粘っこい声で男がしゃべっている。何を言っているのか聞き取れない。
意識を集中したら、耳に入ってくる音声がクリアになった。車内アナウンスが、次は終点の川崎だと告げている。
寝る姿勢が悪かったようで、首の後ろがこっている。でも、少しでも睡眠が取れたのはよかった。父と会うと、結構消耗するのだ。
母が亡くなって以来、父はどんどん頑固になっていく。会いに行っても話が弾むどころか、うるさがられるばかりだった。父は高血圧以外に持病はない。足腰も年の割にしっかりしている。娘に世話を焼かれなくても、暮らせると思っているのだろう。
実際、大きな支障はないようだ。近所のスーパーは惣菜類が充実しているし、徒歩で二十分ほどの川崎駅周辺には、ありとあらゆる飲食店がある。父は生真面目な性格で、洗濯や掃除も苦にならないようだ。健康管理も怠りない。足腰が弱らないよう、週に三度は歩いて海を見に行くのを習慣にしている。夏にスマートウォッチを購入してからは、それで歩数を管理しているのだとか。父は、科学を信奉しているくせに、根っからの文系でデジタル機器が苦手だから、身長や体重などの入力を手伝ってやった。
それはともかく、ひと月に一度の訪問は多すぎるのだろうか。でも、年が年だけに何かあったら心配だ。
川崎駅の駅ビルで、おはぎを購入すると、徒歩で実家に向かった。
チャイムを鳴らすと、父はすぐに出てきた。襟付きの長袖シャツにデニムという若々しい格好だが、怪訝な表情を浮かべている。
「来週の日曜じゃなかったっけ」
「火曜日に電話したとき、次の日曜って言ったつもりだけど」
「そうか。じゃあ、今日だな……。まあいいか。あまり片付いてないけど、上がって」
「うん。おはぎを買ってきたから、お茶を淹れるね。キッチンを借りるよ」
「ああ、頼む。ちょっと二階に行ってくる」
父はそう言うと踵を返した。
ダイニングキッチンに入ると、父がゆっくりと階段を上る音が聞こえてきた。いくら元気でも、足腰は衰えるのだ。うるさがられても、やはり月に一度は、様子を見に来たほうがよさそうだ。
テーブルにおはぎのパックを置くと、手を洗い、やかんに水を注いで火にかけた。食器棚の扉を開け、緑茶の入った缶を取り出そうとして、唯は眉をひそめた。
食器棚の下から二番目の棚に、煎餅の四角い空き缶が置いてある。父はそこに高血圧の薬を入れていた。缶の中を見て、唯は訝しく思った。
缶の蓋が開いているのはいつも通りだが、薬が大量に入っていたのだ。薬局の白い紙袋に入った処方薬ばかりでなく、ドラッグストアで買ったと思しき、紙箱入りの薬も何種類かある。
いつの間にか、薬が増えたようだ。何の薬だろうと思いながら、紙箱の一つを手に取ると、「睡眠改善薬」と書いてあった。他の紙箱もメーカーが違うだけで、用途は同じようだ。
紙袋は三種類あった。袋を一つ一つ開けて中身を改める。一つ目はいつもの高血圧の薬。他の二つは、種類が異なる睡眠薬だった。袋に一緒に入っていた説明書で確認した。
父は不眠なのだろうか……。
自分も悩んでいるので、不眠の辛さはよく分かる。しかし、薬を使うのは考えものである。しかも、こんなにたくさん。
唯は薬を袋に戻し、食器棚から急須と湯呑、そして緑茶の缶を取り出した。
おはぎを皿に移し、小さなフォークを添える。お湯が沸いたので、お茶を淹れていると、父が二階から戻ってきた。ダイニングテーブルの椅子に座りながら言う。
「線香、補充しておいたから、後でお母さんにお参りしてやって」
「うん。そうさせてもらう。来月は命日だね。お墓参りに行くでしょ? お父さんの都合はどう?」
「だいたい空いてる。この年になると、用事なんて医者ぐらいしかないんだ。佑馬と光男さんの都合でいいよ」
父はそう言うと、早速こしあんのおはぎを食べ始めた。
佑馬は分からないけど、光男は来ないと思う。しかし、それを今父に言う必要はなかった。
「ここのは美味いな。甘すぎないところがいい」
瞬く間に一つを平らげ、きなこのほうに手を伸ばす。
唯は父の正面に座ると、さりげなく切り出した。
「さっき食器棚の薬箱が目に入ったんだけど……。お父さん、睡眠薬なんか飲んでるの?」
父はあっけらかんとうなずいた。
「年のせいか、睡眠の質が悪いんだ」
唯は眉をひそめた。
「だとしても、薬は止めたら? 他にできることってあると思う」
「寝る前にスマホを見ないとか、アルコールを口にしないとか、あれこれ試したけど、ダメだった」
「だからといって、薬を使うなんてよくないよ。依存症になるって聞くし、他にもいろいろ怖いことがあるみたいだよ」
正確に言えば、聞いたのではなく調べた。自分も眠れるようになりたかったからだ。
睡眠薬を使っている人のブログに、「スーッと眠れるようになった」と書いてあった。魅力を感じたが、なんだか怖いような気もしたので、さらに調べてみたら、不安を掻き立てられるような情報が山ほど見つかった。一度服用したら止められなくなるとか、気絶するように意識がなくなるとか、認知症のリスクが高まるとか……。
ネットの情報は、玉石混淆だ。鵜呑みにしてはいけないとは思う。でも、薬なんて使わないほうがいいに決まっている。
父はティッシュボックスからティッシュを一枚抜きだし、口元を拭うと笑みを浮かべた。
「大げさに言うな」
大げさではないと思いながら、唯もおはぎを口に運んだ。優しい甘さが舌に広がったが、気持ちが落ち着くどころか、不安がこみ上げてきた。口の中のものを飲み込んだ。
「でも、あんなにたくさん……。ひょっとして薬を増やさないと、眠れなくなっているんじゃない? それって依存症だよ」
「効きが悪いから、あれこれ試しているだけだ。処方薬は高血圧で通ってるクリニックで出してもらってるし、ドラッグストアで買った市販薬なんて、気休めみたいなものだろ。そう心配するな」
「心配しないわけにはいかないでしょ。絶対に止めて」
唯は立ち上がると、食器棚から薬箱を取り出した。箱をひっくり返して、中身をテーブルの上にあける。
父が気色ばんだ。
「何をする!」
「薬を整理しようと思って」
睡眠薬なんて処分したほうがいい。あれば、手を出してしまう。
突然、父がテーブルを叩いた。
「勝手なことをするな!」
唯は、まじまじと父の顔を見た。皺に埋もれた目に、怒りの色が浮かんでいるのを見てたじろいだ。ネットの記事で見かけた「キレる老人」という言葉が頭に浮かぶ。それはそれで心配だが、今は睡眠薬の乱用を止めさせるほうが大事である。
「睡眠薬の危険性を軽く考えすぎてない?」
唯を無視すると、父はテーブルに散らばっている薬を缶に戻し始めた。説明を続けたかったが、父は全身で唯を拒絶していた。
父は薬を缶に収め終えると、唯を見た。
「口出ししないでくれ。息苦しい」
落ち着いた口調だったが、怒鳴られるより応えた。
息苦しい……。
光男にもそう言われた。
家族を思いやり、心配して世話を焼く……。自分は妻として母として、そして娘として当たり前のことをしているだけだ。身を削ってもきた。なのに、そんなふうに言われるのは納得できない。
父は淡々と言った。
「無理して様子を見に来なくてもいい。自分のことは自分でできるし、助けが必要なときには、こっちから連絡するから」
反論する気力は残っていなかった。
唯は父の目を見ないでうなずいた。席を立って和室に移動した。線香を立て、母の位牌に手を合わせたが、頭の中は真っ白だった。
3
火曜日、唯は重い足取りでパート先を出た。
昨夜もその前の夜も、父が心配でほとんど眠れなかった。誰かに相談したかったが、唯にはきょうだいがいない。光男に話しても、親身になってくれるとは思えなかった。佑馬には、電話をしてほしいとメッセージを送ったが梨のつぶてである。
寝不足のせいか、仕事の首尾は散々だった。問い合わせに上手に答えられず、「上司に電話を替わってください」と言われてしまったのだ。しかも、二度も。
落ち込んでいても、しかたがない。それより、今後について考えたほうがよさそうだ。
一年働いてみて分かった。オペレーターの仕事は自分には向いていない。PCの操作がとことん苦手なのだ。今の職場を紹介してくれた元同僚には申し訳ないが、売り場への異動が実現する可能性もなさそうだし、思い切って転職したほうがいいかもしれない。
辛かったけど、この一年間は無駄ではなかったはずだ。パートとはいえ、履歴書に直近の職歴を記入できるのは大きい。今度は、ハローワークを利用してみようか。
交差点で信号待ちをしながら、何気なく横を見た。コンビニのガラス扉に猫背の女性が映っていた。不安そうに眉を寄せ、口角は不機嫌そうに下がっている。とんでもないブスである。でも、それが今の自分だ。
大きく息を吐くと、口角を上げた。
不安だけど、前に進もう。蒼空だって、頑張っているのだ。
信号が変わった。横断歩道を歩き出したとき、長身の男性に追い越された。Tシャツの背中についているロゴマークを見て、唯の胸が高鳴った。
蒼空である。
なんという偶然だろう。奇跡と言ってもいい。いや、そうでもないか。蒼空が所属する劇団の稽古場は、東中野近辺にあるようだ。SNSに投稿されている日常スナップには、東中野界隈のカフェや公園が映っていた。
蒼空は両手をポケットに突っ込み、大股で歩いていく。交差点を渡り切ると、駅と反対方向に曲がった。稽古場にでも向かっているのだろうか。
後について行きたいけど、それではまるでストーカーである。蒼空が女子で自分がおじさんだったら、犯罪的と言われそうだ。いや、性別と年齢が今のままでも、十分不審者か……。
「どうしよう」と心の中でつぶやいたものの、すでに速足になっていた。
毎日こんなにキツイのだ。たまには心がおもむくままに行動したっていいじゃないか。
トートバッグの紐を肩にかけると、唯は蒼空の背中を追いかけた。
落合方面に向かって五分ほど歩いたところで、蒼空はすっと店に入っていった。カフェのようだった。店の名前はカミナーレである。慣れた様子なのは、この店の常連だからだろうか。
唯はガラス窓から店内をのぞいてみた。木製のカウンターやテーブルが爽やかな印象である。カフェ巡りやスローライフが好きな人たちではなく、地元の人や近くに職場がある人が、お茶を飲んだり、軽食をとったりする店のようだ。カウンターの奥には、多くはないが酒瓶も並んでいるから、夜はバー営業をしているのだろう。
三時半という中途半端な時間のせいか、客の姿はなかった。
蒼空は、カウンターの中にいる小太りのおじさんに軽く手を挙げて挨拶をすると、奥のドアに消えていった。
蒼空はこの店の従業員のようだ。小劇団の若手俳優の給料は微々たるものだろうから、稽古場の近くでアルバイトをしていても不思議ではなかった。
状況を理解すると、唯はそっと唾を呑み込んだ。
――これは神様がくれたチャンスかもしれない。
蒼空の後をつけてきたことさえ知られなければ、店に入っても、ストーカー扱いはされないはずだ。
運が良ければ、蒼空とカウンターで差し向かいになれるかもしれない。これは夢ではないだろうか……。
手首の辺りをつねってみたら痛かった。
ガラス戸を開けて、店の中へ入ると、カウンターの中にいるおじさんが笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。カウンターへどうぞ」
唯はカウンターの真ん中らへんの席を選んだ。蒼空がカウンターの左右どちらに立ってもいいように、と思ったのだ。
店の奥の様子をそっとうかがう。蒼空が入っていったのは、トイレだ。着替えをしているのだろう。
おじさんはメニューを差し出しながら言った。
「お医者くん、つまり僕のカフェタイムなんですが、大丈夫でしょうか」
「ええっと、それは……」
弓形の眉を寄せ、申し訳なさそうにおじさんは頭を下げた。
「すみません、表の立て看板、分かりにくかったでしょうか」
そんなものがあったのか。蒼空に気を取られており、まったく気づかなかった。
「この時間は、ドリンク一杯千五百円なんです。しかも、僕が作る何の変哲もないものでして……。もし、普通のカフェと間違えて入ったのであれば、遠慮なく退店してください」
火、木、土以外の日中であれば、バリスタが淹れる美味しいコーヒーが飲めるという。
「何の変哲もない」と店側が言っているドリンクを千五百円も出して飲むのは、気が進まなかった。でも、コーヒー目当てで店に入ったわけではない。
「大丈夫です。アイスコーヒーをお願いします」
おじさんはホッとしたようにうなずき、冷蔵庫を開けた。
そのとき、背後でドアが開く音がした。固唾を呑んで振り返ると、蒼空が出てくるところだった。手ぬぐいで髪を覆っている。
蒼空は唯にかんじのいい笑顔を向け、「いらっしゃいませ」と言うと、カウンターの奥の厨房へ消えた。
蒼空に声をかけてもらえるなんて……しかも笑顔で。
唯の興奮は最高潮に達した。頭の中がしびれるようだ。頬が熱い。心臓が止まりそうだ。
胸のあたりを撫でながら呼吸を整えていると、目の前にアイスコーヒーのグラスが置かれた。
「お待たせしました」
もっさりしたおじさんがニコニコしている。つい、イラっとしてしまった。おじさんが悪いわけではないのだが、感激の余韻が消えてしまうではないか。
厨房の様子をうかがいながら、ストローに唇をつける。何の変哲もないと言っていたが、深みがあってなかなかの味である。
おじさんが話しかけてきた。
「僕は医師で丸山と言います。丸くんと呼んでください」
唐突な自己紹介に面食らっていると、丸山は「お医者くんのカフェタイム」について説明を始めた。医療や健康にまつわる相談があれば、聞いてくれるという。
「なにかあればどうぞ。ええっと、お名前をうかがってもいいですか?」
「篠原です」と言いながら、父を思い浮かべた。
厨房から包丁を使う音が聞こえてくる。蒼空が、カウンターの中に立つことはないようだし、千五百円というのは相談料込みの値段のようだ。
「実は、一人暮らしの父が睡眠薬を使っているんです。しかも、何種類も……。止めたほうがいいと言っても、聞いてくれなくて」
丸山の表情が曇った。顎を喉元にうずめるように、深くうなずく。
「それは困りましたね」
そうなのだ。自分は困っている。
「よかったら詳しく聞かせてください」
渡りに船とはこのことである。唯はアイスコーヒーをストローでかき回すと、話を始めた。