その夜、真鈴を寝かしつけると、ダイニングテーブルで優斗が待ち構えていた。帰宅する車中でも、帰ってからも、真鈴の機嫌が悪くて、まともに話ができなかったのだ。

 缶のままビールを飲みながら優斗が尋ねた。

「どうだった? お墨付きはもらえた?」

 自分も久しぶりに飲んでしまおう。冷蔵庫から缶チューハイを取ってくると、優斗の正面に座った。

「まあ、そうだね。専門医を受診する必要はないだろうって言われた」

「よかった。早速、母さんに連絡しよう」

 スマホを手に取ろうとする優斗を制した。

「そう単純な話でもなくて……。衛生観念は人それぞれだから、自分の考えを他の人に押しつけるのはよくないって言われたんだ」

「まあ、それはそうかな」

「でも、お互いさまって言われてもなーってかんじ。清潔すぎるのはよくないとも言われた」

「そうなの? 普通に考えて不潔より清潔がいいと思うけど」

「だよね。でも、唾液は汚いものじゃないとか、虫歯菌がうつるのを気にして、食器の共用を避けるのは意味がないとか」

「まじで?」

「それでなんだかモヤモヤしちゃって」

 歯科予防研究者の学会が声明を出していると説明すると、優斗はスマホを手に取った。すぐに声明は見つかったようだ。優斗はしばらくスマホの画面に見入っていたが、ビールを一口飲むと深いため息をついた。

「参ったなあ。母さん、ますます図に乗るぞ」

 美央は苦笑した。

「確かに。でも、図に乗るだなんて。親に対して、そういう言い方はよくないと思う」

 優斗は肩をすくめた。

「鬼電される身にもなってよ。それと、前から思ってたんだけど、いい嫁をやろうとしすぎだよ」

「私、そんなつもりは……」

「母さんをかばわなくていい。あの人は迷惑だ。部長にもいい加減にしろって釘を刺された」

「それはヤバいね」

 営業部長は次期社長と目されている実力者だ。つまらないことで不興を買いたくない気持ちは痛いほど分かる。

 優斗はビールを飲み干すと、もう一度ため息をついた。そして、美央の顔をまっすぐに見た。

「母さんは、最初に会ったときから、美央に対してめちゃくちゃかんじが悪かった。結婚と妊娠の順番が逆になって面白くなかったのかもしれないけど、本当に申し訳ないと思ってる」

 深々と頭を下げられ、戸惑った。優斗は酒に強いほうではない。酔っぱらってしまったのだろうか。

「二年以上前の話じゃない」

「この前の正月に東中野の家に行ったときもひどかった。お手製のおせち料理を準備してくれたのはいいけど、美央にあれこれ指図して、使用人みたいにこき使ってた。洗い物なんか、ぜんぶ美央に丸投げだったよね」

 それより、「一週間前から頑張って作った」というおせち料理を食べさせられたほうがきつかった。作った後、冷蔵庫で保存していたかどうか、定かではなかったのだ。

「幼児におせち料理は味が濃すぎる」と主張して、美央には持参したものを食べさせた。自分はさりげなく、かつ慎重に匂いをかぎ、まあ大丈夫だろうと思って口はつけたが……。

 しかし、話を脱線させてもしかたがない。

「しかたないよ。お義母さん、腰が痛かったみたいだし」

 優斗が苛立ったように首を振った。

「姉さんにも手伝わせればいいんだ。姉さんは、ずっと真鈴と遊んでたじゃない。母さんは、姉さんは仕事が忙しくて疲れているし、真鈴とも滅多に会えないんだから大目にみろって言ってたけど」

 腹を立てるぐらいなら、優斗が手伝ってくれればよかったのだ。突っ込みたくなったが、そもそも、優斗の話がどこへ向かっているのか分からない。

 優斗が指でテーブルを叩き始めた。苛立っているときの癖だ。

「母さんは、美央を軽く見すぎてるんだ。俺も悪かった。美央が辛抱強く母さんに接してくれるのに甘えてた。でも、今回のことでよく分かった。俺、あの人は無理だ」

 優斗は顔を上げると言った。

「絶縁しよう」

 美央は思わず上体を引いた。いきなり何を言い出すのだ。

「それこそ無理でしょ。今度お墓参りもあるし」

「行かなくていいよ。絶縁するんだから」

「いや、でも……」

 優斗は赤い目で美央を見た。

「結婚してからの美央は、母さんの顔色をうかがってばかりだ。それも嫌なんだ。働いてたときは、いつも毅然としてたじゃないか」

 顔色をうかがうだなんて失礼な。でも、「いい嫁キャンペーン」をしている自覚はあった。無理をしていたのかもしれない。

 それにしてもである。

「この前、毅然とした態度でお義母さんを追い返したのは私だよ。なのに、お義母さんが勧めるお医者さんに会うように勧めたのは、優斗じゃない」

 優斗はバツの悪そうな顔をした。

「鬼電されたから……。とにかく、絶縁しよう。美央に泣きついてくるかもしれないけど、相手にしなくていい」

「お義母さん、また会社に電話してくるんじゃない?」

「父さんに頼んで、母さんを止めてもらう」

「いや、でも、絶縁っていうのはさすがに……。私の復職も控えてるわけだし。前から言ってるでしょ。お義父さんの会社の自社物件、紹介してもらいたいんだよね」

「ここから通えばいい。多少遠いけど、母さんに振り回されるよりましだろ。とにかく、もう決めたから」

 優斗はそう言うと、空き缶を手に立ち上がった。言葉をかけたかったが、優斗の全身から拒絶の意志が立ち上っていた。本気で絶縁するつもりなのだ。

 妻を守りたいという気概は感じたが、子どもっぽすぎる。相手は実の親である。「絶縁だ」と叫んだら関係が切れるというものではないはずだ。

 なんでこんな面倒な話になるのだ……。苦い気持ちを噛み締めながら、たっぷり残っている缶チューハイを呷った。

 

 

 優斗が啓子に絶縁を言い渡してひと月が経った。優斗の気持ちが変わる様子はなかった。

 優斗がなぜそんな行動に出たのかも、だんだん分かってきた。優斗は同僚の女性から「母親と妻が対立したら、母親を切って妻を守れ。さもないと、離婚される」と、助言を受けたようだ。

 助言が間違っているとまでは言わない。でも、極端すぎるし、それを真に受ける優斗は、やはり子どもっぽい。

 啓子からは、電話やメッセージが連日のように来ていた。優斗に言われているので電話は無視をしている。メッセージには一応、目を通していた。

 啓子は当初、強気一辺倒で、「自分は悪くない構文」を連発していた。あの後、丸山とも話したのだろう。「潔癖症ではないとしても、清潔すぎるのは真鈴のためによくない」と、しつこく書き送ってきた。

 返信せずにいると、次第に文面が哀れっぽくなってきた。

 ――反省すべきところは反省します。老い先短いのに、孫と会えないのは辛いです。なんのために生きているんだか。

 そこまで書かれると、さすがに心が痛んだ。

 ママ友に相談したところ、気が合わない義両親と疎遠になるのは、今どき普通だと言われた。自分を傷つけてくる人を大切にしようとしても、心身がすり減るだけだとも。

 もっともだと思いつつも、絶縁を続けるのが正解とは思えなかった。少なくとも、歩み寄る努力はしたほうがいいと思うのだ。

 嫌な相手を切り捨てるのは簡単だ。思い切りと勇気があればいい。結婚前は、迷わずそうしていた。でも、今は優斗と真鈴がいる。自分だけではなく、二人にとってもベストな選択をしたい。

 そんなある日、真鈴が「ばあばは?」と言い出した。それを聞いて、美央の気持ちは固まった。

 絶縁騒ぎをこれ以上長引かせるべきではない。復職と引っ越しのこともある。それに、啓子は珍しく、下手に出てきている。話し合いを持つなら今が絶好のタイミングだ。

 優斗にもそう伝えたが、顔をしかめられただけだった。ただ、優斗も、永遠に絶縁を続けるわけにはいかないと分かっているはずだ。義父から優斗に時々電話が入っているのを美央は知っている。

 とりあえず、優斗に内緒で和解の道を探ることにした。まず、啓子にメッセージを送った。

 ――丸山先生がおっしゃっていたように、衛生観念は人によって違います。一度、会ってお話ししたいです。

 啓子からは、「よーく、分かっています。ぜひぜひ話し合いましょう」と即答が来た。ハートマークがたくさんついているのが不穏だが、とりあえず話を前に進めるしかない。

 啓子はすぐにでもこっちに来たい様子だったが、優斗には内緒だから、来てもらうわけにはいかない。

 考えた末に、「お医者くんカフェ」で会うことにした。啓子と揉めてしまったら、丸山に間に入ってもらおうと考えたのだ。

 店には、事前に問い合わせの電話を入れた。ベビーカーの幼児を連れて行けるか、心配だった。

 電話に出た女性は言った。

「基本的に歓迎です。ただ、大泣きして、他のお客さんがお医者くんと話ができない状況になるのは困ります。そのあたりは、配慮をお願いします」

 了承した旨を伝え、ベビーカーを置いておきやすいという端の席を予約した。

 当日は、私鉄とJRを乗り継いで東中野に向かった。車で行くことも考えたが、道順が完璧に頭に入っているわけではないし、駐車場の問題もある。道中、真鈴がぐずる可能性もあり、諦めた。

 七月も終盤に入っていた。曇っているのは幸いだったが湿度が高く、ベビーカーを押して駅まで歩く間に、汗だくになってしまった。しかし、その先はスムーズだった。電車に乗り込むとすぐに、真鈴が寝てくれたのだ。普段のお昼寝時間に当たっていたのが奏功したのだろう。

 各駅停車を選んだせいか、車内は空いていた。ロックをかけたベビーカーを押さえながら、久しぶりに外の風景を眺めた。何もかもが新鮮に見えた。真鈴が生まれてから、電車にぼんやり揺られる機会なんて滅多になかった。プチ贅沢をしている気分だ。

 東中野駅の改札を出て、記憶を頼りに、カフェ・カミナーレへ向かった。啓子との約束は、十四時ちょうどだ。

 店に到着すると、丸山が立て看板を出しているところだった。

「こんにちは。ええっと、お名前は?」

 ベビーカーを覗き込みながら言う。

「まりん、って言います。真実の真に鈴」

「素敵な名前ですね。よく寝てるなあ。さあ、中へどうぞ」

 店内は、エアコンが寒すぎない程度に効いていた。開店したばかりなのに、カウンターの中ほどの席で、美央と同年代と思しき大柄な女性がジュースを飲んでいた。化粧っけがなく、服装はラフだった。有名スポーツブランドのロゴがついたTシャツを着てレギンスをはき、その上からシャツワンピースを羽織っている。

 奥の席に腰を落ち着け、真鈴の様子を改めて確認した。おむつは大丈夫そうだし、もうしばらく、寝ていてくれそうだ。

 厨房のほうから、炒め物をしているような音が聞こえてきた。カフェタイムはドリンクしか出せないと聞いている。夜の営業に備えて、料理人が仕込みをしているのかもしれない。

 真鈴の胸元をはだけ、汗を拭いてやっていると、ジュースを飲んでいた女性がカウンターの中に戻った丸山に話しかけた。

「出張、めちゃくちゃいい経験で、勉強になりました。食事も美味しかったし、トイレ問題も、なんとか大丈夫でした。丸くんのアドバイスに従って、トイレタイムを多目に設定してもらったのがよかったのかも」

「そういえば、泌尿器科の薬は? お守り代わりに出してもらったって言ってましたよね」

「ええ。でも、結局使いませんでした。先生と相談して、今後も薬なしで様子をみることにしました。今日は有休を取ったので、骨盤底筋ヨガのクラスに行ってきたんです。結構、よさそう」

 丸山は、「それはよかったです」と言うと、席についた美央の前に来た。

「啓子さんから聞いてますよね?」

「えっ?」

「メッセージを送ったと言ってましたが、伝わってませんでしたか」

 啓子は急用で来られなくなった、と丸山は言った。

「少し前に顔を出されたんです。美央さんへのことづけものを預かっています」

 バッグからスマホを出して確認すると、三十分ほど前に啓子からメッセージが入っていた。

 ――緊急事態で行けなくなりました。

 親族の急病や怪我であれば、そう書くはずだ。何があったのかは分からないが、美央にはおそらく関係ない。

 仕方のないこととはいえ、無駄足を踏む羽目になって残念だ。一息入れたらさっさと帰ろう。帰ったら食事の用意をして、優斗を迎えなければならない。

「アイスコーヒー、お願いします」

 丸山は軽くうなずくと冷蔵庫へ向かった。コーヒーの入ったグラスを美央の前に置くと、カウンターの内側の作業台に置いてあった小さな紙袋を取り上げた。美央にそれを差し出しながら言った。

「頼まれていたもの、だそうです」

 紙袋は見た目より重かった。中をのぞいてみると、二つ折りにした紙と一膳分のご飯を保存するのに使う蓋付き容器が入っていた。紙を取り出して広げると、糠漬けのレシピだった。ということは、容器の中身は糠床だろう。

 糠漬けに挑戦したいと言った記憶はあるが、衛生観念は人によって違うと伝えたばかりである。今日は、その話をするために来た。なのに、糠床のおすそ分けを持ってこようという発想になぜなるのだ。なんだかなあと思いながら、容器を紙袋から出した。

「なんですか、それ?」

 先客の女性が尋ねた。

「義母から糠床のおすそ分けみたいです。前に糠漬けを始めたいって私が言ったから……。レシピだけでよかったのに」

「いや、ラッキーですよ。糠床を立ち上げるのは時間がかかるんです」

 糠、水、塩を混ぜただけでは、漬物を始められない。野菜くずを漬けては捨てる「漬け捨て」を繰り返し、菌を増やす、つまり発酵させる工程が必要だ。

「新品の糠床に、発酵済みの糠を混ぜると、漬け捨てを短縮できるんです」

 詳しいなと思いながらうなずくと、丸山が補足してくれた。

「ショウコさんは、食品会社で商品企画をやってる食のプロです」

 ショウコが明るく笑った。

「食のプロは大げさです。でも、手作り糠床って興味があるなあ。見せてもらってもいいですか?」

「どうぞ」

 容器をショウコの前に置く。ショウコが容器の蓋を取った瞬間、酸っぱい異臭が広がった。

「うわっ、なんかすごいものが……」

 ショウコが容器を美央のほうに向けた。容器の中を見た瞬間、美央は口元を押さえた。糠床の表面に白っぽいカビが生えていたのだ。

 丸山も驚いたようだ。

「この暑さだから……」

 美央は心の中で叫んだ。

 ――無理、絶対に無理。

 啓子は、今日の話し合いの主旨を分かっていない。分かろうとする気もないのだろう。そうでなければ、こんなものを持ってくるはずがない。啓子との関係を修復しようと気をもんでいた自分が、バカみたいに思えてきた。

 

(第8回につづく)