話を聞き終えると、丸山は目を閉じ、二度うなずいた。

「篠原さんのおっしゃる通りです。薬に安易に頼るのはよくないですよ」

 不眠の根本原因を取り除いたり、日中運動したり、寝る前の習慣を変えたりして、眠れるようになるのが望ましいと丸山は言った。

「何種類もの薬を使っているとしたら、さらに心配です」

 我が意を得たり。やっぱり父がやっていることは危険なのだ。医師が言うのだから間違いない。

「私はどうすれば……」

「その前にいくつか確認させてください。処方薬は二種類でしたね。お父さんは、どこで処方を受けたんでしょう」

「高血圧の治療で長年通っている先生に出してもらったそうです」

「なるほど。かかりつけ医の先生でしたか」

 睡眠薬にはいろんなタイプがあり、二種類を同時に処方するケースもあると丸山は言った。

「一つ目の薬が合わなかったから、別の薬に変えた可能性もありそうです」

「ええっと、それはどういう……」

「処方薬が二種類みつかったこと自体は、それほど不思議ではないかもしれないな、と僕は思うんです。お父さんにもう少し詳しく話を聞いてみたら、ああなるほど、そうなんだ、という具合に謎が解けるかもしれません」

 納得できなかった。

「さっき、薬に安易に頼るのはよくないっておっしゃいましたよね」

「はい。言いました。よくないです。でも、薬を使ったほうがいい場合もあるんです」

 睡眠薬を使わずに済むなら、それに越したことはない。しかし、いろんな症状の患者がいる。医師の指示のもと、最小限の薬を使うことまで「ダメ」と言ったら、それは行き過ぎだ。

 そう言うと丸山は表情を引き締めた。

「ここまでの話は、かかりつけの先生が、いい加減な人ではないのが前提ですが」

 患者の言いなりに睡眠薬を出す医師は、残念ながらゼロではない。

「その点は、大丈夫そうですか?」

 少し考えた後、うなずいた。

 かかりつけ医とは面識がない。ただ、おかしな医師ではないと思う。父は自分にも他人にも厳しい人間だ。自宅にもっと近いクリニックが他に何軒もあるのに、二十年の長きにわたって通っているのは、その医師を信頼しているからだろう。

「でも、やっぱり薬は使ってほしくないんです。認知症になるって聞いたこともありますし」

 丸山は「ほほう」と言うように唇をすぼめた。

「よくご存じですね。おっしゃる通りで、一部の睡眠薬は、長い間使うと、特に高齢者は認知症のリスクが高くなるという研究報告があります」

 あのネット情報はデマではなかったのだ。

「じゃあ、やっぱり」

 丸山は首を横に振った。

「いや、そうは言い切れないんですよ。関係ないという報告もあって、まだ結論は出ていません。そして、睡眠不足こそ認知症のリスクを高めるという報告もあるんです」

「えっ、そうなんですか?」

「そうなんですよ」

 睡眠不足が引き起こす病気は、認知症以外にもたくさんあるそうだ。たとえば、高血圧、心筋梗塞などの生活習慣病やうつ病……。職業によっては、睡眠不足が事故につながる場合もある。

「繰り返しになって申し訳ないんですが、薬は使わずに済むならそれが一番です。でも、他の方法をいくら試してもダメで、健康や生活に悪影響がでそうであれば、使ってもいいと僕は思います。もちろん、医師に指示された容量や用法をしっかり守る必要があるし、長期にわたっての服用は避けたいところです。でも、何が何でもノーというのは、ちょっと行き過ぎかもしれません」

 丸山の説明は、筋が通っているように思えた。そして反省した。睡眠薬は危険だと決めつけ、父を糾弾したのは、まずかった。薬を処分しようとしたのも、確かに行き過ぎだ。

 ――なぜ睡眠薬を使うことにしたのか。かかりつけ医はなんと言っているのか。薬以外の方法は試してみたのか?

「父とそういう話をしたらよかったんですね」

 しょんぼりしているように見えたのだろうか。丸山は慰めるような口調で言った。

「家族が大量の睡眠薬を持っていたら、誰だって驚きますよ。なんとか止めさせようと、強い態度に出てしまうのは分かります」

 そう言ってもらえると、気が楽になる。唯は丸山に頭を下げた。

「ありがとうございました。今度、時間を見つけて、父とゆっくり話してみます」

 丸山が慌てたように首を横に振った。

「あっ、いや。早急に話をしたほうが……。すみません。睡眠薬はダメだと決めつけないほうがいい、という話をしていたら、回りくどくなってしまいました」

「はあ……」

「さっき、篠原さんの話を聞いて思いました。お父さんは、強い効き目がほしくて、処方薬と市販薬を併用していたりしませんか」

 確かにその可能性はある。父は言っていた。

 ――効きが悪いから、あれこれ試しているだけだ。

「もしそうだとしたら危険です。その点は、早急に確認したほうがいいでしょう」

「父は、市販薬は気休めみたいなものだと言ってました」

「とんでもない。薬は薬です」

 市販薬は、「睡眠改善薬」と呼ばれ、一時的な不眠を改善するのが目的だ。医療機関で処方される睡眠薬と併用すると、効きすぎる恐れがあるという。

「ふらついたり、意識障害を起こしたり……。かかりつけ医の先生が知ったら、僕と同じように言うと思います」

 そうだろうなと思った。今夜、早速電話をかけたほうがいい。

「でも、分かってもらえるかどうか。年を取ったせいか、最近、やたらと頑固なんです。この前のこともあるし……」

 もはや愚痴だなと思ったが、丸山はうん、うんとうなずいた。

「年を取ると、頑固になる人は多いですよね。そういう人は、普通の人以上に、伝えかたが難しいんだよなあ。アドバイスするとしたら、まずは話を聞くこと、ですかね。傾聴というやつです」

 相手が明らかに間違っていたとしても、頭ごなしに否定したり、理詰めで説得しようとしたりしないほうがいい。反発されてしまうだけだ。

「説き伏せるんじゃなくて、相手に気づいてもらうかんじです」

 そう言われて気づいた。丸山は、唯の話を否定せずに聞いてくれた。そして、唯が何に引っかかっているのかを理解した上で、唯の誤解を解きにかかったのだ。終始穏やかな態度だし、説教臭くもないので、カチンとくることはなかった。

 丸山の真似をするのは簡単ではなさそうだ。でも、効果があるのは、確かなようだ。頑張ってみるしかない。

 そして思った。オペレーターの仕事がうまくいかないのは、自分に傾聴する姿勢がないからかもしれない。相手の話を聞きながら、マニュアルを頭に思い浮かべ、あれを言わなければ、これを言わなければと、焦ってしまう。

 ふいに厨房から蒼空が出てきた。唯は、思わず両手を口に当て、蒼空の端整な顔を凝視した。

 蒼空は涼しげな目元を強張らせた。カウンターの客が、この前、劇場でサインをした相手だと気づいたのかもしれない。嬉しいような、気まずいような……。頬がカーッと熱くなってきた。

 蒼空は、頭の手ぬぐいを取ると、丸山に声をかけた。

「買い出し行ってきますけど、なんかあります?」

「ありがとう。特にないけど」

 蒼空はうなずくと、切れ長の目で唯を見た。

「えっと、この前の……」

 唯の全身の血が沸き立った。

 覚えていてくれたのだ。裏返りそうな声を抑えて言った。

「あっ、はい。蒼空さん、このお店で働いているんですね。すごい偶然……」

 あの時伝えられなかった言葉を、と思った。しかし、その前に蒼空に遮られた。

「僕がこの店にいるって、人に言わないでください。顔ファンに押しかけられたら、丸くんや店の迷惑になるんで」

 冷たい口調だった。目に何の感情も浮かんでいないのも、なんだか怖いようだ。あの時の出来事は、今も蒼空の心に影を落としているのかもしれない。

 でも、蒼空の言う通りだ。顔ファンなんて、有難迷惑なのだ。

「分かりました。すみません。誰にも言わないようにします」

 蒼空は無言でうなずいた。唯の背後を通って、店から出て行く。グラスの底に残っていたアイスコーヒーを飲んでいると、丸山が言った。

「蒼空くんと知り合いなんですね。もしかして演劇ファンですか?」

「ええ、まあ」

 丸山は分別臭い顔をした。

「今日の蒼空くん、なんだか、かんじが悪かったですね。公演が終わってから、様子がおかしいんだよなあ。でも、それは蒼空くんの問題です。篠原さんは、気にしないでください。そして、いつでも僕のカフェタイムに来てください。もしよかったら、僕がお父さんと話してもいいし」

「えっ、いいんですか?」

「お父さんをここに連れて来てもらえば、話が早いですね。僕がお父さんの自宅を訪問することもできます。ただ、その場合、個別相談扱いになるので、一時間一万円いただきます」

 一万円か。一日半のパート代が飛んでしまう。でも、いざというときはそういう方法もあるのだと分かったら、少し気が楽になった。

 蒼空に冷淡な対応をされたのは悲しいけど、お医者くんに会えて、本当によかった。

「またぜひお願いします」と言うと、丸山は嬉しそうに笑った。

 

 その夜も光男は帰りが遅かった。いつものように一人で夕食をすませると、唯は父に電話をかけるために、寝室へ行った。長い電話になるかもしれない。その間に光男が帰宅したら、面倒くさい。

 あれこれ指図はしない。父に話をしてもらうのだ。

 そう決めて電話をかけたのだが、その作戦は通用しないとすぐに分かった。父が話をしようとしないのだ。ならばと思って、質問をして話を引き出そうとしてみたが、父はまったく乗ってこない。スマホのスピーカーから聞こえてくる声は、次第に苛立っていった。

「眠れない原因? 何度も言わせるな。中途覚醒が多かったり、レム睡眠が短かったりして、睡眠の質が悪いから、薬を飲んでいるんだ。処方薬は、先生に言われた通りに使ってる。処方薬と市販薬を一緒に使ったりもしていない」

 丸山の淡々としているような、ノホホンとしているような、独特のしゃべり方を思い出して、真似をしてみた。

「なるほど。そうなんだね。薬以外の方法も試してみたら? 寝る前にスマホを触らないとか、適度に運動をするとか」

「そんなものは、とっくに試したと言っただろう。それでもダメだったから、薬を処方してもらったんだ。効きがあまりよくないみたいだから、自分なりにあれこれ試して、どういう薬が自分に合うのか、調べてる」

「どんな薬が合うか決めるのは、お父さんじゃなくて、お医者さんの仕事じゃないかな」

 いきなり舌打ちが聞こえてきた。

「ああ、もううるさい」

 通話は突然切れてしまった。

 唯はスマホをベッドに投げ出すと、後ろにバタンと倒れた。ベッドに仰向けに寝転がり、天井を眺める。

 父は、処方薬の用法や用量は守っており、処方薬と市販薬の併用はしていないと言っていた。それが本当ならば、そこまで心配する必要はないのかもしれない。

 でも、やっぱり気になる。なんであれこれ薬を試す必要があるのか分からない。自分の身体を使って人体実験のような真似をして、何になるというのだ。

 そして、父と話をしているうちに、もう一つ問題があることに気づいた。

 離婚したら、実家で父と住むつもりだった。でも、父があんな調子では、同居がうまくいくとは思えない。

 父に何かあったら、面倒を見るつもりだ。でも、父が元気なうちは、離れて暮らしたほうが、お互いのためにいいのではないだろうか。

 とはいえ、一人暮らしをするとなると、出費がかさむ。収入がいい仕事をみつけないと、暮らしていけないかもしれない。そんな仕事が見つかるのだろうか……。

 そういえば、財産分与でいくらぐらいもらえるのだろう。五年前の浮気の慰謝料は、今からでも請求できるのだろうか。

 あれこれ考えていると、自分でもびっくりするほど大きなため息が漏れた。

 捕らぬ狸の皮算用をするのは止そう。明日はパートがないから、ハローワークに行ってみようか。

 玄関のドアが開く音が聞こえた。光男が帰って来たのだろう。寝室にしている自分の書斎や、洗面所を出入りする足音が聞こえていたかと思うと、寝室のドアがノックされた。

「食べるもの、何もないの?」

 珍しく外で食事をしてこなかったようだ。でも、突然言われても困る。

 ドア越しに返事をした。

「家で食べると思わなかったから」

 光男は無言だった。寝室の前から立ち去る気配がしたかと思うと、しばらくして、玄関のドアが開く音がした。近所の店で食べてくるか、コンビニに弁当を買いに行くのだろう。

 唯は身体を反転させ、枕に顔をうずめた。

 この一年間、自分の支えになってくれたのは蒼空だった。蒼空の写真や動画を見ていると、心が落ち着いた。

 調子に乗って、蒼空の後をつけるのではなかった。推しは別世界の住人のままのほうがいいのだ。

 唯はスマホを手に取った。もう自分には、佑馬しかいない。

 ――元気にしてる? 久しぶりに顔を見せてほしいな。

 メッセージを送ると、珍しくすぐに既読がついた。レスも来た。

 ――ごめん。授業とバイトで忙しい。

 いつの間にか、息を止めていた。大きく息を吐きながら、おかしいなと思った。

 息が苦しいのは、酸素が足りないからではないか。なのに、なんで息を吸わずに、吐くんだろう。

 でも、世の中なんて、おかしいことだらけだ。自分は家族のために身を粉にして動き回った。なのに、夫に浮気され、父親には疎んじられている。息子にも、気にかけてもらえない。

 唯はスマホを再びベッドに投げ出した。

 たぶん、今夜も眠れない。たぶん、明日の夜も……。

 いっそのこと、医療機関を受診して、睡眠薬を処方してもらおうか。スーッと眠れたら、どんなに楽になれるだろう。

 それがきっかけで、負のスパイラルから抜け出せたら、それでいいような気もする。

 でも、やっぱり睡眠薬は怖い。できるだけ使わないほうがいいのだ。

 とりあえず、一つ一つ問題を解決していこう。そうすれば、いつかきっと健やかに眠れる日が来る。そう信じるしかない。

 まずは、父の睡眠薬問題だなと思ったら、瞼の裏に丸山の顔が浮かんだ。

 ――いつでも僕のカフェタイムに来てください。

 あの店には蒼空がいるからハードルがやや高い。でも、今の自分には、お医者くんの助けが必要だ。

 

(第20回につづく)