6章 嘘への処方箋
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秋晴れの水曜午後、都内西部にある都立公園のバーベキュー広場で、中野区に本社を置く中堅不動産会社リトルスロープのバーベキュー大会が開催された。集まったのは社員とその家族、合わせて約四十人。自由参加にもかかわらず、社員の出席率が八割近くに上ったものだから、創業社長、小坂芳太郎の機嫌は上々吉である。
「おーい、肉が足りないぞ。それと、そろそろ魚介類も焼いてくれ」
喜寿を迎えたとは思えないほど、張りのある声で言う。
「はい、ただいま!」
大会の幹事で、焼き手も務める高畠慎介は、隣のコンロで野菜を焼いている取締役兼総務部長の飯島倫世に声をかけた。
「すみませんが、ちょっとの間、こっちのコンロの面倒も見ていてもらっていいですか? クーラーボックスから追加の食材を取ってきます」
「オッケー」
飯島は勤続三十年の大ベテランで、社長、専務に継ぐ会社のナンバー3。社長が高齢で半分引退したような状態なので実質的にはナンバー2だが、焼き手が慎介のほかにいないのを見かねて、コンロを一台引き受けてくれた。
「釈迦に説法だと思いますが、トングは生肉と焼けた肉で分けてくださいね」
念押しすると、飯島は首にかけた手ぬぐいの端で汗を拭きながら言った。
「了解。でも、食材は若手を呼んで、取りに行かせたら?」
「僕じゃないと分からないと思うんで」
飯島が苦笑するのを見てヒヤッとした。勤怠管理を担当する彼女に半年ほど前、小言を言われたのだ。
――残業が多すぎる。支店長に頼りにされているのかもしれないけど、上の言いなりになるばかりではダメ。なんでもかんでも引き受けずに、人に任せられることは任せたほうがいい。もう中堅なんだから、全体を見て行動しないと。
確かに自分にはそういうところがある。上司に逆らえない性格なのに、後輩にものを頼むのが苦手で、あれこれ一人で抱え込んでしまう。
全体か……。そう考えたところで気づいた。
「飯島さん、そろそろ食べるほうに回ってください。交代要員を連れてきます」
「いつ言ってくれるんだろうって思ってた。今夜は娘が夜勤で孫を預かるの。早めに引き上げたいのよ」
「すみません、ちょっと待っててください」
トングをコンロの脚についているフックにひっかけ、タープテントの隅に置いてあるクーラーボックスに駆け寄った。ボックスの中を探っていると、ため息が出てきた。コンロ二台でこの人数の胃袋を満足させるのは、どだい無理なのだ。
一月ほど前、専務兼経理部長の大河内元樹に見積書を提出したところ、予算をもっと削れと言われた。無理な注文だと思った。会場は郊外の都立公園に併設された庶民的な施設を選んだ。肉や海産物は当日の朝、激安スーパーで調達した。さらに削るとしたら、食材や飲み物の量を減らすしかないが、それでは参加者から不満が出るだろう。
慎介の説明を聞いた大河内は、軽い調子で言った。
「コンロは三台から二台に、テントは三つを一つに減らせるな。クーラーボックスも多すぎるんじゃない?」
ケチ臭さにうんざりしたが、最近の会社の業績を鑑みると、経費節減はやむを得ない。テントについては了承したが、安全面を考えるとクーラーボックスの数は譲れなかった。コンロも参加人数的に三台は必要なのだ。上の言いなりになるなという飯島の小言を思い出したこともあり、大河内の説得を試みた。
――そこまで言うなら、クーラーボックスは認める。でも、コンロは減らせ。ウチのかみさんが、おにぎり、煮しめ、漬け物なんかを用意すると言ってたから大丈夫だ。
バーベキューで煮しめを食べたい人なんていないと思ったが、ここら辺りが落としどころだと考え、大河内の指示に従った。残念ながら、心配は現実のものになってしまった。材料はたっぷりあるのに焼くペースが遅すぎて、皆に十分な肉や野菜が行きわたらない。大河内夫人が用意した食べ物は、テーブルに放置されている。あれでは夫人が気の毒である。なのに、大河内本人ときたら、タープテント内の特等席で社長と差し向かいに座り、何食わぬ顔で肉を頬張っているのだから、いい気なものだ。
クーラーボックスから牛肉のパック二つと、アルゼンチン赤エビが三十匹入ったビニール袋を取り出した。それを持って、タープの外でテーブルを囲んでいる若手社員グループのところに向かった。
誰かが冗談でも言ったようで、若手たちは笑い転げていた。その様子を見てホッとした。楽しんでくれているようで、何よりである。
会社主催のバーベキュー大会が開かれるのは、今年が初めてだった。定休日に開催されるので、強制参加ではないという。しかし、大河内から送られてきたメールには、「できるだけ参加するように」と書かれており、若手社員を中心に不満が噴出した。貴重な休みが潰れるのは、理不尽だというのだ。
全くその通りだと思った。なのに、幹事をやる羽目になったのは、本社の側にある小料理屋のカウンターに呼び出され、大河内に「頼む」と頭を下げられたからだ。大河内は、身振り手振りを交えながら事情を語った。
リトルスロープは、賃貸物件の仲介と管理を手がけている地元密着型の不動産会社である。アットホームな社風が社長の自慢で、四十年前の創業以来、毎年秋に一泊二日の社員旅行に出かけていた。自由参加にもかかわらず、平成の半ばごろまでは社員の半数以上が参加したのだとか。しかし、令和に入って参加者は激減した。
慎介も八年前に同業他社から転職してきて以来、一度も参加していない。上司に逆らえない性格ではあるが、さすがに断った。行先は毎年同じ山梨県内の温泉宿。夜は下品でカオスな宴会があり、翌朝は六時に宿を出て、九時前に新宿駅に到着。九時半から通常勤務という強行軍だそうだ。誰がそんな旅行に行きたいものか。
大半の社員が同じ気持ちのようで、昨年ついに参加者が社長と大河内を含めて四人になってしまった。
「今年はどうしますか?」と大河内が社長に尋ねたところ、社長はしょんぼりして言ったそうだ。
――もういい。若い連中は俺みたいな爺と話してもつまらないんだろう。
「なんだか気の毒でねえ。それでつい、若い人も参加しやすいように、バーベキューにしましょうって言ってしまったんだ。それなのに若手の集まりが悪かったら、目も当てられない。だから、若手の兄貴分的な立場の高畠に幹事をやってもらいたいんだ。若手を誘ってくれ」
熱っぽく説かれても、気が進まなかった。兄貴分だなんて考えたこともないし、そもそも、自分が参加したくないのだ。しかし、大河内にビールを注がれ、頭を下げられては、断りにくかった。
それに、社長には恩がある。転職してきた当初、貯金がほぼゼロだった慎介に配慮して、自社が管理するアパートに格安の家賃で入居させてくれた。部屋は古く、快適とは言えなかったが、おかげで、二年間で百万円の貯金ができ、当時の彼女にプロポーズできた。あっさり振られてしまったが、社長には感謝している。そろそろ引退だろうし、恩は返しておいたほうがいいかもしれない。
「分かりました。どこまでお役に立てるか分かりませんが……」
大河内は顔をクシャクシャにして、慎介の背中をどやした。
幹事を引き受けてからは、とにかく忙しかった。会場を探したり、用具を手配したりするのはもちろん、注意事項を頭に入れるのも大変だった。
――肉は、切ってからパックされているものを買って来れば、包丁やまな板を通じて菌が移るのを防げる。トングは生肉と焼けた肉で分け、食材はクーラーボックスで保管する。鶏肉や豚肉は中までしっかり火を通す。
料理をほとんどしない慎介にとって、あれこれ覚えるのは一苦労だった。
若手社員への声がけにも心を砕いた。
「休みの日に会社の行事なんて行きたくない」という社員には、「若手同士で固まってていいよ。気の合う仲間で会社のお金で飲み食いすればいいじゃない」と利を説いた。「こき使われるのが嫌だ」という声が出たので、自分で一手に引き受けようと思った。しかし、分量的にどう考えても無理だった。飯島の小言も思い出し、思い切ってベテラン、若手の分け隔てなく割り振った。ベテランから文句が出たが、作り笑いでなんとか押し切った。
あらゆる方面に頭を下げ、駆けずり回り、神経をすり減らした。そして、ようやく今日という日を迎えたのだ。コンロはもう一台欲しかったし、炭おこしをする人や、焼き手をあらかじめ決めておかなかったのは失敗だったが、バーベキュー大会自体は、一応形になっている。このまま無事にすんでほしい。肉やエビが口に入らなくてもいい。ビールも飲まなくていい。三時半に一本締めで会をしめくくり、片づけを終えて四時に会場を出る。そして、自宅の近くにある銭湯の湯船に身体を沈めることだけが、今の望みである。
慎介は若手が集まっているテーブルに近づき、声をかけた。
「悪いけど、誰か焼き手をやってくれない? 飯島さん、まだ何も食べていないんだ」
「すみませーん、僕、料理経験ほぼゼロなんで」
ヒョロっと背が高い貝原が明るく言った。東中野支店の新入社員だ。彼の隣にいたやや年長の社員が同調した。
「俺もです。生焼けで食中毒とか起こしたらまずいっしょ」
二人とも高価なアウトドアブランドの服を着こんでいるくせに、バーベキューの経験もないのか。
「女子はどう?」と振ってみたら、本社経理部の竹本が眉を寄せた。
「高畠さん、言ってましたよね。女子を接待要員にするような、昭和のイベントじゃないって」
焼き手は接待要員ではないと思う。しかし、竹本が他の女子とうなずきあっているのを見て諦めた。慎介は、自分と同じ中井支店に所属する山野舜に声をかけた。彼も貝原と同様、新入社員である。
「山野、悪いけど頼む。肉を網に置いてひっくり返すだけの簡単なお仕事だ。ビールを飲みながらでもできるよ」
小柄な山野はツーブロックの髪を撫でつけながら、不満そうな目で慎介を見上げた。慎介は、山野の四角い顔を見返した。
つい昨日、面倒な客の担当を代わってやったばかりである。山野もそのことを思い出したのだろう。不承不承うなずいた。強制してしまったようで、なんだか落ち着かない。でも、これも仕事のうちなのだ。
山野を促し、コンロのところに戻ろうとしたときだ。大河内の妻が大きなプラスチック容器を抱えてやってきた。中には、海苔を巻いたおにぎりがぎっしり入っている。
「どうぞ召し上がれ。中身は、昆布と梅干しよ。あと、お煮しめも作ってきたから、是非食べて。根菜は身体にいいから」
ちょっとズレている。でも、面倒見のいい人なのだろう。慎介は笑顔で彼女にお礼を言うと、山野に声をかけた。
「俺たちは後でいただこう。飯島さんが待ってる」
山野は缶ビールを持ったまま、歩き出した。
2
バーベキュー翌日の木曜日、朝起きたら身体が鉛のように重かった。アルコールをほとんど口にしなかったのに、ここまでぐったりしているのは、前日、精神的なストレスを受けすぎたからだろう。
ただし、バーベキューの翌日に疲労困憊になるのは、想定の範囲内だった。大きな声では言えないが、あえて内見のアポを入れていなかった。来客の対応をするだけの比較的楽な一日になるはずだ。
ところが、思惑は見事に外れた。山野が体調不良で欠勤したのだ。彼の担当顧客を内見に案内しなければならなかったうえ、来客もいつも以上に多かった。疲れ果て、内見からの帰り道、社用車を運転していて、居眠りをしそうになったぐらいだ。
でも、幹事を頑張った甲斐はあった。その日の業務を終えて帰り支度をしていると、社長から電話がかかってきて、「昨日はありがとう。君のおかげで楽しかった」と言われたのだ。入社時の厚意に対してお返しができたと思うと、爽やかな気持ちにもなった。
その夜は、スーパーでヒレカツ、ポテトサラダと缶ビールを買って帰り、一人暮らしの部屋で晩酌をした。しみじみと満ち足りた気分で眠りについたのは、ずいぶん久しぶりだ。
金曜の朝、スマホの着信音で目が覚めた。電話がかかってきたようだ。こんな時間に珍しい。寝ぼけ眼で枕元に置いてあったスマホを手に取った。
なぜか、スマホの画面は暗いままである。首をかしげかけたが、すぐに理解した。鳴っているのは、会社から支給されているもう一台のスマホだ。壁際に転がしてある通勤用のデイパックの中からそれを引っ張り出し、立ったまま通話を開始した。
かけてきたのは、総務部長の飯島だった。
「高畠くん? 朝早くにごめん」
飯島は、ひどく物憂げだった。
「おはようございます。先日は、お疲れさまでした」
「実はそのことで話があるのよ。昨日の夜、ゲーゲー吐いちゃった」
慎介の頭の中で警鐘が鳴った。嘔吐といえば、食中毒の典型的な症状だ。
ベッドに腰を下ろし、飯島の次の言葉を待った。
「主人に夜間外来に連れて行ってもらったら、よくある感染性の胃腸炎じゃないかって。ただ、バーベキューの翌日でしょ。気になるから、一応、先生にこういうイベントに参加しましたって自己申告したのよ。そうしたら、私一人だけでは判断できないけど、他にも同じ症状の参加者がいるなら、集団食中毒の可能性もあるから、会社から保健所に連絡したほうがいいって」
慎介は、そっと唾を呑み込んだ。
細心の注意を払ったつもりだったのに、こんなことになるとは……。食材の保管方法が悪かったのだろうか。あるいは、肉が生焼けだったのか。エビが古かったのかもしれない。買うとき、妙に安いと思ったのだ。
様々な憶測が頭の中を駆け巡り、胸が苦しくなってきた。