ベビーカーの中で、真鈴が声を上げた。真鈴もきっと臭いのだ。
真鈴を抱き上げ、あやしていると、厨房からスラっとした若い男性が出てきた。端整な顔を歪めながら言う。
「なんですか、この臭い」
「糠床だって。ソラくん、ちょっと見てくれる? カビだよね」
ソラと呼ばれた男性は、ショウコの手から容器を受け取ると、中身をしげしげと見た。
「あー、これ、産膜酵母っすね。発酵に関係する酵母の一種で、糠床に混ぜこむと、ワンランク上の味になりますよ。小料理屋でバイトしてたとき、女将さんに教わりました」
信じられなかった。あれを混ぜこんだ糠床で漬けた野菜なんて食べたくない。しかし、ショウコと丸山は、感心した様子で話を聞いている。
ソラは続けた。
「ただ、ちょっと多いかな。白っぽいところを半分ぐらいすくって捨ててから混ぜこむと、いいかんじになると思います」
容器の蓋を閉め、美央の目の前のカウンターに置くと、ソラは人懐っこい笑みを浮かべた。
「ぜひ!」
ショウコが羨ましそうに容器を見ていた。
「糠漬け、私も始めてみようかな。微生物ワンダーランドってかんじで楽しそう」
「簡単っすよ。いろんなもの漬けられるし」
「たとえば?」
「ゆで卵とか」
「えー、それ、絶対に微妙」
ソラとショウコは、二人で盛り上がり始めた。
真鈴は大人しくなっていたが、話に加わる気はなかった。酵母だかなんだかしらないが、あんな不潔なものを糠床に混ぜこむなんてあり得ない。糠漬けを始めてみようという気持ちは、完璧に失せていた。
そんな自分は、潔癖すぎるのだろうか……
視線を感じて顔を上げると、丸山と目が合った。首を横に振っていた。
気にする必要はない。そう言ってくれているようだ。
美央は複雑な気分でうなずいた。
その夜、家族三人で夕食のシチューを食べていると、インターフォンのチャイムが鳴った。
優斗が首をかしげる。
「こんな時間になんだろう」
「宅配便かな」
実家の両親は、時々予告なしに自家菜園で採れる野菜を送ってくるのだ。
席を立ち、壁にかかっているモニターの画像を確認して、美央は絶句した。啓子だった。しかも泣いているようだ。ダイニングテーブルの優斗に声をかける。
「お義母さんが来てる」
優斗があんぐりと口を開けたかと思うと、不機嫌な顔になった。
「いったい何を考えているんだろう。追い返そうか」
そうはいかない。今日、啓子に会いに東中野まで行ったのは内緒だから詳しくは話せないが、啓子の身の周りで緊急事態が発生したのは確かなのだ。
「わざわざ来たのは、何かあったからでしょ。入ってもらうからね」
美央は宣言すると、玄関に向かった。
ドアを開けると、目元を赤く腫らした啓子が立っていた。いつもは丁寧に整えられているおかっぱの髪が、四方八方に乱れていた。自家用車で来たのだとは思うが、服も部屋着のようだ。
啓子はかすれた声で尋ねた。
「優斗、帰ってる?」
「はい。今、ご飯の最中で……」
啓子は靴を脱ぎ捨て、美央を押しのけるようにして、廊下の奥へ向かった。手を洗ってほしいと思ったが、さすがにこの状況では言えない。美央は啓子の後を追ってリビングダイニングへ向かった。
優斗が困惑の表情を浮かべながら、スプーンを置いた。
真鈴が「ばあば」と言いながらチャイルドシートから手を伸ばしたが、啓子は彼女に目もくれなかった。優斗に駆け寄ると、彼の腕をかき抱くようにして、激しく泣き始めた。
優斗もさすがに驚いたようだ。
「とりあえず、座って落ち着こうか」
優斗は啓子の背中を支えながら、ソファへ向かった。
もはや食事どころではなかった。美央は真鈴をチャイルドシートから抱き上げた。寝室に連れて行き、ベビーベッドに寝かせる。しばらく真鈴と二人でこの部屋にこもっていようと思った。寝室はリビングダイニングと引き戸一枚を隔てただけである。声は筒抜けだが、二人の声が届かない場所といえば、トイレや浴室、あるいは玄関しかなかった。真鈴を抱いて玄関に立っている、というのもかなり不自然だ。
啓子が涙声で話を始めた。
「まどかが……」
都内の女子高で国語教師をしている優斗の姉である。
「姉さんに何かあったの?」
「あの子、同じ学校の先生と不倫してたのよ。しかも妊娠してるんだって。私、今日、美央さんと待ち合わせてたでしょ」
ドキッとした。それを言われるのは困るのだ。しかし、優斗が気にする様子はなかった。啓子は続けた。
「支度をして家を出ようとしていたら、まどかから電話がかかってきたの。慌てて、まどかの部屋に行ったんだけど、学校も辞めたらしくて……」
東中野の家からまどかの自宅に行く途中に、カフェ・カミナーレはあった。立ち寄って、糠床を預けてくれたのだろう。
啓子は、声を上げて泣き始めた。
それにしても意外だ。まどかは、真面目を通り越して堅物という印象の女性だ。教師という職業に情熱を燃やしているようで、結婚はもちろん、恋愛にも興味がないようなことを言っていた。
「姉さん、子どもを産むつもりかな。父さんはなんて?」
「本人が決めるしかないって言ってる。でも、私は許せない。不潔すぎるわ!」
「相手の男は、どうするつもりなんだろう」
「知るわけないでしょ。まどかによると、その男、私たちと会いたいそうなんだけど、妻に隠れてコソコソ不倫するような不潔な男に会うなんて、とんでもない。考えるだけでぞっとするわ。まどかは、あんたと違って、しっかりしてると思ってたのに」
少し引っかかるところがあったが、啓子のすすり泣きの前では言葉も出ない。
「で、母さんは、どうすればいいと思うわけ?」
「分からない。分からないけど、許せない。自分の娘が、不潔なことをしたのが耐えられないのよ。まどかとは、絶縁する」
優斗が、憂鬱そうな声で言った。
「俺が姉さんと話してみようか」
「余計なことしないで。絶縁するんだから」
「しばらく様子を見るしかないのかな」
「子どもが生まれたらどうするのよ」
「どうするもなにも……。まさか、おろせとも言えないだろ」
「だから絶縁するんでしょ。ああもう、本当に嫌。不潔すぎて、考えるだけで頭痛がしてくる」
「母さん、落ち着いて」
うんざりしたような優斗の声を聞きながら、美央の胸にモヤモヤとしたものが広がった。
不倫を肯定する気はないし、不潔だと思う啓子の気持ちも分かる。
でも、啓子の話とまどかの性格を考え合わせると、遊びの恋ではなかったのだろう、とも思うのだ。男のほうも、逃げるつもりはないようだ。
なのに、「不潔だ」と決めつけ、断罪し、まどかに絶縁を言い渡すのは、何か違うような気がする。
啓子にとっては青天の霹靂だったろうから、取り乱してしまうのはしかたがない。でも、なるべく早く気持ちを落ち着けて、まどかの話をしっかり聞いたほうがいいのではないか。
美央の母親だったら、そうしてくれるはずだ。不倫、妊娠が発覚したら、めちゃくちゃ怒られると思う。一発や二発、頬を張られるかもしれない。でも、絶縁を言い出したりはせず、一緒に解決策を考えてくれると思う。
もしかすると、啓子は男女の問題について、人一倍潔癖な性格なのではないか。
思い返せば、優斗と結婚する際も、妊娠と結婚の順番が違うと、散々嫌みを言われた。授かり婚なんて今どき珍しくないのに、と不満だったが、啓子の目から見た美央は、不潔だったのかもしれない。
次の瞬間、「お互い様」という丸山の言葉がすっと腑に落ちた。
衛生問題について、啓子が美央に対して抱いている違和感は、今の美央が啓子に覚えている違和感と同じようなものなのだろう。
真鈴が寝息を立てているのを確認すると、美央は寝室を出た。啓子は背中を丸めて泣いている。
優斗が助けを求めるような視線を向けてきた。
「すみません。話、聞こえちゃって。大変でしたね」
美央が声をかけると、啓子は洟をすすり上げた。
「ごめんなさいね。恥ずかしいわ。でも、ショックでショックで……」
「分かります。でも、気持ちを落ち着けて、お義姉さんが今後、どうしたいのか聞いてみたらどうでしょう。妊娠しているとなると、いろいろ不安だと思うし」
啓子は激しい勢いで首を横に振った。
「聞きたくない。絶縁するしかないのよ」
美央は思い切って言った。
「お義母さん、それはちょっと潔癖すぎるかもしれません」
啓子は気の抜けたような顔をしたかと思うと、首を傾げた。
「潔癖……私が?」
「はい」
不倫がよくないのは当然だ。でも、これは家族の問題である。「不倫は悪」で思考停止するのはいかがなものか。不倫が発覚した政治家や芸能人を安全地帯から糾弾するのとは訳が違うのだ。どうにかして、着地点をみつける必要がある。
優斗がうなずいた。
「そうだな。今度の週末に東中野に行くよ。姉さんにも来てもらってどうするつもりなのか、聞いてみよう。母さんも、それまでに気持ちを落ち着けて」
「潔癖、私が潔癖……」
啓子は納得がいかないようにつぶやいていた。
きっとそのうち啓子にも分かる。分からなければ、一緒に丸山の話を聞きに行ってもいい。不潔のツボは人によって違うのだ。
美央は麦茶を用意するために、キッチンへ向かった。