華料理店、いわゆる町中華である。都内で大学に通っていた頃からの行きつけが何軒かあり、今も仕事の合間を縫って、ふらりと訪問している。ダイエットするとなると、そういう店にも気軽に行けなくなりそうだ。
「分かった。やってみる。ちなみに、どれぐらい落とすイメージ?」
「十キロぐらいかな」
十年以上前の体重である。ますます気が重くなってきた。
「ダラダラやってもしようがないから、三か月後の十一月を期限にしましょうか」
霧子は来週から二か月半、イギリスにある医療用ハーブの研究機関に短期留学する予定になっている。自分が帰国するまでに痩せておけ、ということのようだ。
一か月で三キロ強か……。絶対に無理とまでは言えないが、簡単に達成できる数字ではない。自慢ではないが、もう何年も体重が減ったことなんかないのだ。
霧子は、サーモンを食べながら、嬉しそうに話し続けた。
幸弥が目標を達成できたら、年内に婚約を発表して、年明けに入籍しよう。結婚式は、ポタジェが手がけた菜園でガーデンパーティーがいい。会社の宣伝になるから、マスコミの取材も入れよう。新婚旅行は、お互いの仕事のスケジュールを擦り合わせる必要があるから、来年後半あたりがよさそうだ。
「そんなかんじでどう?」
「ああ、うん。もちろんOKだ」
霧子は幸せそうに微笑んだ。
「これから忙しくなりそうね。まずは、幸弥さんはダイエット、私は留学を成功させないと」