5章 長い夜
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アンコールに応え、舞台に再登場した俳優たちが、一列に並んで観客席に向かって手を振っている。篠原唯は手を叩きながら、列の左端にいる「推し」の俳優に熱い視線を送った。
しなやかそうな長身に、涼しげな目元。陶器のような肌は清潔感に溢れている。
百人超の観客が手を叩く音が、場内の空気を震わせていた。高揚感がいよいよ膨らんでいく。唯は息をするのも忘れて、拍手を続けた。
中肉中背、どこにでもいそうなおばさんで、二十歳の息子もいる自分が、若い俳優に夢中になるなんて、年甲斐もないと思う。でも、彼のいない人生は、考えられなかった。
場内のボルテージが最高潮に達したところで、俳優たちは一斉に礼をした。次の瞬間、舞台の袖へ小走りに消えていった。まさに風のようだった。
場内アナウンスが、公演の終わりを告げ、夢から現実に引き戻された。観客たちは、満足と物足りなさが入り混じったため息を吐き、三々五々席を立ち始めた。
唯も大きく息を吐いた。頭の芯がしびれるように重かった。唯は慢性の不眠症である。寝つきが悪く、夜が白んでくるまで寝られないことが週に何度かある。ここ数日、興奮のせいか、毎日ほとんど眠れない。でも、これからが本番だ。シャキッとしなければ。
足元に置いてあったトートバッグを手に取ると、席を立ち、他の観客たちと一緒に、ロビーへ向かった。
ロビーは人でごった返していた。出口へと急ぐ人、物販ブースで公演のパンフレットやTシャツを買おうとしている人。トイレの入り口には列ができている。
唯は、通行の妨げにならなさそうな場所に、そっと移動して足を止めた。推しの出待ちをするなんて、四十五年の人生で初めてである。人いきれと緊張のせいか、いつの間にか、脈が速くなっている。
ロビーの混雑が収まるにつれて、自分と同じように出待ちをしている人たちが目につくようになった。推しに話しかけるのはハードルが高い。誰かの後ろにくっついていこう。
トートバッグの中をのぞき、大手コーヒーショップの紙袋がヨレヨレになっていないのを確認した。紙袋には、メッセージつきのコーヒーギフトカードが入っている。おばさんファンにもらっても迷惑でないものは何だろうと、一生懸命考えて用意してきた。
うまく渡せるといいのだけれど……。
唯は胸を高鳴らせながら、関係者用の入り口から人が出てくるのを待った。
推しの名前は、鈴木蒼空。初めて見かけたのは半年ほど前である。
その日、唯はパートの仕事を終えて、職場から東中野の駅へ向かっていた。大通り沿いにある小劇場の前で、チラシを配っていた。ずいぶん背が高い人だなと思って何気なく顔を見たら、美しさに息を呑んだ。目鼻立ちが整っているのはもちろん、まなざしの深さが尋常ではなかった。「持っている」とはこのことだと思った。
帰りの電車の中で、もらったチラシをじっくり読んだ。近々、その劇場で、某劇団の公演があるそうだ。劇団のホームページをネットで検索してみたら、「団員紹介」のページに、さっきの若者の写真があった。
公演に行ってみようと思った。チケットはそんなに高くなかったし、演劇は門外漢でもなかった。百貨店に勤務していた独身時代、演劇好きの同僚への付き合いで、仕事帰りによく舞台を見に行っていたのだ。それに、自分には気晴らしが必要だ。
公演の日、期待に胸を膨らませて劇場に出かけたが、少しがっかりした。芝居の内容自体は前衛的すぎず、唯の好みだったが、蒼空がほとんど出てこなかったのだ。チラシに記載された出演者情報から、主演級ではないと想像はついていたが、台詞が二つしかないとは。
ただ、唯の目から見ても、蒼空の演技には違和感があった。背が高いせいもありそうだが、スポットライトが当たっていないときにも、妙に目につくのだ。舞台上の世界になじんでいない。あれでは、使いづらいと思う。
でも、彼は若い。経験を積めば、きっと頭角を現わすはずだ。その日を夢見て、彼を応援しようと決めた。
蒼空が所属する劇団の公演は、春と秋の年に二回である。生の舞台を見たのは今日で二度目だが、過去の公演は、ネットのアーカイブ配信で全部見た。劇団のSNSアカウントも、毎日チェックしている。写真や動画の中に、蒼空の姿を見つけると、自分でもびっくりするほど、幸せな気分になれた。
推し活をすると、いわゆる「幸せホルモン」が分泌され、ストレスが緩和されるそうだ。ご利益もあった。蒼空を応援するようになってから、悩みの種だった不眠も、少しよくなったのだ。
そんなわけで、今日は、精いっぱい感謝の気持ちを伝えたい。
ロビーから次第に人が捌けてきた。関係者用の出入り口が開き、主演男優が出てくる。四十歳前後の演技派で、脚本と演出も担当している。知り合いと思われる人たちと親しげに言葉を交わし、差し入れを受け取っている。それを販売ブースにいたスタッフに預けると、遠巻きにしていたファンたちに笑顔を向けた。
「よかったらサイン、しましょうか」
歓声が上がり、彼の周りに人だかりができた。
関係者用の出入り口が開き、準主演級の女優が出てきた。彼女の周りにもすぐにファンの列ができた。
その様子を見ながら、不安になってきた。ひょっとすると、ロビーに出てくるのは主演級の俳優だけなのだろうか。
周りを見回すと、他にも手持無沙汰にしている人たちがいた。
――蒼空くんが来ますように。
心の中で祈っていると、関係者用の出入り口とは反対側の通用口から、劇団のTシャツを着て短パンをはいた長身の男性が現れた。段ボール箱を抱え、頭には、和柄の手ぬぐいをかぶっている。蒼空だ。
唯の心臓が大きく動いた。
蒼空は物販ブースに立っていたスタッフに声をかけると、段ボール箱を床に置いた。テーブルの上のTシャツやパンフレットを片づけ始める。
他の客も、蒼空の存在に気づいたようだ。皆、しばらくの間、遠巻きにして様子をうかがっていたが、一人が彼に歩み寄ると、我先に彼の周りに集まった。年齢は様々だったが、全員が女性である。唯もいそいそと輪に加わった。
女性の一人が蒼空にペンとパンフレットを差出し、サインを無心した。蒼空は、「いや、僕は……」と言って断ろうとしたが、自分の周りに十人ほどの輪ができているのを見て、押し問答をするのもどうかと思ったのだろう。ペンを受け取り、サインを書き始めた。いくつものスマホのカメラが長身に向けられる。
差し入れを持参しているファンもいた。蒼空は恐縮した様子でそれを受け取ると、テーブルの空きスペースに無造作に置いていった。
ようやく唯の番が来た。パンフレットにサインをしてもらい、差し入れをバッグから取り出そうとしたときだ。背後から声がした。
「蒼空! お前、すごいなあ。舞台に上がってた時間より、ファンサービスの時間が長い役者なんて、聞いたことないぞ」
蒼空の表情が険しくなった。
唯はいたたまれない気持ちで、振り返った。主演男優が、からかうような笑みを浮かべて立っていた。唯たちを見回しながら、笑いが混じった口調で続ける。
「SNSの閲覧数も、蒼空が動画や写真に出てると、グンと上がるんです。たぶん皆さんのおかげですよね。おまけに、チケットまで買っていただいて。僕らのような弱小劇団にとって、顔ファンほどありがたいものはないな」
顔ファン……。タレントやスポーツ選手のパフォーマンスではなく、容姿に惹かれ、応援するファンを指す言葉である。
不穏な気配に気づいたのだろうか。準主演の女優が小走りでやってきて、主演男優をたしなめる。
「お客さんに失礼でしょ」
女優は、唯たちに愛想よく笑いかけた。
「皆さん、ごめんなさいね。蒼空くん、頑張ってるので、これからも応援よろしくお願いします」
蒼空は蒼白な顔でうつむいている。凍りついた空気を溶かすのは難しいと思ったのだろう。その女優は、男優を促して、そそくさと関係者出入り口へと向かった。
蒼空は唇を引き結び、彼を取り囲んでいる女性たちに一礼した。「すみません」と小声で言うと、物販ブースの片づけを再開した。
唯を含め、その場にいる全員が、彼にかける言葉を探しているようだった。しかし、Tシャツに包まれた蒼空の背中は、どんな言葉も拒絶していた。
二人連れの若い女性が、顔を見合わせ、そっとつぶやいた。
「行こっか」
そうしたほうがよさそうだ。一番の目的だった感謝の言葉は伝えられなかった。
――いつも勇気をもらってます。ありがとうございます。応援しています。
心の中で告げ、蒼空の背中に頭を下げると、唯は踵を返した。