意味が分からない。アイスコーヒーを飲み、丸山の言葉を反芻してみたが、やはり分からない。
「どういうことですか?」
「すみません。質問に答えようとしたら、回りくどくなってしまいました。実は、こういうことなんです」
副作用情報は、治療が必要な患者に薬を投与して集めたものである。健康な人が、必要のないダイエット、つまり美容目的で使用するのとは、状況が違う。
「なので、その副作用情報は当てにならないというか、当てにしないほうがいいというか……。別の言い方をすれば、保険適用外の薬を使用するにあたってのリスクは、リスクがよく分からないことです」
そう言われてもピンと来ない。健康な人と患者とで、副作用の出方にそんなに違いがあるのだろうか。
釈然としない顔をしていたのだろう。丸山は背筋を伸ばすと、改まった様子で言った。
「患者さんに医師が自分の考えを押し付けるのはよくないと思っています。ここでは、カフェスタッフとお客さんですが……。それはともかく、はっきり言いますね。美容目的で肥満治療薬を使うのは、僕は賛成できません」
丸山も、自由診療に否定的な考えを持っているのだろうか。
「自由診療はよくない、ということですか?」
確認すると、そうではないと丸山は言った。
「自由診療にもいろいろあります。たとえば、海外で使われているけど、日本では承認されていない特効薬があったとします。命に関わる病気の患者さんが、それを使いたいという気持ちは分かります。僕の家族がそういう状況になったとき、経済的に許されるなら、自由診療を希望するでしょう。美容目的であっても、必ずしも悪いとは思いません。僕の母は、歯のインプラントを一本何十万もかけてやってます。父はもったいないって言いますが、本人が満足してるし、いいんじゃないでしょうか。ただ、必要のないダイエットのために、リスクをとる必要があるかというと、それは違うのではないかと」
「健康上は必要ないダイエットかもしれません。でも、僕の人生にとっては必要なんです」
霧子のような素晴らしい女性との結婚がかかっているのだ。
「そうですか。でも、僕だけの考えというわけではなくて……」
医師会や関連学会も美容目的で肥満治療薬を使用するのは問題があると考え、注意喚起をしているのだという。
それを聞いて、さもありなん、と思った。ここはベンチャー企業経営者として、一言言わせてもらいたい。
「法律で禁じられてるわけではないですよね。自由診療で肥満治療薬を処方してくれるクリニックは、ちょっと検索しただけでもいくつも見つかります」
「それはそうですね」
「医師会も学会も、そこまで否定的にならなくてもいいんじゃないですか? 医療もビジネスだという感覚を持てない古い考えの人たちが、新興勢力を潰しにかかってるように見えます」
丸山が目を大きく見開いた。
「なんと! そんな受け止め方をする人がいるんですね。驚いたな。そういうことではまったくないんですが……。うーん、難しい」
丸山は、突然後頭部をバリバリと掻き始めた。不潔だなと思っていると、ハッとしたように頭から手を離し、少し奥にある流しで手を洗い始める。
奥にある厨房から、料理人らしい若い男性が皿を手に出てきた。羨ましくなるぐらいシュッとしている。
男性は、カウンターの端に座っている女性二人の前に皿を置いた。「新メニューを考案中なんです。試食してもらっていいっすか」
女性たちが、嬉々としてフォークに手を伸ばす。
その様子を横目で見ながら、そろそろ引き上げることにした。さっき丸山が言っていたサイトは、公的機関のものだそうだから、調べればすぐに見つかるはずだ。
そのサイトで、主な肥満治療薬の副作用情報を検索してみよう。そして自分なりにリスクを評価してみるのだ。そのうえで、自由診療の医療機関を受診するか決めればいい。
ただ、医療情報を自己判断する愚を犯す気はなかった。医療機関を受診して薬の処方を受けると決まったら、その時に改めて医師に副作用を確認するつもりだ。
丸山はタオルで手を拭くと、幸弥のところに戻ってきた。女性たちの声に負けないよう、さっきより少し大きな声で言った。
「製薬会社はビジネスとして薬を売っていますよね」
当たり前である。いったい何を言い出すのかと思ったら、丸山は勢い込んで言った。
「製薬会社も肥満治療薬を美容目的で使うことに、問題があると考えていますよ」
「そうなんですか?」
「予期しない健康被害が出たら製薬会社も困るんです。必要な患者さんに薬が行きわたらなくなる恐れもあるし」
幸弥は思わず苦笑を漏らした。
「薬が足りなくなったとしたら、それは需給を見誤った供給側の問題では?」
丸山が困ったように目を瞬いた。
「いや、そうではなくて……」
これ以上、丸山と議論をしてもしようがない。ポケットから財布を取り出し、千円札を二枚差し出した。
副作用情報を調べられるサイトがあると分かっただけでも大きな収穫だ。
「ありがとうございました。お話、参考にさせてもらいます」
丸山は、情けなさそうな目をして札を受け取った。レジから五百円玉のおつりを出すと、「お医者くんカフェ」のショップカードとともに差し出す。
「またぜひ来てください。別料金にはなりますが、個別相談もできます」
その気はないが、カードを突き返すのも大人げない。幸弥は無言でそれらを受け取った。
歩いて帰宅すると、汗だくになった。二百グラムぐらいは痩せただろうか。とりあえず、シャワーを浴びることにする。
浴室を出ると、Tシャツと短パンに着替え、首にタオルをかけてキッチンに向かう。水分補給をしたかった。
いつの間にか、若菜が帰宅していた。リビングのソファでスマホを触っている。テントウムシみたいなアートを施したネイルを素早く動かしながら、画面に見入っていた。
半月ほど前に、美容整形の件で言い争ってから、若菜とはろくに顔を合わせていなかった。向こうは帰宅すると自室にこもって出てこない。そもそも毎晩のように帰宅が遅いのだ。
夏休み中である。羽を伸ばしてもいいと思うし、うるさく言ったら嫌われるのは分かっていたが、親としては心配である。
幸弥は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出した。それを持って、ダイニングテーブルにつく。
「最近、帰りが遅くないか?」
さりげなく声をかけてみたが、若菜は無言だった。視線を上げようともしない。
「ちゃんと返事をしなさい。毎晩のように、どこで何をしているんだ」
若菜はピンクっぽいベージュに染めた髪をかき上げると、つけまつげをバサバサさせながら、投げやりな口調で言った。
「バイト」
「何のバイトだ」
「お父さんに関係ない」
「夜の仕事じゃないだろうな。キャバクラとか」
「キャバ嬢なんかできるわけないでしょ。私、ブスだもん」
そう言うと、若菜はリップグロスでテカテカしている唇の端をひゅっと上げて笑った。
「バイト代が貯まったら、整形するからね」
まだそんなことを言っているのか。舌打ちをしたい気分だった。幸弥に言わせれば、ヘンテコな化粧をしているから、かわいく見えないのだ。
「整形は許さないって言っただろ」
「言ってないね。お金は出さないって言われただけだよ。だから自分で稼ぐことにしたんでしょ」
「止めておきなさい。お母さんだって、反対するに決まってる」
若菜は一瞬強張った表情を浮かべたが、諦めたようにため息をついた。
「それはそうでしょ。あの人は、自称自然派でオシャレなんて大嫌いだもの。見てくれなんかどうでもいい、土にまみれて働く姿こそ美しいって本気で思ってる。でも、私はそうは思わない」
幸弥は苦い思いで、水を飲んだ。
幸弥も、元妻のそういうところについていけなくなったのだ。彼女に言わせれば、幸弥のほうが変わったらしいが。
ポタジェの前身となる会社を設立した当初、幸弥と元妻は二人で屋上緑化サービスを手がけていた。依頼主から注文を受け、詳しくない人が見たら、ただの雑草にしか見えない植物をシート状の土に植えたものを屋上に敷き詰めるのだ。自治体によっては、緑化事業に助成金が出ることもあり、仕事はそこそこあった。
そのうち娘も生まれた。一家三人の暮らしは、ささやかながら幸せだった。
ただ、何年も同じ仕事をしていると飽きが来る。幸弥は新しい仕事を手がけたくなった。あれこれ考えてよさそうだと思ったのが、ガーデン風の屋上菜園である。
千葉にある幸弥の実家では、母が小さな庭をイギリス風のガーデンにして、四季の花を楽しんでいた。あの雰囲気を野菜で再現したい。野菜の花や実は結構きれいなのだ。食べておいしい、見て美しい、そのうえ緑化ができるなら、一石二鳥どころか三鳥ではないか。
企画案を作ってクライアントに持って行ったら、「ぜひやりましょう」と言われ、有頂天になった。ところが、企画はとん挫した。元妻が猛反対したのだ。
目的は緑化である。余計なことをせず、緑化効果を最大に引き出せる設計にするのが筋だと言って譲らなかった。
元妻は元々環境問題に貢献したいという強い気持ちを持っていた。真面目でまっすぐで、信念を持つ人だから好きになった。
その一方で、自分の企画を実現したい気持ちも揺るがなかった。そこで、会社を分けて別々に仕事をしようと提案したが、妻は首を縦に振らなかった。自分一人で会社はやっていけないという。そして、会社も夫婦もやめたいと言い出したのだ。
離婚には抵抗があった。若菜のことがあるからだ。しかし、「環境をダシにしてチャラチャラしたガーデンもどきを作るなんて」とまで言われては元のさやに戻れる気がしなかった。
離婚が成立すると、元妻は若菜を連れて神奈川県にある実家に戻った。実家は農家である。彼女は渋る父親を説き伏せ、有機農法で野菜作りを始めた。努力の甲斐があって、今では宅配で野菜を定期購入してくれるお客さんが大勢いるそうだ。すごい女性だと思う。心から尊敬しているし、彼女らしい生き方を見つけられてよかったと思う。ただし、離婚のせいで、若菜を辛い目に遭わせてしまった。
若菜は高校までは素朴な雰囲気だった。子どもらしくていいと思っていたのだが、地味で飾りけのない身なりは、本人ではなく母親の強い意向だったようだ。若菜の祖母に当たる人は他界しており、元妻の父親は幸弥同様、女の子の服や髪型について、何も分からない人だった。
こっちに来てからの若菜は、当時の反動のせいか日に日に派手になっていった。見かねて注意したこともある。しかし、高校時代、化粧、ヘアカラー禁止はもちろん美容院にすら行かせてもらえず、級友の一部から「ダサい」、「ブス」と笑われていたと聞いて、何も言えなくなった。帰省の時は、髪を黒くしてネイルを落とし、化粧もしないが、それはそれで心が痛む。
母親の方針が厳しすぎて辛かったのなら、言ってくれればよかったのだ。そうしたら、幸弥から元妻に意見していた。若菜にそう伝えもしたが、鼻で笑われた。離れて暮らす親ができることには限界があると、子どもなりに感じていたようだ。
今の若菜は、母親と距離を置き、自分の人生を歩き出そうとしている。派手な格好をしていても、大学には真面目に通っており、成績は優秀だ。ちなみに専攻は環境学である。若菜の部屋で見つけた『沈黙の春』の新装版は、相当読み込まれていた。環境問題を世に知らしめた不朽の名著は、元妻の愛読書でもあった。
若菜は母親を疎んじつつ、母親の背中を追いかけている。そんな自分に矛盾を覚え、葛藤しているのだ。
元妻のほうは、若菜を束縛する気はないようだ。十八歳になり、成人したのを機に、本人に任せることにしたのだろう。
父親としては、若菜が落ち着くまで見守るしかない。頭ごなしに整形を否定しないほうがいいのは分かるし、今どき、整形は珍しくないとも聞く。本人には聞けないが、霧子だってたぶん顔をいじっている。
それでも、娘のこととなると、なんで整形なんか、という気持ちになってしまう。親の都合で辛い経験をさせて、本当に申し訳なかった。でも、強くて賢い娘だから乗り越えられる、という期待も抱いてしまうのだ。
なんと言えば分かってくれるだろう。迷っていると、若菜がいきなり言い出した。
「お父さんに私を止める資格なんてないね」
「どういう意味?」
若菜はローテーブルに放り出してあった幸弥のスマホを指さした。
「さっき、クリニックからカウンセリングがどうこうっていうメッセージが着信してた」
血の気が引く思いだった。スマホにロックはかけてあるが、メッセージが着信すると、その一部が表示される仕様なのだ。
若菜は冷ややかな目をして言った。
「なんの病気だろうって心配になって、クリニックの名前を検索したんだ。そうしたら、自由診療で痩せ薬を出してるところだった。美容整形と何が違うの?」
幸弥は思わず腰を浮かした。
「いや、そうじゃない。誤解だ。カウンセリングを受けようとしたけど、キャンセルしたんだ」
「あっ、お父さん、今、認めたね。痩せ薬を使おうとしてたこと、認めたね」
畳みかけられ、言葉を失う。そういうところは、母親に似てほしくなかった。
「いや、その……」
「もしかして、付き合ってる女の人に痩せろって言われた?」
図星を指され、うつむいた。
「痩せ薬を使いたいなら、好きにすれば? 私も好きにさせてもらうから。費用もお父さんには頼りません」
「いや、でも……。美容整形には、リ、リスクがあるんじゃないか?」
しどろもどろになってしまった。咳ばらいをすると、丸山の言葉を必死で思い出し、アレンジを試みる。
「ええっとだな……。医療上必要ではない美容整形のために、リスクをとる必要があるかというと、それは違うのではないか、と思うんだ」
若菜が顔をしかめた。眉を寄せ、唇を突き出す。
「は? 何言ってるか分からない」
幸弥自身も、うまく説明できる気がしなかった。
「ちょっと電話を……。予約が取れたら出かけるよ」
「出かけるって? これから?」
「分からん。予約次第だな」
「私、暇じゃないんだけど」
「いつなら時間がある?」
「平日はバイトだね」
「ということは、日曜なら時間があるんだな?」
「っていうか、どこに行くの?」
「僕の知ってる医者のところだ。美容整形のリスクについて、専門家の意見を聞いてみようじゃないか。その結果次第では、考え直してもいい」
丸山なら、きっと反対してくれる。
何か言いたそうな若菜を無視して、幸弥は財布から丸山にもらったショップカードを取り出した。