翌日の日曜日、幸弥は仕事の予定をキャンセルした。昨年開設した信濃町のオフィスビルの屋上菜園の様子を見に行く予定だったが、担当者に任せることにしたのだ。

 昨夜買っておいたコンビニのおにぎり二つとインスタント味噌汁で朝食をすませ、リビングルームにダスターと掃除をかけた。

 ソファに座って新聞を読みながら一息ついていると、若菜が起きだしてきた。パジャマ姿である。

 明るい色の髪に寝癖がつきまくっているが、顔を見てほっとした。すっぴんでも、ぜんぜんきれいだ。いや、むしろすっぴんのほうがいい。

 若菜の目は、幸弥に似て切れ長だが、元妻の彫りの深い骨格を受け継いでいる。浅黒い肌も滑らかだった。いったいこの顔のどこをいじる必要があるというのか。

「あと四十五分で来るよ。さっさと支度をして」

 顔を洗い、髪を整えて洗面所から戻ってきた若菜は、いったん自室に戻って、Tシャツとデニムに着替えてきた。冷蔵庫から豆乳のブリックパックを取り出して、立ったまま飲んだ。空のパックをゴミ箱に捨てると、リンゴを取り出し、皮をむき始める。

 彼女の朝食はだいたいそんなものだ。それでよく昼までお腹が持つものだと感心する。そして羨ましい。

 ダイニングテーブルに着席して、皮をむいたリンゴを丸かじりしながら、若菜は言った。

「そのお医者さんのクリニックに行くんだと思ってた。なんでウチに来るの?」

「クリニックじゃなくて、カフェの人なんだ。そのカフェでは、医療にまつわる相談ができる。今回は、若菜もいるから、個別相談を申し込んだんだ。場所は、どこでも構わないと言うから、家に来てもらうことにした」

「カフェの人でも、お医者さんではあるんだよね?」

「それは間違いない」

 念のために、ネットで丸山のフルネームを検索してみたのだ。

 医師の資格を持っているのは、同姓同名の人間がいないのが前提ではあるが、厚生労働省のサイトで確認できた。この春まで、東中野にあり、有名医療法人が経営しているクリニックの院長だったのも分かった。

 昨日、カフェで話をして、変わっている人物だと思った。要領が悪くて、どんくさいところもある。幸弥と意見が合うとも言い難いが、誠実な人柄ではありそうだった。

 そして、何より大事なのは、彼が肥満治療薬の美容目的の使用、平たく言えば、「痩せ薬」に批判的だったことだ。

 若菜も言っていたように、「痩せ薬」は美容整形と似たり寄ったりだろう。

 

 ダイニングテーブルに、お茶のペットボトルを並べていると、チャイムが鳴った。自室にこもっている若菜に、部屋から出てくるように声をかける。

 インターフォンのカメラの映像を確認すると、緊張した様子の丸山が映っていた。

 エレベーターで上がってきてもらい、部屋に通して、ダイニングテーブルに案内した。今日の丸山は、襟付きのストライプのシャツにコットンパンツだ。シャツはストライプの色こそ若干違うが、幸弥が着ているものとそっくりだった。

 丸山は遠慮がちに部屋を眺めまわした。

「すみません。タワマンの中に入るのは初めてなんです」

「タワマンといっても、ウチは五階だから。2LDKで特に広くもないし」

「二人暮らしなら、十分でしょう。交通の便もよさそうだし、いいところです」

 若菜はまだ部屋にこもったままだ。声をかけようとしたが、その前に中から開いた。

 部屋から出てきた若菜を見て、少し驚いた。いつもの珍妙な、いや、イマ風の化粧をしていなかったのだ。髪はいつもの色だし、ネイルはテントウムシのままではあるが……。

 若菜は丸山に会釈をすると、幸弥の隣にそっと座った。

「ええっと、今日は若菜さんの美容整形についての相談ですね」

 幸弥はうなずいた。

「そうなんです。メスを入れるとなると、リスクを伴うはずです。リスクを取ってまで、必要のない手術をすることはないんじゃないか。僕としてはそう思うんですが」

 横目で若菜の様子をうかがった。無表情で視線を落としている。

 幸弥は丸山に向き直った。

「丸山先生の見解を聞かせてください」

 丸山は眉尻を下げると、手を顔の前でヒラヒラと振った。

「先生は困ります。ここは診察室ではないし、あくまで相談に乗るだけなので、丸くん、でお願いします」

 若菜が身体を硬直させたかと思うと、顔を上げた。眉を寄せ、珍しい動物でも見るような視線を丸山に向けている。

 丸山は気にする様子もなく、若菜に微笑みかけた。

「美容整形ですか。新木さんがおっしゃるように、もちろんリスクはあります。でも、一概にダメとは言えないと思うんですよね」

「えっ」

 幸弥は面食らった。

 事前に打ち合わせをしたわけではないので、話が違うとは言えない。しかし、完全に当てがはずれた。もっと言えば、裏切られたような気分である。

 若菜も意外だったようだ。真剣なまなざしで丸山の話に耳を傾けている。

「問題は、リスクとメリットをどう考えるかです。あと、受ける手術の内容によっても、リスクは変わってきます」

 たとえば、顔面の骨を削って骨格を変えるような手術は、難易度が高く、リスクも高い。糸で留めて二重まぶたを作るのは、比較的簡単な施術とされている。

「もちろん、簡単であっても、リスクがないわけではありません。あと、美容医療は、医師の技量の差が大きいようです。値段が安いからといって飛びついたり、誇大広告に騙されないよう、細心の注意を払ってください」

 幸弥の脈が速くなってきた。

 今のは、ただの一般論だろう。そんなものを聞きたくて、わざわざ来てもらったわけではない。

 丸山はのんびりとした口調で続けた。

「ちなみに、どこでどんな手術を受けたいのか、決まっていますか?」

 若菜はかすかに首を横に振った。

「いえ。クリニック選びはこれからです。よさそうなところを見つけたら、そこで相談して決めようと思ってます。費用も貯めなきゃならないし」

 丸山は、うん、うんと二度うなずいた。

「なるほど、そうでしたか。それなら、まだ時間はありますね。では、費用を貯めている間に、真剣に考えてください。本当にその手術が自分にとって必要なのか、リスクを取る価値があるのか……。あれこれ調べて、いろんな人の話を聞いてください。知り合いに話しづらければ、美容医療とは無関係のカウンセラーと話してみるのも、いいと思いますよ。東中野にある僕のカフェにも、ぜひ来てください。何か疑問があったら、一緒に調べましょう。話も聞きます。人に話すことで、自分の考えがまとまることってあると思うんですよ」

 若菜は真剣な表情でうなずいていたが、もう黙っていられない。幸弥は口を開いた。

「ちょっと待ってください。美容整形は、医療上必要ではないですよね。そのためにリスクを取るのは違うんじゃないか。先生ならそう言うと……」

「丸くんです」

 生真面目な顔で言われ、頭に血が上る。子どもじゃあるまいし、何が丸くんだ。

「あんたなら、そう言うと思ってたんだ。なのに、いったいなんなんですか。綺麗ごとや一般論をズラズラ並べ立てて……」

「ちょっとお父さん……」

 非難がましい目で若菜に言われ、幸弥は口をつぐんだ。

 丸山は悲しそうに目を瞬いた。

「言いたいことは分かります。でも、昨日、新木さんと話していて分かったんです。反省もしました。本人が内心、その気になっているのに、理屈で反対するのはよくないようですね。新木さんは、僕が理屈で反対すればするほど、頑なになっていったというか、攻撃的になっていったというか……」

 幸弥は唇を噛んだ。心当たりがおおいにあった。

「昨日言ったように、美容目的で肥満治療薬を使うことに僕は反対です。くどいようですが、学会や医師会なんかも異議を唱えています。副作用で苦しんでいる人がいるという話も小耳にします。でも、使ってよかったと思っている人も世の中にはいるかもしれません。違法でもない。なのに、ダメだ、止めておけと言って、相手を従わせようとしても、難しいんだと思います」

 それより、なぜそうしたいのか、リスクを取る価値があるのか、を本人にとことん考えてもらいたい。広告や口コミに惑わされず、多角的に情報を集め、そのうえで判断してもらいたい。

「そのプロセスをサポートするのが、僕の役目だと思いました」

 丸山は淡々と続けた。

「自己責任って、なんでしょうね……。みんなサラッと言うけど、引っかかります。知識や情報が十分ではない人に、自己責任でお願いしますだなんて……。言う側が責任逃れをしているように思えます。僕が難しく考えすぎているのかなあ」

 幸弥は言葉もなかった。自分は丸山を侮っていたのかもしれない。

 若菜が居心地悪そうに、身じろぎをした。丸山もそれに気づいたのだろう。若菜に笑みを向けた。

「一つ気になっていたんだ。若菜さんは、メイクはしないの?」

「しますよ。外に行くときには」

「でも今はノーメイクだよね」

「外じゃないんで」

 外ではないが、他人である丸山の前である。おっさんに素顔を見られてもなんとも思わない、ということだろうか。

 丸山も同じような疑問を持っているようだ。重ねて尋ねた。

「自分の顔が嫌いなわけではない?」

「それはまあ……。だって、自分の顔ですよね。いいも悪いもないというか」

「じゃあ、なんで整形したいんだろう」

 若菜の顔から表情が消えた。丸山が慌てた様子で、頭を何度も下げた。

「言いたくなかったらいいです。分からなかったら、これから考えればいいんだし。すみません、心理カウンセラーでもないのに、立ち入ったことを聞いてしまいました。完全に僕の勇み足です」

 若菜の肩からふっと力が抜けるのが分かった。

「メイクがめんどくさいんです。でも、ブスとかダサいとか言われるのはムカつくから。すっぴんでかわいくなれたら、人生楽になると思って」

 そんな理由で……。

 脱力する思いだったが、次の瞬間、幸弥の全身を怒りが駆け巡った。

 ウチの娘をブス呼ばわりしたのは、どこのどいつだ。絶対に許さない。

 幸弥は若菜に向き直った。

「今もそんなことを言うやつがいるのか?」

 幸弥の声は震えていた。目の奥が熱い。若菜が驚いたように身体を引く。若菜の肩を掴むと、幸弥は言った。

「大学の同級生か? バイト先のやつか?」

 殴ってやる。それが無理なら、せめて一言言ってやる。ブスはお前のほうだと。人の娘をなんだと思っているのだ。

 いつの間にか、全身が震えていた。歯の根が合わない。涙も流れ出す。

「あ、新木さん?」

「お父さん、落ち着いて!」

 二人に言われても怒りは収まらなかった。怒りは次第に悲しみに変わった。脈が静かになっていく。

 幸弥は充血した目で娘を見た。

「丸山先生が言うように、整形するかどうかは、若菜が決めることなんだろう。でも、これだけは言わせてほしい。必要のないリスクはとってほしくない。健康を大事にしてほしい。そして、自分が思うように生きてほしい。周りの人間の勝手な声に耳を貸すな。人の意見は聞いても、流されるな」

 若菜が目を見開き、唾を飲み込むように喉を動かした。

 ――僕はそうやって生きてきた。

 そう言葉を継ごうとした次の瞬間、幸弥は「あっ」と声を出していた。

 若菜に向けて放った言葉が、そっくりそのまま自分に返ってきたのだ。

 自分は健康上、痩せる必要はないのだった。

 肥満治療薬の使用を検討していることを霧子は知らない。しかし、十キロも減らしたら標準体重を下回り、健康によくないと伝えたのに、取り合ってもらえなかった。

 霧子の声に耳を貸してはいけない。

 そう言えば、彼女は会社にも関与したいと言っていた。食事を管理され、会社にも口を出され……。体形がシュッとしたら、窮屈な洋服を着せられ、素敵なレストランでフランチャナントカを飲まされるんだろう。

 そんな将来が脳裏に浮かび、背中がぞくっとした。

 オシャレなガーデン風菜園をプロデュースしているが、オシャレな人間になりたいわけではないのだ。

 霧子との結婚は考え直したほうがよさそうだ。幸せになれるイメージがもはや湧かなかった。ささやかな楽しみである町中華巡りだって、きっと禁じられてしまう。

 幸弥は若菜に宣言した。

「僕は痩せ薬は使わない。健康上、必要ないからリスクは取らない」

 丸山が目を丸くした。

「えっ、そうなんですか?」

「はい。それより若菜をよろしくお願いします。相談に乗ってやってください」

 若菜は困ったような表情だったが、目を伏せると、神妙な顔つきで丸山に頭を下げた。

 

(第17回につづく)