4
翌々日の日曜日、祥子は昼食を自宅で済ませると、カミナーレへ向かった。一昨日パスタを食べ終えた後、なるべく早く個別相談をお願いしたいと水島に頼んだところ、その場で丸山と連絡を取ってくれたのだ。
場所を指定するように言われたが、1Kの自宅に来てもらうわけにもいかないので、日曜が定休日のカミナーレを使わせてもらうことにした。
約束の時間に店へ行くと、丸山はすでに来ていた。
「お待ちしていました。さあ、中へどうぞ」
奥のテーブル席で話すつもりのようだ。お茶のペットボトルが二本、そして丸山のものと思しきノートが置いてあった。
今日の丸山は、ベージュのポロシャツに薄いカーキ色のコットンパンツをはいていた。どちらもゆったりしているせいか、砂の国の人のように見えた。
テーブル席で向かい合うと、丸山はタオル地のハンカチで額の汗を拭った。
「個別相談は今日が初めてなんです。ちょっと、緊張してるかもしれません」
丸山はリラックスしたいのか、肩と首を同時に回した。どちらか一方ならともかく、両方だと動きがカオスだ。でも、嫌な態度を取られるよりはよほどいい。ようやく動きを止めると、丸山はノートを開いた。
「ええっと、大場祥子さん。心因性の頻尿で、困っているんでしたね。その後、ジムには行き始めましたか?」
「はい。週に三回、軽い筋トレとマシンでウォーキングをしています。骨盤底筋をターゲットにしたヨガのクラスには、時間が合わなくて行けていないんですが」
「いいペースだと思いますよ」
「でも、頻尿は改善しません。膀胱トレーニングも、挑戦はしていますが、うまくいっているとは言えなくて……」
丸山は、うん、と一度だけうなずいた。
「それで次の一手を、というわけですね」
「はい。できるだけ早く治したいんです」
「何か事情があったりします?」
祥子は説明を始めた。
勤めている会社が、社長をトップとする調査チームを作って、アメリカ市場を視察に行くことになった。直属の上司の推しがあり、自分もチームのメンバーに抜擢された。
チャンスだと思っている。でも、トイレの問題が気になって、「行きます」と言えずにいる。
「私がチームで最年少だと思います。飛行機に乗るとき、通路側に座りたいとは言えないし、私のトイレタイムで皆さんを待たせるわけにもいかないと思ってて。膀胱トレーニングや運動は続けますが、それだけでよくなる気がしないんです。でも、出張にはどうしても行きたくて、藁にもすがる思いでここに来ました」
丸山が、自信なさそうに目を瞬いた。
「お役に立てればいいんですが……」
頼りない。でも、ここはもう、グイグイ行くしかない。自分としては、二つ方法があると思っていると説明する。
「一つはこの前、丸山先生が」
丸山が「ストップ」と言いながら手を上げた。
「丸くんでお願いします」
苛々しながら言い直した。
「丸くんがおっしゃっていた過活動膀胱の薬を出してもらうことです」
ゴマ塩あごひげのクリニックには行きたくない。かといって、他の医療機関に行って一から検査をしていたら、薬の処方が間に合わないかもしれない。
「サクッと検査して、サクッと薬を出してくれる泌尿器科ってないでしょうか」
丸山は弓形の眉を寄せた。腕組みをすると、ため息をついた。
「いやあ、そう言われても。どんな薬をどのタイミングで出すかは、あくまでもその先生の判断なんですよねえ。ただ、サクッと、につながるかもしれない技は教えます。明日にでも検査を受けたクリニックに、診療記録の開示を請求してください」
「診療記録の開示?」
「診療したときの記録、つまりそのクリニックで受けた検査の結果なんかをもらうんです。それを次にかかる医療機関に持参すれば、もう一度同じ検査を受けなくてもよくなる」
「そんなことができるんですか?」
医療機関は、患者から要求があったら、本人の診療記録を開示する義務があるのだと丸山は言った。
「受付に言えば用意してくれると思います。その際、どの程度日数がかかるかも確認してください。一週間以上かかりそうなら、次の医療機関を受診してしまったほうが、結果的に話が早く進むかもしれません。同じ症状で、何軒もの医療機関をはしごして同じ検査を受けるのは、本当はよくないんですけど」
いわゆる「ドクターショッピング」に当たり、国の医療費の増大につながるという。
なんだか申し訳ない気がしたが、丸山はのんびりと言った。
「まあ、そうは言っても、最初の先生は相性が最悪だったわけですよね。だったら、しかたありません。それに、人生の一大事なんですよね。行っちゃってください。ただ、僕にそそのかされたと他言しないでもらったほうがいいかな」
「分かりました」
「それと、僕の知り合いの泌尿器科の女医さんを紹介しましょう。話が分かる人です。ただ、薬を出す、出さないは、あくまでその先生の判断です。希望通りになるとは限らないことは、ご承知おきください」
不満だった。しかし、ここは納得するしかないだろう。よろしくお願いします、と頭を下げる。
「祥子さんは、もう一つ、方法を考えたんですよね」
「はい。心療内科で不安を抑える薬をもらったら、どうかと思って。ストレスと頻尿は、卵と鶏の関係だ、なんて理屈をこねてる場合じゃないので。ただ、薬は怖いような気もして、迷っているんです」
不安を過大申告すれば、確実に薬をもらえるだろう、という自分の考えは胸にしまっておくことにする。
丸山は腕を組んだ。
「うーん、薬が怖いと言う人、結構いますよね。医師の指示を守って服用すれば、そこまで怖いものではないんだけど、イメージの問題かなあ。まあ、怖いという気持ちがあるなら、カウンセリングを受けたほうがいいかもしれませんね」
「いや、でもそれでは出張に間に合わないので」
「ああ、そうか。そうでした。でも、今回はともかく、中長期的にみたら、根本的な原因にアプローチするのがいいと思うんですよ」
祥子はテーブルの下で拳を握りしめた。自分には時間がないのだ。そんな話を聞きたいわけではない。
丸山はペットボトルを開けると、水を飲んだ。
「一つ、気になっていたんです。頻尿に悩まされるようになったのは、半年ほど前からだと言ってましたよね。きっかけとなる出来事があったりしませんか?」
祥子は思わず目を見開いた。口の中が急速に渇いていく。
心当たりはおおいにあった。
去年の秋、大学時代に吹奏楽サークルで一緒だった友だちが、五対五の合コンに誘ってくれた。合コンなんて久しぶりだったから、新しい服を買って臨んだ。
相手の男性たちは、どの人もまあまあいいかんじだった。まあまあいいかんじの人たちが、あれこれ話しかけてくれるものだから、緊張してしまい、ドリンクを早いペースでお代わりした。
それが悪かったのだろう。トイレに行きたくなった。
あいにく、祥子の席は奥まった場所にあった。手前にいる四人の人にどいてもらわないと、トイレに行けない。
「ちょっと通して」と言えば、皆、立ってくれるはずだ。でも、言えなかった。隣にいる友だちが、その一つ向こうの席にいる男性に一生懸命、話しかけていたからだ。大人しいタイプの彼女には珍しいことだった。しかも、わりといい雰囲気だった。
子どもがほしい、早く結婚したい。
その友だちはいつもそう言っていた。彼女の邪魔をしたくなかった。
しかし、ついに我慢は限界に達した。勇気を出して立ち上がったら、尿意が一段と強烈になった。
四人は次々と立って道を開けてくれた。しかし、酔いが回っているせいか、動作がのろい男性がいた。彼を押しのけるようにして、小走りでトイレに向かおうとしたところ、今度は料理を運んでいるスタッフとぶつかってしまった。
それから先のことは思い出したくない。トイレになんとか間に合ったことだけが救いだ。気まずくて、合コンに参加した友だちとも疎遠になってしまった。
祥子は首を横に振った。
「言いたくありません」
うん、うん、と丸山はうなずくと、自分からも一つ提案があると言った。
「無理に薬を手に入れようとするより、現実的なんじゃないかな、と僕としては思うんですが」
そう言うと、ノートに文字を書きつけた。ノートをひっくり返し、祥子が見えるように置く。
――Nature is calling
「このフレーズ、聞いたことはありますか?」
「いえ」
自然が呼んでいる。英語圏の人が「トイレに行きたい」と婉曲に言う際に使われる表現だと丸山は言った。
「今日、祥子さんの話を聞いていて思いました。出張の最中に同行者の方たちに迷惑をかけることを心配しすぎでは?」
「えっ」
「確かに、迷惑と感じる人はいるかもしれません。でも、自然に呼ばれてるんですよ? しかたないんじゃないでしょうか」
「しかたない……」
「自然に呼ばれたら、行くしかありません。周りの人に、事情を話して助けてもらえばいいんですよ」
飛行機の座席は、通路側を希望すればいい。現地には、視察ルートをアレンジしてくれる人がいるはずだ。その人に、行程中のトイレタイムをしっかりとってほしいと要望してみたらどうだろう。なんなら、自ら手を挙げて、行程のアレンジを担当したらいい。
「トイレに行きたくなるのは、トイレに行けなかったらどうしようという不安があるからかもしれません。安心できれば、不安は軽減するんじゃないでしょうか」
「はあ……」
「恥ずかしいことはないです。それに、トイレタイムへのきめ細かい配慮は案外歓迎されると思いますよ。初老の男性は頻尿の人が多いんです」
そうなのか。
「いや、でもそういうわけには……」
「どうしてですか?」
相手の迷惑になるから、と言いかけて、言葉を飲み込んだ。
確かに自分は、丸山が指摘するように、周りの人に迷惑をかけることを心配しすぎなのかもしれない。子どもの頃から、周りに迷惑をかけないように。そう心がけて生きてきた。
吹奏楽を始めたとき、重くて女子には向かないとされるチューバをあえて選んだのは、派手なパートがなく、ミスをしても目立ちにくいと考えたからだ。本当は、フルートがやりたかったけど、音をはずして悪目立ちするのが怖かった。
会社に入ったとき、希望したのは総務部だった。当時は会社のことなんか何も分かっておらず、総務が一番地味な部署だと思い込んでいたのだ。
商品企画部に配属されたのは、「商品企画部に女性がいないのはけしからん。新人を配属しろ」という海野社長の鶴の一声のせいだ。商学部出身で経理のスペシャリストを目指していた美紀と祥子の二択で祥子が選ばれた。
そういえば商品企画の仕事でも、最初の頃は「周りに迷惑をかけない」を意識していた。新たに調達する必要がある食材は使わないようにしたり、スーパーの棚に並べやすい形状のパッケージを採用しようとしたり。
企画はまったく採用されなかった。落ち込んでいたとき、「なんでこの会社に入ったの?」と聞いてくれた先輩がいた。
それからは「食べる人が喜ぶ」を最優先に考えるようになった。そして、ヒット商品も出せるようになった。にもかかわらず、仕事以外ではいまだに「迷惑をかけない」という考えに、自分はとらわれているのかもしれない。
そしてあの合コンだ。「心因性」の正体が見えてきたような気がした。でも、やっぱり迷惑はかけたくないと思う。
そろそろ一時間だ。相談料は、一昨日の夜、水島に先払いしてあった。
「あの、こんな話で大丈夫だったでしょうか」
丸山が心配そうに言った。
どうだろう。でも、なんとなく分かってきた。心因性の頻尿に、特効薬はないのだ。
それが分かっただけでも今日はよかったと思いながら、「ありがとうございました」と頭を下げた。
5
月曜の朝、仮病を使って半休を取り、ゴマ塩あごひげのクリニックで診療記録の開示を請求した。金曜の午前中までに用意してくれるそうだ。丸山の知り合いだという女性医師のクリニックに、金曜の午後に予約を入れた。うまく事が運ぶのを祈るほかない。
午後からは会議があった。資料を確認したかったので、昼休み中に出勤した。
デスクの上に、綺麗な包装紙でパッケージされた小箱が載っていた。開けてみると、アーモンドを淡い色に染めた砂糖でコーティングしたお菓子、ドラジェだった。祥子の好物だ。
折りたたんだメモが中に入っていた。
――大場さんへ これまでごめんなさい。愚痴を言いすぎました。迷惑だったと思います。反省してます。できればこれからもよろしくお願いします。
そういえば、頻尿だって言ってたよね。私も妊娠中、頻尿で大変でした。長い会議とか、困るよね。裏技を教えるね。トイレに行きたくなったら、「長くなってきたので、お茶でも淹れましょうか」と言って、席を立つの。お勧めです。
読み終えると、祥子はため息をついた。
祥子としては、ちょっと喧嘩をしたのではなく、絶交するつもりだった。美紀はそうではないようだ。
不快な思いをさせた自覚はあるようだが、簡単に許してもらえると、疑ってもいない。極めつけは、「裏技」だ。そんな方法がうまく行くとは思えなかった。
ドラジェはありがたくいただいたが、メモ用紙は丸めて捨てた。
会議の開始時間が近づくに従って、緊張が高まってきた。同時に尿意も現れた。
トイレに一度行った。すぐに二度目の尿意が来たが、今度は我慢した。
薬が手に入ったとしても、それだけでは不安だ。膀胱トレーニングにも本気で取り組んでみようと思った。とにかく、全力を尽くすのだ。
――気のせい。気のせいでなくても大丈夫。すぐにトイレに行ける。
そう自分に言い聞かせ、会議室に向かった。
今日は、プレゼンの決勝だ。祥子は社長の海野に予選で落とされたから、ほとんど関係ない。
演台の前では、今日も林がPCと電子ボードの接続に手間取っていた。
意外にも、林の案は決勝まで進んだのだ。しかも、社長の海野の一存で。
彼が提案したのは、「リアルお魚丼」。小型サーモンの頭が真ん中にドーンと載っており、その周りにシラスがあしらわれている。はっきり言って美味しそうに見えない。そもそも、サーモンの頭なんか、食べるところがほとんどないし、食べにくい。
なのに決勝に進んだのは、海野が「我が社も食育に貢献するべきだ」と言い出したからだ。
――最近の子どもは、魚の全体像がどんなものか知らない。切り身が海で泳いでいると信じている子さえいる。
海野は、そんな話は都市伝説だと思っていたそうだ。ところが、幼稚園に通っている孫の友だちがまさにそういう子だったという。海野はそれで、ひどく憤慨したようだ。「お子様たちに命をいただいている、という実感を持ってもらう」という林のコンセプトを絶賛していた。
今日は海野は北陸の工場の視察に行っている。まかり間違っても、林の案が選ばれることはないだろうと思いながら、会議が始まるのを待った。
林の発表が始まった。祥子は尿意と闘いながら、電子ボードを見つめていた。
トイレのことを考えないようにするのは、本当に難しい。唯一の救いは、林の発表が短時間で終わったことだ。
この調子で二人目、三人目と進めば、休憩タイムに入るだろう。その後、三つの案について、部員が意見を言い合うのだ。
休憩までなんとか我慢できそうだ。そんな気になっていたのだが、三人目がいけなかった。発表後の質疑応答が、延々と続いた。
尿意はいよいよ高まってきた。誰がどんな意見を言ってるのかすら、頭に入らない。
もうダメだ。でも、頑張りたい。アメリカ出張に行きたい。
うつむき、尿意をこらえていると、ふと目の前に紙片が差し出された。
――体調悪そうですね。休憩、入れますか?
顔を上げると、隣に座っている林が、心配そうな顔でみつめていた。
考える前にうなずいていた。
「お願い」
小声で祥子が言うと、林が手を挙げた。
「あのー、皆さん、ここらで休憩にしませんか」
井岡がそそくさと席を立った。
「そうだな。ちょっとトイレ行ってくるわ」
祥子もトイレにダッシュした。
用を足しながら、目の奥が熱くなった。
そうか、そうか。こんなふうに助けを求めてもいいのだ。迷惑をかけたっていいとまでは思わない。でも、自然の呼び声に従って、助けを求めるのは恥じゃない。
手を洗いながら、鏡の中の自分の顔を見た。すっきりした表情をしていた。
次の瞬間、顔が歪んだ。
いや、違う。自分は助けを求めたのではなかった。林が手を差し伸べてくれたのだ。
迷惑をかけてはいけない。そう考えて自分は生きてきた。でも、困っている人に積極的に助けの手を差し伸べようとしたことがあっただろうか。
たぶんない。相手を冷ややかな目で見ていただけだ。例えば前回のプレゼン会議のとき、演台でモタモタしている林を手伝ってやればよかったのだ。
美紀に対してだってそうだ。一方的に迷惑をかけられている、と不快に思っていた。でも、美紀も自然の呼び声に従って、もっと言うと自分の心を守るために苦しみを吐露していただけかもしれない。
そして、ようやく分かった。自分は他人に手を差し伸べようとしない。だから、他人に助けを求められないのだ。
鏡に映る自分の目が赤くなっていた。祥子はハンカチを出して涙を拭いた。
泣いている場合ではない。そうと分かったからには、やるべきことがある。
会議室に戻ると、議論が始まろうとしていた。
井岡が最初に発言する。
「林の案は却下でいいな。トンデモ食品として、ネットで注目されるかもしれないけど、受けを狙ってもしようがない」
会議室に笑いが広がった。林本人も、バツが悪いのか、ニヤニヤしている。
祥子は手を挙げた。
「私は林君の案を発展させたらいいと思います。海野社長もコンセプトを絶賛していたわけだし」
海野は癖があるが、一代でこの会社を築き上げた人間だ。野性の勘みたいなものがある。
「丸の魚がどんなものか、子どもたちに理解してもらいたいわけですよね」
だったら、サーモンのたたきを魚型に整形したらどうか。シラスはそのままで構わないだろう。わかめを添付して、丼に海の中の様子を描けるようにしてもいい。親子で盛り付けをすれば、会話も弾みそうだ。
井岡が「ほう」と唇を丸くした。
「いいかもしれないな。ただ、プロジェクトリーダーが林じゃ不安だ。大場さん、担当してくれるか?」
「いえ、コンセプトを考えた人間がリーダーをやるべきです。私はサポートに回ります」
林が頬を上気させた。
「いいんですか?」
「頑張って」
こんなことぐらいで頻尿がよくなるとは思わない。でも、きっと何かが変わる。変わってほしい。変えるのだ。
そう思いながら、祥子は目を閉じた。