幸弥は皿を見た。ラザニアはまだ半分以上残っている。食べたいのはやまやまだが、この状況でチーズと牛肉をふんだんに使った料理には手をつけにくい。
そのとき、ふと思い出した。今年の正月、実家で久々に顔を合わせた叔父が、スリムになっていたのだ。叔父には糖尿病の持病があった。減量する必要があり、肥満治療薬を処方してもらったそうだ。週に一度注射すれば、食欲が抑えられるのだとか。
便利な世の中になったものだと感心した。自分もその薬を使えばいいのだ。
薬で目標体重まで落とせば、それをキープするのは、そこまで難しくないだろう。結婚したら、霧子が食事を管理してくれるわけだし……。
そこまで考えたところで、不安が胸をよぎった。薬に頼ろうとするのは意志薄弱だろうか。
首を振って、その考えを追い払う。自分は経営者である。現実的かつ合理的な判断をしているだけだ。
ただし、薬を使うのは霧子には内緒だ。幸弥にそのつもりはないが、ズルをしていると受け止められる恐れがあった。
方針が決まったら、心穏やかになった。ダイエットをすると表明したばかりである。ラザニアの残りは諦めて、オフィスに戻ってから何か食べよう。デスクの引き出しに、カップ麺か何かが入っているはずだ。
幸弥はスタッフを呼んで、食後のコーヒーを持ってくるように頼んだ。
2
その町中華は、東中野の駅の南側にあった。土曜日だが、午後一時半を回っているせいか、店内に客の姿はまばらである。
店主が中華鍋を振るガス台に近いカウンター席が、幸弥のお気に入りだった。運よく空いていたので、朱色の座面の丸椅子に腰を下ろし、注文を取りに来てくれたお姉さんに、タンメンと焼き餃子のセットを頼んだ。タンメンは、この店の名物である。
店主は鍋でラードを熱し、野菜や肉を次々と放り込んだ。小気味のいいリズムで鍋を振るたびに食材が宙に舞う。香ばしい匂いを嗅いでいると、期待感と罪悪感が同時にこみ上げてきた。だんだん後者が強くなってくる。
こんなものを食べていては、痩せられるはずがない。
「お待たせしました!」
元気のいい女性の声とともに、餃子の皿が到着した。胸は鉄板でも差し込まれたように重い。なのに胃袋は、歓声を上げるように鳴っている。口の中には、唾が湧いてきた。
「太るぞ」という心の声に耳をふさいで、幸弥は肉汁たっぷりの餃子にかぶりついた。
霧子が英国留学に旅立ってから、ひと月近く経っても、体重はまったく減らなかった。むしろ、若干増えた。
ダイエットするように言われた翌日、オフィスが入っているビルの二階にある内科クリニックに駆け込んだ。
ダイエットをしなければならないのだと説明し、肥満治療薬の処方を希望したところ、若い女性医師にけんもほろろに断られた。
彼女曰く、肥満治療薬が処方されるのは、単に太っている人ではなく、肥満が原因で起きる高血圧や糖尿病、脂質異常症といった持病がある人、あるいは高度の肥満がある人だという。
しかも、幸弥は太っているとも言えないのだそうだ。
ボディマス指数、いわゆるBMIは24・77。ギリギリではあるが、普通体重の範囲内だという。
それを聞いて、ならばと思った。
幸弥は、血圧がやや高い。前回人間ドックを受けた際、「要注意」に相当する値だから、生活習慣を改善するように言われている。
そのことを女性医師に説明し、「体重を少し増やせば、肥満治療薬を処方してもらえるか」と尋ねてみた。女性医師はキョトンとした。次の瞬間、「あなた、ふざけているんですか?」と言って、感情的に怒り出したのだ。
ふざけているなんてとんでもない。
重ねて頼んでみたが、彼女は頑なだった。保険診療で難しいのであれば、自由診療で構わないと提案してみたが、それも即座に却下された。
「魔法の杖のように簡単に痩せられる薬があるとでも思ってるんですか?」
自分より二十近く年下と思われる女性の目に軽蔑の色が浮かんでいるのを見て、それ以上は言えなかった。
彼女はきっと高潔な心の持主なのだ。命は平等であり、保険診療こそ医療の真髄、自由診療なんて金持ち向けのけしからん医療だと思っているのかもしれない。
そう言えば、元妻に雰囲気がどことなく似ていた。元妻と同じように、信念を持っている人なのだろう。
幸弥としては、昔ならともかく、今は医療もビジネスだと思うのだが。
その日の夜、霧子にメールを送った。十キロも減らしたら標準体重を下回る。健康上、よくないようなので、五キロでどうかと打診してみたのだ。
しかし、「どうせリバウンドするだろうから、まずは十キロ減らすべき」という返事が来た。言葉はマイルドだったが、文面を意訳すると「弱音を吐くな」である。それ以上の交渉は諦めた。
肥満治療薬についても調べてみた。女性医師が言っていたように、保険診療で薬を出してもらうのは難しそうだったが、自由診療ならうるさいことを言わずに、出してくれるクリニックが見つかりそうだった。オンライン診療可のところもあった。
予約を取ろうとしたが、説明文の中に「自己責任」という文言があるのに引っかかった。自由診療だから、当たり前なのかもしれないが、何かあったときが怖い。
肥満治療薬の副作用を調べて、怖いという思いは強くなった。副作用は、吐き気や下痢といった軽いものばかりでなく、急性膵炎や腸閉塞など重篤なものもあるようなのだ。
痩せようとして命に関わるような事態になったら、さすがに困る。薬のことは忘れ、食事制限でダイエットをしようとしたのだが、想像していた以上に苦しかった。
高カロリーのものを食べないように努力はしている。しかし、空腹感に耐えられなくなると、ドカ食いをしてしまうのだ。
言い訳かもしれないが、空腹で気が散って、仕事にならないのが困る。商談の最中、気もそぞろになってしまい、相手の不興を買って契約を逃すという失態も犯してしまった。それ以来、空腹を覚えると、自制できなくなった。
今日だってそうだ。土曜日なので西新宿にある自宅マンションの自室で書類仕事をしていたのだ。昼食抜きにしようと決めていたのに、空腹を覚え始めたら、そんな気持ちは消し飛んだ。気がついたら、財布一つ持って家を飛び出し、タクシーで東中野まで来ていた。
運動で痩せるのは、はなから諦めている。定期的に運動をする時間はないし、運動で痩せるのは大変なのだ。同年代の知り合いで、ジム通いやランニングを始めた人を何人も知っているが、痩せた人は一人もいない。そもそも運動は苦手だった。ウエアやシューズをそろえても、挫折するのが目に見えている。
餃子とタンメンを完食すると、暗い気分で店を出た。このところいつもそうだ。食べている最中は幸せなのに、食べ終わった瞬間から後悔と自己嫌悪に苛まれる。
東中野から西新宿の自宅まで徒歩で三十分弱である。今日は曇でそれほど暑くない。多少なりともカロリーを消費するために、歩いて帰ることにした。我ながらせせこましいと思いながら、歩き出す。
今の状況は、間違いなく不毛だ。精神的にもやられてくる。仕事に悪影響が出そうだ。いや、すでに出ている。
こうなったからには、思い切って自由診療で薬を手に入れたほうがいいような気がするが、その踏ん切りがつかない。
成功を収めようと思ったら、リスクを取る必要があるのは知っている。実際、経営者として、何度もリスクを取ってきた。
ただ、幸弥はわりと慎重な性質だ。リスクは、しっかり見極めてから取りたい。リスクを精査せずに突き進むのは、勇気ある行動ではなく、単なる無謀である。
そしてこの件に関してはリスク、具体的には副作用の大きさや頻度がどの程度なのか、見当がつかないのだ。しかも、失敗したとき失うのは金ではなく、自分の健康、下手をしたら命である。
薬を処方してもらう際、医師にリスクを確認はできるだろう。しかし、医師の言葉を鵜呑みにするのは怖い。
うがった見方かもしれないが、商品やサービスを提供する側の人間は、リスクを小さめに伝えがちだと幸弥は考えている。実際、説明書の注意事項なんかは、読んでくれるなと言わんばかりの小さな文字で書いてある。この前の高潔そうな女性医師ならともかく、高額な自由診療を提供している医師が、商売っ気がゼロだとも思えない。
自分で判断できる材料があればいいのだが……。
その時、少し先の歩道に立て看板が出ているのに気づいた。
――お医者くんのカフェタイム。火、木、土。14時~17時。
店の名前はカミナーレである。
世の中に、様々なカフェがあるのは、承知している。猫と触れ合える猫カフェ、本を読みながら過ごせるブックカフェなどだ。ポタジェでも「菜園カフェ」なるものを企画しており、来年早々にパイロット店舗を都内で開設する計画だ。
しかし、お医者くんカフェというのは初耳だった。そもそもお医者くんとは何者なのか。
看板の説明を読んで、すぐに理解した。
一杯千五百円のドリンク代を払えば、カウンターの中にいる医師と話ができるようなのだ。突っ込んだ話がしたければ、個別相談料を別途支払う仕組みらしい。
今の自分にうってつけの店だと感じた。
ガラス窓から、店内の様子を窺うと、大きなエプロンをつけたもっさりとした男性が洗い物をしていた。お医者くんのようだ。幸弥と同年代に見えた。そして、同じようにぽっちゃり体型だ。
カウンターの奥のほうの席に、女性の先客が二人いた。一人は初老で個性的なボブスタイルだ。もう一人はもっと若く、大柄で姿勢がいい。年齢も雰囲気も違うが、言葉を交わしているから、知り合いなのだろう。今なら、お医者くんと一対一で話せそうである。
意を決してドアを開けると、お医者くんと目が合った。
「いらっしゃいませ、こんにちは。今、お医者くん、つまり僕のカフェタイムなんです。バリスタが不在で、ホットコーヒーも出せないんですが、大丈夫ですか?」
「あ、はい。立て看板を見て、寄らせてもらいました。医師の意見を聞きたい案件があって」
「そういうことなら、ぜひどうぞ」
ドアに近い席に腰を下ろすと、メニューを渡された。無難にアイスコーヒーを頼む。
お医者くんは、不器用な手つきでグラスに氷を入れると、冷蔵庫からポットを出し、コーヒーを注いだ。
早速飲んでみると、コクとまろみがあって、とても美味しかった。バリスタの腕がいいのだろう。お医者くんは、幸弥の目の前に立つと、穏やかな口調で話し始めた。
「医師の丸山賢太です。この店では、丸くんと呼ばれています。ええっと、なんとお呼びしたらいいでしょう」
幸弥は戸惑った。名乗る必要があるときは、名刺を出すのが常だった。でも、さすがにこの場で名刺を出すのは違うだろう。無難に苗字を名乗ると、丸山はうなずいた。
「初めまして、新木さん。僕は呼吸器内科が専門の医師ですが、この店で診察はしません。お客さんの相談に乗るだけです。なんでも分かるわけではありませんが、一緒に考えることはできます」
初老の女性が声をかけてきた。
「丸くん、ずいぶんスムーズに話せるようになったね。ちょっと前まで、初対面のお客さんにはしどろもどろだったのに」
丸山は苦笑しながら、鼻をこすった。
「ケイコさん、茶化さないでください」
「はいはい、分かってますよ」
ケイコと呼ばれた女性は、興味津々といった様子でこちらを窺っている。大柄な女性は、気を遣っているのか、スマホの画面に視線を落としているが、五メートルも離れていない。話は丸聞こえだろう。自分や霧子の名前を出さないよう注意しなければ。幸弥は慎重に切り出した。
「実はダイエットがうまくいかなくて。十キロ減を目標にしているんですが」
職場の近くにある内科クリニックで、肥満治療薬の処方を頼んだら保険適用の対象ではないと断られた。別の医療機関で、自由診療で薬を出してもらおうと考えている。ただ、副作用が心配だ。リスクはどんなものだろう。
そう続けたかったのに、ケイコが話に割って入ってきた。
「ダイエットなら、発酵食品がいいわよ。ダイエットだけじゃなくて、何にでもいいんだけどね。妊娠中の娘にも、塩分控えめの糠漬けをしょっちゅう届けてるの。もちろん、私の手作り」
丸山が困ったような顔をしてケイコを見た。丸山が口を開く前に、大柄な女性が、ケイコに話しかけた。
「ケイコさん、娘さんと和解したんですか?」
ケイコは身体をくるりと回し、幸弥たちに背を向けた。
「実はそうなの。言いたいことはいろいろあるけど。私はそこまで潔癖でもないし」
丸山が、大柄な女性に向かって、拝むように手を合わせた。状況がよく分からないが、彼女が助け船を出してくれたらしい。幸弥も彼女に会釈をした。そして、説明を始めた。
話を聞き終えると、丸山は幸弥に身長と体重を確認した。BMIもあわせて答える。
丸山は二度うなずいた。
「保険対象外と言われるのはしかたありませんね。標準体重の範囲内ですから。逆に言えば、ダイエットは必要ないということです。十キロも減らしたら、痩せすぎになりますよ。健康のことを考えたら、標準体重が一番じゃないかなあ」
「仕事の関係で、外見を整えないといけないんです」
「だったら、多少減らしてもいいとは思いますが、二、三キロで十分では? だいぶすっきりすると思いますよ。そのぐらいなら、薬を使わなくてもなんとかなると思うし」
二、三キロではダメなのだ。しかし、その理由をどう説明するかが難しい。
女性同士の話が一段落したのか、ケイコが口を挟んできた。
「ホントはモテたいんでしょ。でも、不倫はやめといたほうがいいわ」
さすがにイラっとした。赤の他人になんでそんなことを言われなきゃならないのだ。
「あなたに関係ないでしょう。黙っていてもらえませんか?」
ケイコが肩をそびやかす。
「ここはおしゃべりOKのカフェだから」
丸山が首を横に振った。
「お客さん同士のおしゃべりは構いません。でも、今は僕が新木さんの話を聞いています。ここはお医者くん、つまり僕のカフェです。僕の仕切りに従ってもらわないと困ります」
ケイコは、おどけるように舌を出して笑うと、幸弥たちに背中を向けた。やれやれである。一時間一万円を払って個別相談にしたほうがリーズナブルだ。
丸山が、さあどうぞ、というように微笑む。
「先ほども言いましたが、僕が知りたいのは、自由診療で肥満治療薬を使うリスクです。どの程度のものでしょう」
「一概には言えません。薬にもよるし、新木さんの体質によっても変わるので。薬を処方する医師に、確認するのがいいと思いますね。ただ……」
丸山が何か言おうとするのを遮った。
「医療機関を受診する前に、だいたいのところを把握したいんです。この薬を使ったら、こういう副作用があって、その頻度はこのぐらいだ、というようなことがササっと分かるサイトはないでしょうか」
「ないことはありません」
医薬品の名前を入力すると、添付情報を検索できる公的機関のサイトがあるのだそうだ。添付情報には、副作用情報も含まれるという。
「ただ、内容が専門的なので、一般の人は自己判断せずに、医師や薬剤師に相談するよう、注意書きがあります」
「それはそうでしょうね。参考程度に留めるようにします」
公的機関の名前をメモしようとスマホを取り出した。しかし、丸山は言った。
「ええっとですね、新木さんの場合は、参考にもならないと思います」