丸山は、慎介を勇気づけるように微笑み、文面の案を考えてくれた。
――バーベキューの後、体調不良者が二名出ている。他の人も体調が悪ければ、無理せず医療機関を受診するように。そして名乗り出てほしい。食中毒の可能性がありそうなら、保健所に相談して指示を仰ぐ。体調不良者が受診した医療機関の医師から、保健所に連絡がいく場合もある。いずれにせよ、会社として適切な対処をするので、憶測で犯人捜しをするのは控えるように。
水島が持ってきてくれたメモ用紙に、丸山の文案を書き取った。
完璧だと思った。一点を除いては。
慎介の心配をよそに、丸山は続けた。
「だいたい、素人が犯人捜しをしようなんて、無理なんですよ」
保健所が調査をしたとしても、参加者の誰かに明確な心当たりでもなければ、原因を特定するのは、難しいだろうと丸山は言った。
「バーベキューってあれこれ食べますよね。残った食材を保存しているわけではないだろうし」
「何も残っていません。でも、潜伏期間や症状から、病原体って予想がつきませんか? 検査をすれば、病原体は分かるだろうし。病原体が分かったら、怪しい食材の見当はつきますよね」
大河内がそんな話をしていた。
「そうですね。でも、誰のせいだ、と断定はできないでしょう」
たとえば、生の鶏肉に潜んでいることがあるカンピロバクターが体調不良者から検出されたとする。
鶏肉が怪しいと見当はついても、その先はどうか。鶏肉が生焼けだったのか、それとも生肉を掴んだトングで焼けた肉を取ってしまったのか。あるいは、買い物袋の中で、肉のドリップが容器から漏れ、サラダ用の野菜に付着してしまったのか。
「パッと思いつくだけでも、可能性はいくつもあります。なのに、個人の名前を取沙汰するのは浅はかです」
その通りだと思う。しかし、この文面には問題があった。大河内の了承が得られるとは思えない。
「大河内から、参加者に聞き取りをする必要はないと言われているんです」
丸山は眉をひそめ、確認した。
「聞き取りをしないんですか?」
「僕はしたいです。でも、大河内に止められるのではないかと。大げさにしたくないそうで、保健所への連絡も禁じられました」
丸山は、腕を組んだ。
「なんでだろう。保健所は敵ではないんですけどねえ」
「味方なんですか?」
「もちろんです。食中毒を出した飲食業者が、営業停止などの処分を受けることはありますが、そういうケースも含めて、基本的には味方です。食中毒を出してしまったら、感染者を最小限に抑えて、事態を収束させるしかありません。再発防止策を講じないと、同じ過ちを繰り返すかもしれないし。そのためには、保健所に協力してもらったほうがいいんです。そもそも、リトルスロープさんは不動産会社ですよね。バーベキューで食中毒が出ても、保健所が営業停止を命じるとは思えません」
あっ、と思った。大河内は営業停止を受けたら困るというような話をしていた。でも、そんなことにはならないようだ。
丸山は続けた。
「大げさにしたくないのは分かります。保健所への連絡は、もう少し様子を見てからでもいいかもしれません。ただ、参加者に現状を知らせて体調確認をするのはすぐにやったほうがいいですよ。感染が広がったらまずいし、無責任な噂を止めなきゃ」
「そうですね」
「大河内さんだって反対しないのでは?」
慎介はうつむいた。
大河内を説得する自信がなかった。上の立場の人間に嵩にかかられると、からきしなのだ。人事権を握っている大河内の機嫌を損ねたくないという打算もある。
そういうところが、ダメなんだろう。情けない。でも、それが自分という人間だ。
丸山はテーブルの上で両手を組み合わせると、思い切ったように言った。
「大河内専務を説得するのが難しいのであれば、さっきの文面で皆さんに通知を出してしまいましょう」
そこまで冒険はできない。
乾いた唇を舐め、冷めたコーヒーを飲み干すと言った。
「会社に戻って、大河内と相談します」
頑張って説得してみるつもりだ。でも、自信はない。
頭を下げ、席を立とうとすると「ちょっと待っていてください」と丸山が言った。
椅子の背にかけてあったナップザックからスマホを取り出し、どこかに電話をかけ始める。
「あっ、大河内さんですか。医師の丸山です。今、話せますか? 高畠さんから、話をうかがったんですが……」
慎介の顔が強張った。丸山は、慎介の煮え切らない態度に業を煮やし、自分で大河内の説得に乗り出したようだ。
さすがにこの状況は受け入れられない。丸山の差し出がましさに腹が立った。いや、そうじゃない。丸山に非常識な行動を取らせたのは自分だ。
いつの間にか、身体が震えていた。興奮しているはずなのに、頭の中はシンとしている。
不思議な感覚だなと思いながら、慎介は丸山に声をかけた。
「スマホ、貸していただけますか? 僕が説明します」
手を出すと丸山は驚いたように口をすぼめたが、すぐにスマホを手渡してくれた。
「高畠です」
「ああ? 丸山先生と替わったのか。お疲れさま。原因、分かったか? 生焼けの鶏肉か? それともエビ?」
「そんな単純な話ではないんです。それより、参加者に体調に変わりがないか聞きましょう。保健所にも相談しましょう。保健所は敵ではなく、味方です」
回線の向こうから、舌打ちが聞こえてきた。
「大ごとにしたくない。そう言ったはずだ」
気持ちがクシュンと縮みかけたが、ここで怯んではいけない。怯んだら、自分を許せなくなりそうだ。
そして理解した。責任とは、上司に言われた仕事をこなすことではない。上司が間違っているとき、恐れず意見することだ。丸山に説明してもらったおかげで、自分は現状を正しく把握できていると思う。あれこれ誤解をしている大河内にかじ取りを任せたら、会社のためにならない。飯島や山野のためにならない。他の社員や顧客のためにもならないし、自分のためにもならない。
「むしろ、隠そうとして、感染を広げるほうが怖いです」
「そんなわけない……」
大河内が言いかけるのを遮った。
「参加者に情報を公開して、しかるべき対応をすると説明すれば、下らない噂を流している人たちは黙ります。僕に任せてください。丸山先生に知恵をつけてもらったので大丈夫です。ただ、通知は大河内さんの名前で出させてください。憶測を止めさせるには、そのほうが効果がありそうです」
丸山はうん、うんと二度うなずき拍手をすると、援護射撃を送ってくれた。
「大河内さん、丸山です。僕もそれがいいと思います」
大河内にも丸山の声は聞こえたようだ。
「……それで噂は止まるんだろうな」
「止めましょう」
「分かった。頼んだ」
通話を終了すると、全身から力が抜けて行った。
でも、善は急げである。自分のスマホを取り出し、さっきメモした文面を入力する。二度読み返した。丸山にも読んでもらった。
参加者にメッセージを一斉送信したら、全力疾走でもしたように、息が弾んでいた。
水島がコーヒーの入ったサーバーを手にやってきた。空になったカップにお代わりを注いでくれる。
「お疲れさまでした」
「すみません」
慎介が言うと、水島は微笑んだ。
「さっきは、申し訳ありませんでした。丸くんがお役に立てたみたいでよかったです」
丸山は、うん、うんとうなずいている。外見は美女と野獣のようだが、二人は会話のリズムや雰囲気が似ていた。いいコンビだなと思った。
水島はサーバーをカウンターに置くと、ドアを開けて外に出た。いつの間にか「OPEN」の札をはずしていてくれたようだ。道理で他に客が来なかったわけだ。
申し訳なさと温かさが混じった感情が胸にこみ上げる。それを噛み締めていると、スマホに着信があった。
体調不良の社員からの連絡だった。料理経験がほぼゼロだと言っていた東中野支店の新入社員、貝原だ。憶測はよくないが、山野と一緒にテーブルを囲んでいたから、同じものを食べていた可能性が高い。「無理をせず早退して、医療機関を受診してください」と返信した。
三人目の体調不良者が出たことで、緩みかけた気持ちが再び引き締まった。正念場はきっとこれからだ。
丸山は、あと四十分ほどここで時間を潰してから、仕事に行くそうだ。お医者くんカフェの時間にカウンターの中に立っているが、それだけでは家族を養えないので、画像診断のアルバイトをしているのだそうだ。相当変わっていると思った。でも、彼の存在が今の慎介にはありがたい。
丸山が側にいると心強いので、慎介もしばらく店に残ることにする。
体調を崩した参加者が三人になったので、保健所にも連絡してみた。担当者の手がふさがっているということで、簡単な現状説明だけして、折り返しの電話を待つことになった。
丸山が、ふと思い出したように言った。
「体調不良の二名はその後、どうでしょう。悪化していなければいいんですが。ちなみに、お二人に家族はいますか?」
飯島は夫と同居しているが、山野は一人暮らしである。確かに、ちょっと心配である。
メッセージを送ってみたが、返信はなかった。電話もかけてみたが、つながらなかった。ぐっすり寝ているのならいいが、熱で動けなかったりしないだろうか。
部屋に食べるものは、あるのだろうか。慎介もそうだが、山野は病気になったときに備えて経口補水液の買い置きをしているような、ぬかりのない人間ではないと思う。
そういえば、山野の自宅はこの近くにある。彼は、慎介が入社直後に格安で借りていたアパートに住んでいるのだ。この店からだと、歩いて五分もかからない。ひとっ走りして、様子を見てきたほうがいいかもしれない。
丸山にそう説明して席を立った。すると、丸山も腰を上げた。
「近くなら、僕も一緒に行きますよ。具合が悪そうなら、お役に立てることもあるでしょう」
もはや驚きはなかった。丸くんは、そういう人なのだ。
二階建てのアパートは、六年前と変わらない姿で、同じ場所に建っていた。ただし、慎介の真下に住んでいたシングルマザーの部屋の前の廊下には、異変があった。郵便受けの表札の名は同じだが、当時停めてあった三輪車が、子ども用のスポーツサイクルに変わっていたのだ。今顔を合わせても、あの子だと分からないかもしれない。
「ここです」と丸山に言い、外階段を上りかけたところで、立ち止まった。二階の窓から楽しそうな男性の話し声が聞こえてくるのだが、声の持主が山野のようなのだ。
振り返って、後ろからついてくる丸山に言った。
「元気になったみたいです」
よかった、と言いかけて口をつぐんだ。丸山が険しい表情で二階を見上げていたのだ。唇の前に指を立て、階段を上るように手振りで慎介に伝えてきた。
怪訝に思いながら、階段を上り切ると、今度は、はっきりとした声が聞こえた。さっきとは別の人物である。
「二日酔いで休んだくせに、食中毒のふりして二連休って、さすがにやりすぎじゃないか? しかも、激辛カップ麺とポテチ食ったうえに、ピザを頼むなんて、どんな病人だよ」
慎介は、自分の顔から血の気が引くのが分かった。さっき、体調不良だと連絡してきた貝原だ。こんなところで、何をしているのだ。
山野の笑い声が聞こえた。
「貴重な休みをバーベキューで潰されたんだ。自主的に代休取ってるんだよ。それに、食中毒っぽいって言っておきながら、翌日復帰するわけにもいかないだろ」
「医者には行ったんだっけ?」
「昨日行った。アリバイ作りみたいなもんだな。吐いたとか下痢したとか、適当なことを言って、薬を出してもらった。検査はしなかったし、仮病がバレることはないだろ」
「俺も医者に行けって高畠さんに言われた。状況的に、食中毒かもしれないって医者に言うしかないと思うんだ。検査してウイルスや菌が出なかったら、まずいかな」
「平気、平気。何も出なくても『食中毒ではありませんでした』でお終いだよ。保険を使えば、費用だってたいしたことないし。そういえば、竹本さんは、どうするのかな」
「体調不良だって申告するんじゃない? 言い出しっぺなんだから」
慎介は内心首を傾げた。竹本は経理部の女性である。話の流れから推測すると、彼女も食中毒を装ってずる休みをするつもりのようだが、竹本は超がつくほど真面目な性格だ。
「他にも本当に食中毒になった人もいるかもしれない。専務の奥さんの手料理が、直射日光の下に放置されててヤバいかんじだった」
「どっちにせよ、この食中毒騒ぎで、来年のバーベキューはないな」
「来年どころか、永遠にないっしょ。ほとんどの社員は喜ぶ。社員総出でバーベキューなんて、いつの時代だよ」
「高畠さんも、幹事なんてよくやるよ。社長や専務に媚び売って、出世したいんかね」
「あの人、ウザすぎ。さっきも、電話やメッセで具合はどうだ、大丈夫かってしつこく聞いてきた」
いつの間にか、唇をきつく噛んでいた。
――今日一日、自分は何をさせられていたのだろう。
ついさっきまでは、先行きが不安ながら、密度が濃い、充実した一日だと思っていた。殻を破ったという手ごたえもあった。新しい自分になれるような気がしていた。
掴みかけた自信が、空しく砕け散っていく。徒労感と怒りで、頭がどうにかなりそうだ。
その一方で、胸には冷え冷えとしたものが広がっていく。
慎介もバーベキュー大会の開催に否定的だった。社員旅行に比べたらましではあるが、時代遅れだと感じていた。幹事に任命されなかったら、不満タラタラだったにちがいない。
苦い悔いが喉元をせり上がってきた。
社長に恩を返したかったのは本当だ。でも、自分の都合で若手を巻き込んでしまった。社長や専務に媚びを売ったと言われてもしかたがないのかもしれない。
せり上がってきたものを押し戻そうと唾を呑んだ。うまくいかず、息苦しさだけが残った。
顔を上げると、丸山と視線が重なった。丸山は弓形の眉を寄せ、ぽっちゃりした唇を半開きにしていた。目の下の変な位置に皺が寄っている。
こんなときに、どうでもいいことに気がついてしまう自分が不思議だ。いや、不思議でもないか。自分はどうでもいいことに気を取られ、全体像が見えない人間なのだ。
いったいどうやってこの事態を収束させればいいのだろう。皆目見当がつかない。
今はひたすらこの場を離れたかった。みじめすぎてやってられない。自宅に帰り、布団をかぶって寝てしまいたい。
「すみません、僕……」
丸山に会釈をして、階段へ向かおうとした。丸山が、階段の入り口に立ちはだかった。